12・手越尋生と高速バス
12・手越尋生と高速バス
「まあ乾杯だ。俺の奢りだ気にするな」
手越尋生は壁にずらりとギターの並んだバーカウンターで、ビールを注文した。店の名前は5000マイルだ。
「じゃあ私、熱燗で」
すると尋生は、
「筋金入りだな」
少しばかり驚いた顔で笑った。
優希にとって初の新潟路上は、まずまずの結果だった。尋生は宣言通り、五千二百数十円の投げ銭を折半した。その上でこの場は奢ってくれるという。
「手越さん、よく来られるんですか」
熱燗待ちの間に訊ねると、
「その『手越さん』禁止な。旅唄いと元旅唄いの仲だ。尋生でいいよ」
「はい、尋生さん。乾杯です」
「ああ、乾杯だ」
カウンターに届いた酒をそれぞれが手にして、小さく掲げた。
「で、尋生さんも旅唄いしてたんですか?」
煙草をカウンターへ出した尋生が遠くを見ながら答えた。
「五年前くらいまでな。それまで十年やってた」
そして煙草に火をつけ、
「それで、だ。ユーキはいつまで新潟いるんだ」
尋生は美味そうにビールを喉へ流し、そう訊ねてきた。
「っと、長い話になるんですけど」
「いいよ。半分くらいは聞いてやる」
「全部聞いてくださいよ。私、知り合いが同じような旅してるんです。その人と会うために東京目指してるんです」
「はあ、それで」
「東京行きの電車賃が貯まるまで新潟なんです」
「話、短いな。別に急がなかったら、群馬通ったり埼玉通ったりルートはあるだろ」
尋生はあっという間にビールを空け、
「マスター、俺にも燗つけてくれ」
チラリと優希を見て笑った。
「そうなんですけど……何か胸騒ぎっていうか、急がないといけない気分なんです。向こうは多分、もう大阪辺りまで来てるはずなんですよ」
「大阪―東京ねえ。長距離バスで三千円レベルだろ」
バスという発想のなかった優希は、
「そんなもんなんですか!」
グラスの酒を取り落としそうになった。しかし尋生の反応は冷たく、
「確か新潟―東京間のバスなら平日二千円で行けるぞ」
そう言っては届いたばかりの熱燗を啜った。優希はこんなにも早く旅の終盤と向かい合うとは思わず、しばし黙り込んだ。
「まあ、何にしても急ぐ必要はないさ。旅の最中には旅ならではの醍醐味が待ってる。それをひとつひとつ味わってからでも遅くはねえさ」
尋生はそう言うが、もしも二千円で東京へ向かえるなら、今夜の稼ぎで今すぐにでも飛んで行きたい思いだった。ユーキからのメールがしばらく来ないことも気になっていた。
「で、今夜はどこに泊まるんだ? ちょっと遠いが駅近くにネットカフェがあるにはある。もっと手軽にカラオケボックスなら案内してやらないこともねえ」
「……はい。それは自力でどうにかします」
すると即座に、
「野宿する気だろ。さっき荷物をまとめる時に寝袋が見えた」
「それは……尋生さんには関係ないことです」
「仲間だろ。俺とお前はよ。同じ仲間と知り合った仲間だ。中でもミツキの情報はありがたかったんだ。アイツは今どき、パソコンもケータイもやらない奴だからな」
「じゃあ私、どうすれば……」
「ウチに来ればいい。ゲストの一人や二人泊める部屋はある。俺を信用するなら泊めてやる。タダでとは言わねえ。小一時間、俺の昔話にでも付き合ってくれればいい。どうする」
知り合ったばかりの男へついて行くのに抵抗がない訳ではなかった。ただ、野宿をすればまたひとつ、誰かの心配の種を増やすことになる。この旅が人の優しさに気付くための旅だったというのなら、このまま流れに身を任せてもいいと心が揺れた。何より、彼の歌を信じた。
「ひとつだけ……」
「ん? 何だ?」
「私、玄関先でいいです。シュラフもありますから」
すると彼はおかしそうに口を歪め、
「ウチの玄関先は広いぜ。ベッドもテーブルもある」
濁りのない目で笑った。
会計を済ませ、優希は尋生に何度も頭を下げた。宣言通り、飲み代は尋生が持った。
「疲れてないか」
「いえ、ポーションで完全に回復しましたから」
「ポーション?」
「あ、いえ、充分体力は残ってます」
オンラインゲーム中に飲むチューハイを、彼女は体力回復の薬になぞらえて『ポーション』と呼んでいた。
「そうか、じゃあ行くぞ」
長い長いアーケードはどこまでも続く暗闇だった。二人分の足音はリズムのずれたドラムのようで、優希はそれが心地悪く、歩幅を彼に合わせた。
「うん……うん。頼んだ」
尋生はこの真夜中にどこかへ電話を入れているようで、後ろをついて歩く優希にはお構いなしに歩みを早めていた。そんな状態に気付いたのか、
「ああ、悪い悪い。昔っから女を置き去りにするタイプでな」
