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第1話 子供扱いされた誕生日

カリ、カリ、カリ。


硬質な音が耳の奥をささくれ立たせる。

最高級の羊皮紙の上を万年筆のペン先が滑る音。

インク特有の鉄錆にも似た匂いが重厚な執務室の空気に澱んでいる。


息が詰まる。

喉の奥に、乾いた悲鳴が張り付く。


アルテミス・フォン・ローゼンバーグという名はこの学園では羨望の代名詞だ。

由緒ある公爵家の令嬢にして、才色兼備の生徒会長・レオンハルト様の婚約者。


けれど、その実態はどうだ。

誕生日の夕暮れ。執務室の隅で私は空気のように扱われている。


(……ええ、わかっているわ)


これが「悪役令嬢」の末路だ。

書類の山と格闘する彼にとって私は二年後に「凍死」するだけの、ただの舞台装置に過ぎないのだから。


(……寒い)


窓の外では、春の嵐を告げる不穏な風が唸りを上げ始めていた。

季節外れの冷気が、窓ガラスをカタカタと揺らしている。


豪奢な絨毯が敷き詰められたこの部屋では暖炉の熾火(おきび)がパチパチと爆ぜ、柔らかな熱を放っていた。

それなのに、指先は死体のように冷たい。


視界の端がチカチカと明滅する。

前世の記憶――あの残酷に輝く「HAPPY END」の文字と最期に全身を蝕んだ雪の感触が脳裏を掠めて消えない。


10歳の時に前世を思い出してから、私は全てを賭けて抗ってきた。


シナリオ通りの「傲慢な悪役令嬢」になどなるものか、と。

ワガママを封じ、贅沢を厭い、爪先立ちで歩くような緊張感で、誰よりも完璧な淑女として振る舞い続けた。

彼の隣にふさわしい「賢明な婚約者」になれば、この破滅の未来は回避できると信じて。


けれど、現実はどうだ。


今日、私は16歳になった。

断罪イベントまで、あと2年。

どれだけ「真っ当」に生きても彼にとって私は書類以下の存在でしかない。

タイムリミットを告げる砂時計の砂が私の10年間の努力を嘲笑うように、サラサラとこぼれ落ちていく。


「……ッ」


ドレスの下で、膝が笑う。

ふくらはぎの筋肉が強張り、今にもその場に崩れ落ちそうだ。

それでも、私は背筋を伸ばす。顎を引く。

プラチナブロンドの長い髪を揺らし、意志の強さを宿した赤い瞳で、前だけを見据える。


淑女の仮面を被れ。

恐怖を気高さで塗り潰せ。

でなければ、この男に――未来の処刑人に、食い殺される。


執務机の向こう側には書類の塔が聳え立っていた。

その隙間から太陽の破片を溶かしたような眩い黄金の髪が見える。

レオンハルト様。

学園の頂点に立つ生徒会長であり、国一番の才色兼備。

けれど、その整いすぎた美貌は私にとっては恐怖の象徴でしかない。


彼の視線は、書類に縫い付けられていた。

私が部屋に入ってから数分。その黄金の睫毛が震えることさえない。

ただひたすらに機械的な正確さで書類を捌き続けている。

私の存在は執務室の隅に置かれた観葉植物と同程度なのだろう。


(……ええ、好都合だわ)


