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第10話 強引な招待状と絶望の鐘

コテージでの甘く背徳的な一夜から、数日が過ぎた。

学園内は嵐の前の静けさのような不気味な沈黙に包まれていた。


レオンハルト様からの接触は一切ない。

いつもなら義務的な茶会の誘いや、生徒会の雑務の言いつけがあるはずなのに。

その空白が、逆に私の胃の腑を重くする。

何かが水面下で進んでいる。それも、私の意思を無視した取り返しのつかない何かが。


昼休み。その不安は、唐突なノックの音と共に現実のものとなった。


「……ローゼンバーグ様。生徒会より、至急の呼び出しです」


教室の扉が開き、入ってきた生徒会役員が真っ直ぐに私の席へと歩み寄ってくる。

その顔色は見ていられないほど青ざめていた。

周囲のクラスメイトたちがざわめき、好奇と同情の混じった視線を向けてくる。

私は覚悟を決め、震える膝を隠して席を立った。


          ***


生徒会室の重厚な扉を開ける。

鼻を突くのは、古びた羊皮紙と煮詰まった珈琲の苦い匂い。

けれど今日はそれに混じって焦げ付くような苛立ちの気配が充満していた。


「……来たか、アルテミス」


書類の山から顔を上げたレオンハルト様を見て、私は息を呑んだ。


彫刻のように整っていた美貌は血の気を失い、冷たい陶器のように蒼白だった。

目の下には薄く憂いの影が落ち、頬のラインは以前よりも鋭く研ぎ澄まされている。

完璧主義の彼が乱れた金髪が目にかかるのも構わず、(くら)い光を宿した瞳で私をじっと見つめている。


その眼差しにあるのはかつての絶対的な威圧感ではない。

砂の城が崩れるのを必死で手で押さえようとするような、脆く、危うい焦燥感だった。

その痛々しいほどの美しさに私は一瞬、言葉を失った。


カツ、と乾いた音が響く。

彼が震える手で、一枚の羊皮紙を机の上に滑らせた音だ。

そこには王家の紋章が入った封蝋が押され、最高級のインク特有の鉄錆にも似た鋭い匂いが漂っていた。


「……レオンハルト様。これは?」


「招待状の原案だ」


彼の声は、擦り切れた弦楽器のように掠れていた。


「来月の、卒業パーティー。……その翌日に、私たちの結婚式を挙げる」


ドクリ。

心臓が嫌な音を立てた。

指先から急速に血の気が引いていく。

呼吸が浅くなる。

視界の端がチカチカと明滅し、足元の豪奢な絨毯が、底なしの泥沼のように私を引きずり込んでいく感覚に襲われる。


「……けっ、こん?」


喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

ありえない。

私はまだ1年生だ。卒業まであと2年ある。

なのに、来月?


「そうだ。陛下と父上の許可は取り付けた。式場は大聖堂を押さえてある。衣装の手配も、新居の準備も、すべて私が終わらせた」


彼は早口でまくし立てた。

まるで、言葉を重ねることで、私の沈黙を埋めようとするかのように。

彼は立ち上がり、執務机を回り込んで私の前に立つ。

近づくと、インクの匂いに混じって彼自身の焦りと疲労の熱気が伝わってきた。


「急なのはわかっている。……だが、もう待てないんだ」


彼は私を見るようでいて、焦点が合っていない。

まるで、見えない「何か」に追われているかのように目が泳いでいる。


「学園内には、君に関する根も葉もない噂が流れている。……私は、それが許せない」


「噂、ですか」


「ああ。君の名誉が傷つけられている。……だから、誰の目にも明らかな、絶対的な『形』が必要なんだ」


彼は不器用に手を伸ばし、けれど触れることを躊躇うように空中で止めた。

その指先が小刻みに震えているのが見える。


「私たちが夫婦になれば、誰も君を疑わない。……誰も、君に手出しできなくなる」


「……」


「そうすれば……この不確定な状況も、すべて終わる。……安心できるんだ」


安心できる。

その言葉の主語が「君」ではなく「(レオンハルト)」であることは、誰の目にも明らかだった。

彼は私を守りたいのではない。結婚という鎖で私を繋ぎ止めたいだけだ。

それは愛ではなく、ただの所有欲と執着。


私は心の中で絶叫した。

恐怖で、奥歯がガチガチと鳴る。


(……逃げられない)


ゲームのシナリオでは、断罪イベントは2年後だ。

その時に「婚約破棄」されて追放される。それが私のバッドエンドだったはずだ。

けれど、もし今、結婚してしまったら?