彼がこちらの存在を希薄に感じているのなら、話は早い。

私は湿った掌を握りしめ、爪を食い込ませることで震えを抑え込んだ。

一歩、踏み出す。

分厚い絨毯が、ヒールの音を無音で飲み込む。


「レオンハルト様」


呼ぶ声が、微かに上擦った。

ペンの音が止まる。

一瞬の静寂。

それが、処刑台へ続く階段のきしみのように響く。


「……なんだ」


低い、温度のない声。

ようやく彼が顔を上げた。

剥き出しの紺碧の瞳。

深い、あまりにも深い海の色。あるいはすべてを吸い込む夜空の色。

その双眸が私を射抜く。

無表情。能面の如き冷徹さ。

そこには、鉄のように硬質な理性の光だけが宿っている。


心臓が早鐘を打つ。

胃の腑が締め上げられるような吐き気。

逃げ出したい。今すぐ回れ右をして、女子寮のベッドに潜り込みたい。

けれど、ここで引けば待っているのは「死」だ。

雪の中で孤独に凍え死ぬ、あの惨めな結末だ。


私は息を深く吸い込み、コルセットがきしむほど肺を膨らませた。

赤い瞳を見開き、彼の紺碧を正面から受け止める。


「本日、お時間をいただいたのは他でもありません」


口の中が乾いている。舌がざらつく。

それでも言葉を紡ぐ。

これは生存のための闘争だ。


「私、アルテミス・フォン・ローゼンバーグは……貴方様との婚約を、白紙に戻したく存じます」


言った。

言ってしまった。

喉から心臓が飛び出しそうな衝撃。

全身の血が逆流するような感覚。


5歳の時、家同士の契約で結ばれた婚約。

「愛がなければ白紙に戻せる」という、古い契約書の切れ端だけを頼りに放った、一世一代の賭け。


静寂が部屋を支配する。

暖炉の薪が崩れる音だけが、やけに大きく響いた。


レオンハルト様は、彫像のように固まっていた。

その表情は、凍りついた湖面のように静止している。

ただ、その紺碧の瞳が、僅かに――本当に僅かに細められただけ。


怒りか。呆れか。

それとも、ようやく厄介払いができた安堵か。

彼の真意は、その鉄壁の無表情の下に深く埋没している。


長い、永遠とも思える数秒間。

私は自分の鼓動の音に溺れそうになりながら、彼の次の言葉を待った。

断罪か。解放か。


彼は、持っていた万年筆をカタリと机に置いた。

組まれた指の美しい形状。

そして、端正な唇がゆっくりと開く。


「……正気か?」


予想外の言葉だった。

怒声でも、嘲笑でもない。

ただひたすらに、事務的な確認。

まるで書類の不備を指摘するかのような、平坦な響き。


「はい。正気ですわ」


私は声を張り上げた。

震える膝に、必死に力を込める。


「本日で16歳になりました。契約書の条件は満たしています。ですから……」

「誕生日は知っている」


彼は私の言葉を遮った。

その声には、僅かな苛立ちが滲んでいるように聞こえた。


「プレゼントなら、屋敷の方へ送っておいた。宝石とドレスだ。君の好きな色を選ばせた」


淡々とした口調。

まるで、業務報告のようだ。

私の好きな色?

彼が私の好みを知るはずなどない。

きっと執事が適当に見繕った、万人受けする最高級品なのだろう。

そういうところが、たまらなく恐ろしい。

義務だけで構成された優しさ。血の通っていない配慮。


「プレゼントのお礼は申し上げます。ですが、私が欲しいのは宝石ではありません」

「なら、なんだ。新しい領地の権利書か? それとも輸入規制の緩和か?」


話が通じない。

彼は私が「何かをねだるために」ごねていると判断しているのだ。

子供の癇癪。

あるいは、気を引くための芝居。

その程度の認識。


悔しさと情けなさで視界が滲む。

けれど、涙は堪える。

ここで雫をこぼせば、それこそ「子供」だと断じられる。


私は乾いた唇を舐め、一歩前に踏み出した。

机に両手をつき彼の瞳を至近距離で睨みつける。


「呼吸が、したいのです」


絞り出すような声だった。


「宝石も、ドレスもいりません。……私はただ、自分の足で立ち、自分の肺で息がしたい。貴方の付属品として生きるのは、もう耐えられないのです」


愛のない結婚。

その言葉を飲み込み、より切実な叫びとしてぶつける。

瞬間、執務室の空気が変わった。

温度が、急激に下がった気がした。


レオンハルト様が、立ち上がった。

高い。

椅子に座っている時とは比べ物にならない威圧感。

見上げるような長身が、私の視界を覆い尽くす。

窓から差し込む夕陽が彼に遮られ、私はその長い影の中に飲み込まれた。


「……付属品、か」


彼が低く呟く。

その声音に宿る感情は、あまりに不透明だった。

ただ、ゾクリとした悪寒が背筋を駆け上がる。


彼は机を迂回し、私の目の前まで歩み寄ってきた。

近い。

彼の纏う香り――清潔な石鹸と、微かなインクの匂いが、鼻腔をくすぐる。

逃げ場は塞がれた。

彼の影が、私を完全に閉じ込めている。


(殺される……!)