「婚約者」なら破棄で済む。けれど「妻」になってしまえば、簡単には別れられない。

もし2年後、彼が「真実の(ヒロイン)」に目覚めた時、邪魔な正妻である私はどうなる?

追放では済まない。

法的に排除するために――「処刑」あるいは「暗殺」される未来しか残っていない。

今ここで結婚を受け入れることは、2年後の死刑執行同意書にサインするのと同じだ。


「……どうした? 顔色が悪いぞ」


私の沈黙に耐えきれず、レオンハルト様が一歩踏み込んできた。


「アルテミス。……君も、望んでくれるだろう? ずっと、私の妻になりたいと言っていたじゃないか」


縋るような声。

かつての、ちいさい子供の頃の私なら泣いて喜んだかもしれない言葉。

けれど今はその言葉が鎖の擦れる音にしか聞こえない。


「……少し、考えさせてください」


私は淑女の礼を保つのもやっとの状態でその場を辞した。

背中に彼の悲痛な、そして粘着質な視線が突き刺さるのを感じながら。


          ***


重厚な扉が閉まった瞬間、私の足は勝手に動いていた。


「……はぁ、はぁ、っ」


廊下を走る。

淑女にあるまじき速度で。

ヒールの音が不規則に、そして高く石床を叩く。

すれ違う侍従たちが驚いたように道を空け、怪訝な視線を向けてくるのがわかった。

けれど、もうどうでもよかった。

公爵令嬢としての矜持も、婚約者への義理も、今の私には重たい足枷でしかない。


『来月の卒業パーティーの翌日、結婚式を挙げる』


その言葉が、背後から猛獣のように追いかけてくる。

捕まれば、終わりだ。

妻という名の牢獄に入れられ、殺されるのを待つだけの未来。


(嫌……っ!)


恐怖で呼吸が過呼吸気味になる。

肺が焼けつくように熱い。

けれど、その恐怖の裏側で、もっと強烈な感情が鎌首をもたげていた。


――会いたい。


その衝動は、発作のように私の理性を食い破った。

助けてほしいのではない。

ただ、あの温もりに触れたい。

あの腕の中に飛び込んで、この凍えるような孤独を埋めたい。

それは、恐怖に晒された心が無意識に求める、唯一の救いだった。


本来なら、私はここで耐えなければならない。

レオンハルト様の不器用な誠意に向き合い、悲劇を回避するために冷静に対処すべきだ。

それが「正しい」ことだと分かっている。


けれど、私は「正しさ」よりも「安らぎ」を選んだ。

私を甘やかし、全肯定し、守ってくれる、あの場所へ。


私は学園の裏手へ続く扉を蹴るように押し開けた。

夕暮れの森。

冷たい風が頬を打ち、乱れたプラチナブロンドの髪が視界を遮る。


木々のざわめきが、私を誘う手招きのように聞こえた。

この森の奥にあの人はいる。

私をこの恐怖から守ってくれる人が。


(……私、もうダメかもしれない)


ドレスの裾が泥で汚れるのも構わず、私は森の小径を駆け抜けた。

心臓が早鐘を打っているのは、恐怖のせいだけではない。

これから犯そうとしている「逃避」への期待感が混じっている。


視線の先に瀟洒なコテージの明かりが見えた。

オレンジ色の暖かな光。

それが、泥沼に沈む私に垂らされた、唯一の蜘蛛の糸に見える。


私は最後の力を振り絞り、テラスへの階段を駆け上がった。

そして、躊躇うことなくそのガラス戸を叩く。


「……シエルお姉様ッ、シリウス様……ッ!」


なりふり構わず名を呼んだ。

直後、中から鍵が開く音がして、ガラス戸が勢いよく開かれた。


そこには、驚いたように目を見開く長身の影があった。

シャツのボタンを寛げ、銀青色の髪を乱した姿の彼――シリウス・フォン・ウィンターフェルド。


「アルテミス……?」


その低く、甘い声を聞いた瞬間。

私の膝から完全に力が抜けた。


「……もう、無理なんです」


私は崩れ落ちるように、自分からその逞しい胸に飛び込んだ。

驚いて固まっていた彼の手が、すぐに私の背中に回される。

温かい。

硬い筋肉の感触。

鼻腔を満たす、あの痺れるようなミントの香り。


「私を……隠してください」


私は彼のシャツを強く握りしめ、縋るように訴えた。

もう、立派な公爵令嬢には戻れない。

この温かい腕の中に怖いことなんて全部預けてしまいたい。


「誰にも見つからないように、あなたの腕の中に……私を、隠して」


それは明確な「逃避」の宣言だった。

私は自ら、この手で退路を断ったのだ。


頭上で、彼が息を呑む気配がした。

次の瞬間、私の身体は宙に浮いていた。

彼が私を軽々と抱き上げ、コテージの中へと連れ込んだのだ。

背後でガラス戸が閉まり、外の世界(げんじつ)が遮断される。


「……いいよ」


耳元で、甘露のような声が囁かれた。


「望むままに。……僕の可愛い共犯者」


彼は私を抱いたまま、深淵のような青い瞳で私を見つめた。

そこには獲物を待ち構えていた策士の顔ではなく、愛する者が自ら巣に飛び込んできたことに打ち震える、一人の雄の歓喜だけがあった。


私はその瞳に吸い込まれるように、彼の首に腕を回した。

もう、戻れない。

戻りたくなんて、ない。


          ***


暖炉の薪がパチリと静寂を揺らした。

コテージの中は、外の寒気が嘘のように温かい。

けれどソファに座らせられた私の震えは、まだ止まらなかった。


目の前に差し出されたマグカップ。

湯気と共に立ち上る甘いホットミルクの香りが、凍りついた鼻腔をゆっくりと解凍していく。


「……落ち着いたかい?」


シリウス様が私の足元に片膝をついて覗き込んだ。

その青い瞳は、どこまでも静かで、深い。

私が無様に泣きじゃくり、事情を話している間も彼は一度も口を挟まなかった。ただ私の背中を一定のリズムで摩り、その大きな手で私の冷え切った指を温め続けてくれた。


「……はい。……ごめんなさい、取り乱してしまって」


私は両手でカップを包み込み、小さく頷いた。

温かい陶器の感触。

それが今の私に残された唯一の命綱のように思える。


「レオンハルト様が……結婚式を、早めると」


口にするだけで、再び恐怖が喉元までせり上がってくる。

『卒業パーティーの翌日』。

その言葉は私にとっての死刑宣告だ。

逃げ場のない断崖絶壁に追い詰められたような、圧倒的な閉塞感。


「彼は……本気です。私の気持ちなど関係ない。ただ、私を『公爵夫人』という鳥籠に閉じ込めることしか考えていない」


「……愚かだな」


シリウス様が、低く呟いた。

その声には侮蔑の色はない。ただ、愛し方を知らない哀れな男への、静かな怒りと憐憫だけが含まれていた。


「……君の心が彼の手からこぼれ落ちたことに気づき、力尽くで繋ぎ止めようとしたわけか」


彼は私の手からカップを取り、サイドテーブルに置くと、空いた私の両手を自分の大きな掌で包み込んだ。

熱い。

その体温が、皮膚を通して私の血液に流れ込んでくる。


「アルテミス。……君は、どうしたい?」


「私……は」


私は唇を噛んだ。

どうしたい?