本能が警鐘を鳴らす。

けれど、足が竦んで動かない。

彼は私の顔を覗き込むように、ゆっくりと身を屈めた。

紺碧の瞳が、私の赤い瞳を間近で捉える。

そこにあるのは、圧倒的な強者の光。


「アルテミス」


私の名を呼ぶ声。

それは、甘くも優しくもない。

まるで、所有物に焼き印を押すような、重く響く低音。


「君は、少し疲れているようだ」


「……は?」


「勉強のしすぎか、あるいは昨今の寒暖差のせいか。……意味のわからない戯言を口にするほどに」


戯言。

私の決死の覚悟を、彼はそう切り捨てた。

表情一つ変えずに。


「今日はもう帰って休むといい。寮まで馬車を用意させる」

「まっ、待ってください! 私は本気で……!」

「書類が山積みなんだ。これ以上、私の時間を奪わないでくれ」


彼は冷たく言い放ち、踵を返した。

拒絶。

完全なる拒絶。

私の言葉は、彼にとってノイズでしかない。


背を向け、再び椅子に腰を下ろす彼。

すぐにペンを取り、書類に向かい始める。

カリ、カリ、カリ。

再び始まる、あの硬質な音。

それが「会話は終了した」という合図だった。


私は立ち尽くす。

握りしめた拳の中で爪が皮膚を裂き、じんわりとした痛みが広がる。

届かない。

何一つ、届かない。

この男にとって、私は人間ですらないのだ。


絶望が、黒いインクのように胸の中に広がっていく。

私はよろめくように後ずさり、逃げるようにして執務室の扉に手をかけた。


          ***


重厚なオーク材の扉が、私の背後で閉ざされる。

ダン、という鈍い音が、骨の髄まで振動させた。


「はぁ……っ、はぁ……」


廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れる。

私は壁に手をつき、ズルズルとその場に座り込んだ。

石造りの床の冷気が、ドレス越しに太ももの熱を奪っていく。

胃の奥が熱い。吐き気が込み上げてくる。

視界が歪む。涙ではない。極度の緊張と、解放感による眩暈だ。


生きて、戻れた。


あの圧迫感から。

氷のような紺碧の瞳から。

私の言葉は彼には届かなかった。「子供の戯言」として処理され、記憶の彼方へ追いやられただろう。

けれど、賽は投げられた。

「婚約破棄」の意思表示はした。


(これでいい……これで、いいのよ)


震える指先で、自分の二の腕を抱きしめる。

まだ、彼の残り香が鼻腔にこびりついている気がした。

私は逃げるように立ち上がり人気の絶えた廊下を走った。

ヒールの音が虚しく響く。

16歳の誕生日はこうして終わる。

私の人生で、もっとも惨めで、もっとも勇敢な一日が。


          ***


執務室の中には、再び静寂が満ちていた。

暖炉の薪が爆ぜる音だけが、時折その均衡を破る。


レオンハルトは、閉ざされた扉をじっと見つめていた。

その表情は相変わらず硬い。

彫像のように整った顔立ちには、感情の波など欠片も浮かんでいないように見える。


彼は一度だけ深く息を吐いた。

それは溜息というよりは、張り詰めていた集中を解くための儀式に近かった。

こめかみを指で押し、硬直した肩を回す。


「……あんなに顔を青くして」


独り言が部屋の空気に溶ける。

彼の脳裏には、先ほどの少女の姿が焼き付いていた。

真っ赤な瞳。

今にも折れそうな細い肩。

震える声で訴えてきた、悲痛な叫び。


『貴方の付属品として生きるのは、もう耐えられないのです』


その言葉を反芻し、レオンハルトは眉間にかすかな皺を刻む。


彼は手元にある書類の山に視線を落とした。

一番上に置かれた羊皮紙。

そこには、無機質な数字や文字の羅列ではなく、美しい庭園の設計図が描かれている。


『ローゼンバーグ公爵邸・別館改修計画』


その下にあるのは領地の権利書ではない。

『新婚旅行日程表(仮)』と記された分厚い束だ。


彼は、設計図の上の「サンルーム」と記された箇所を、指先で愛おしげになぞった。

その指の動きだけは、驚くほど優しい。

紙のざらついた感触がいつか触れる彼女の柔らかな髪を連想させる。


彼女は知らない。

この膨大な執務の半分以上が、彼女を迎えるための準備であることを。

公爵家の本邸は、古臭くて陰気だ。

あんな場所に、あのような可憐な花を閉じ込めておくわけにはいかない。


そのために、あと二年。

完璧な楽園を用意して、卒業と同時に彼女を迎え入れる。

そのためには、今、一秒たりとも無駄にはできないのだ。


「不満なのはわかる。寂しい思いをさせているのも」


彼は、自分に言い聞かせるように呟いた。

彼女の癇癪は、寂しさの裏返しだ。

「自由になりたい」などという突拍子もない言葉も、きっと自分を振り向かせるための彼女なりの精一杯の愛情表現なのだろう。


愛おしい。

その不器用さが、たまらなく愛おしい。

今はまだ沈黙を守る。

中途半端な状態で伝えて、期待を裏切りたくはない。

すべてが完璧に整ったその日にこの鍵を彼女の手に乗せよう。

その時こそ、彼女は満面の笑みで私の胸に飛び込んでくるはずだ。


「……待っていてくれ、アルテミス」


レオンハルトは、再び万年筆を手に取った。

インク壺にペン先を浸す。

たっぷりと黒い液体を吸わせ、羊皮紙に向かう。


カリ、カリ、カリ。


音が響き始める。

それは、彼女のための城を築く音であり、同時に――二人の未来を決定的に引き裂く、断絶の音でもあった。


彼の瞳は、書類の彼方にある「幸福な未来」だけを見据えている。

たった今、扉の向こうで震えていた少女の「現在の絶望」は彼の死角に置き去りにされたままだ。


部屋の温度は快適だ。

暖炉の熾火は赤々と燃え、未来の公爵夫人のための完璧な計画書を照らしている。

そこには、微塵の曇りもない。

ただ残酷なまでのすれ違いだけが、静かに積み上げられていた。


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