そんなの、決まっている。


「怖いです……。あんな冷たい場所に戻るのは、もう嫌」


綺麗な言葉なんて出てこない。

ただ、本能が叫んでいる。


「私は……あなたの傍に、いたいのです……」


蚊の鳴くような声だった。

けれど、彼はそれを聞き逃さなかった。

青い瞳が揺らめく炎のように熱く輝く。

彼は私の手の甲に額を押し当て、祈るように目を閉じた。


「――誓おう。その願い、僕が必ず叶えてみせる」


顔を上げた彼の表情は、騎士のように凛々しく、同時にすべてを包み込む父性のような慈愛に満ちていた。


「結婚式の準備が進んでいる以上、ここで逃げ回っていてもジリ貧だ。……元を断つ必要がある」


「元……ですか?」


「ああ。レオンハルトに許可を与えた人物。……君の父親、ローゼンバーグ公爵だ」


父。

その言葉を聞いた瞬間、私の肩が強張った。

父は厳格な人だ。

「家」と「義務」を何よりも重んじ、私の意志など歯牙にもかけない。

あの日、私の婚約破棄の訴えを一蹴した冷ややかな瞳が脳裏をよぎる。


「無理です……! お父様は、私の話なんて聞いてくれません。ましてや、王家の承認がある結婚を覆すなんて……」


「一人では無理かもしれない」


シリウス様は立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。

そして、怯える私の肩を強く抱き寄せる。


「だが、君は一人じゃない。僕も行くよ。……君の実家へ」


「え……? お姉様も?」


「ああ。ただし――『シエル』としてではない」


彼は自分の胸に手を当て、不敵に微笑んだ。


「この姿で行く」


「で、ですが! そんなことがバレたら……!」


私は驚愕に目を見開いた。

あのお父様の前で、変身魔法を使ったまま対峙するつもりなの?

もし魔力が切れたりして、中身が女性だとバレたら……!


「構わない」


彼は私の言葉を遮り、力強く言い切った。


「君が恐怖に震えているのに、体裁を守って指をくわえているつもりはない。……それに、僕が行けば、君の父親も無下にはできないさ」


彼は不敵に笑い、私の目を見つめた。


「『ウィンターフェルド大公家』の名を使えばね」


「え……っ!?」


私は言葉を失った。

お姉様の実家である大公家の名前を、この架空の「従兄」設定で使うつもり…?

それはあまりにも大胆不敵な嘘だ。もしバレたら、お姉様自身が勘当されてしまうかもしれない。


「そ、そんな……! お姉様にご迷惑がかかってしまいます!」


「迷惑なものか。……可愛い妹のためなら、家名の一つや二つ、安いものさ」


彼は悪戯っぽく、けれど本気でそう言い切った。

その覚悟に、私の胸が熱くなる。

この人は、私のためにすべてを捨ててくれるつもりなのだ。


「準備をしなさい、アルテミス。明日、発つよ」


「明日……!?」


「善は急げだ。それに……」


彼は私の頬に手を添え、親指で涙の痕を優しく拭った。

その指先の感触に、私はほうっと熱い吐息を漏らす。


「これ以上、君が怯える顔を見たくないんだ。……一日でも早く、君をあの鳥籠から解放してあげたい」


甘い毒のような言葉。

けれど、今の私にはそれが何よりも必要だった。

私は、彼の胸に額を預けた。

トクトクと脈打つ彼の心音が、私の乱れた鼓動と重なり合う。


もう、戻れない。

私はこの「共犯者」の手を取って、父という巨大な壁に挑むのだ。

それは従順な公爵令嬢としての私が死に、自分の意志で運命を切り開く「私」が生まれる瞬間でもあった。


「……はい。お願いします、シリウス様」


「いい子だ」


彼が私の髪に口づけを落とす。

窓の外では、雪が降り始めていた。

世界を白く染め上げる雪。

けれど、この腕の中だけは春のように温かかった。


私たちは寄り添い、静かに明日への覚悟を決めた。

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