あとを追いかける優希を十メートル先で待った。
十分ほど歩き、長く続いたアーケードの屋根が不意に途切れると、
「ここだ。二階まで上がってくれ」
一階にテナントの入った黒っぽいビルの階段を彼は上って行った。優希は今さらながらざわつく胸を抑え、しかし彼を信じて階段を上った。
階段を上がり、ドアを抜けて真っ先に驚いたのは、
「ゴメンなさいねえ。この人のわがままに付き合ってもらって」
長い髪をポニーテールにした若い女性がパジャマ姿で出迎えてくれたことだ。
「いえ……私の方こそ……すみません」
「ちょうど寝るとこだったんで、こんな格好で失礼するわね。じゃあ、あとはアレに任せてごゆっくり」
まだ玄関でモジモジしていると、
「おう、早く上がれ。あと、鍵閉めてな」
言われた通りに鍵を閉め、おずおずと玄関を上がった。聞いていたより狭い玄関だ。
「荷物はその辺に置いてこっち来い。俺がとびっきりのハイボール作ってやっから」
「ハイボールはいいんですけど、それよりあの女性、だって私、その」
混乱気味に伝えると、
「俺に嫁さんがいたらおかしいか」
思わず「はい」と言いそうになったが、
「聞いてなかったですもん。知ってたら遠慮してました」
「男の一人暮らしに上がり込むよりは健全でいいだろう」
「そうですけど……」
どうにも尋生のペースには敵わず、居間へ入ると白いテーブルのそばへちょこんと座った。
「ほい。ジンジャーハイボール濃いめ、一丁」
「……いただきます」
優希がグラスを取ると、尋生は飲んでいたグラスを合わせてきた。今夜三度目の乾杯だ。
「で、俺の思い出話だけど何から聞きたい?」
「そうですねえ……と、ここ禁煙ですか」
目の覚めるようなショウガの辛みに瞬きを繰り返して訊ねると、
「スモークフリーだよ。彼女もああ見えてヘビースモーカーだ」
そう返ってきた。優希はカーディガンのポケットからマルボロを出すと火をつける。
「ちなみにここってWi‐Fi使えますか?」
「いきなりそこかよ。若者だな。下の店がフリーにしてるんで入り放題だ。
「そうですか……で、彼女さんは恋人ですか?」
「今度はそっから来たか。美鈴は正式な嫁だよ。結婚四年目だ。ん? 五年目か?」
「そういうの忘れるって、女性に嫌われますよ」
「現在の話はいいんだよ。俺のリクエストは思い出話だ」
そう言って尋生もまた煙草に火をつける。二人分の煙を察して、部屋の隅の空気清浄機が仕事を始めた。彼女は一服して、質問を選んだ。
「旅をするのって、人に心配とか迷惑とかかけませんか? 尋生さんはどうだったんです?」
すると尋生はさほど興味もなさそうに、アイスペールの氷をグラスへ放った。
「旅ねえ……。それに限定せず、人はいつだって他人に迷惑かけるし、心配もされるもんだろ」
言われると、そうでもある。
「でも、当てのない旅って、自分自身、挫けそうになりません? 私なんか当てがあっても挫けっぱなしです」
ハイボールを減らし、優希が力なく呟く。
「ま、人間ってのはそういうもんとは縁が切れないよ。はっきりしていることは、旅に出た瞬間、その人間の本質が曝け出されるってことだ。性格に基づいて旅が決まる。不言実行タイプは着々と目的に近付くし、大言壮語吐くヤツは半分潰れる。問題は酒飲みだな」
「酒飲み、ですか」
「ああ。酔った気分に紛れて強気な発言したり、逆に落ち込んだり大変だ」
身につまされる思いで、優希はハイボールを減らす。
「迷惑とか心配とか、そこを避けて通りたいなら友人を作らないことだ」
彼の口にした答えがあまりにも淋しくて、優希は煙草を捻り潰した。そのタイミングで尋生が彼女のグラスを取り、新しい酒を作り始める。
「あの、私もう」
両手のひらを左右に振ったが遅く、尋生は角瓶を注ぐ。
「飲まないと飲めないは違うからな。付き合ってもらう約束だ。これが、人ん家へ厄介になる上での気遣いだ。そうだろ?」
「はあ……」
尋生も新しい酒を作り、
「ミツキとはもう十年前に会った仲だ。香川の山奥でストリートミュージシャンのコンテストがあってな、アイツが五位で俺が一位だった」
やはり二人とも只者ではないのだと優希は感心していたが、
「しかし、その結果に俺は納得いかなかった。俺の一位は揺るがないとして、アイツを抑えて三組がいた訳なんだが、ゆずもどきばっかりでな。まあ、ゆずが悪い訳じゃない。ただ、ミツキの独創性と表現力はもっと評価されるべきだと思ったもんだ」
「再会は、いつだったんですか」
「そうだな。三年後か? 俺が東京のイベントに呼んだんだ」
「え? ミツキさんケータイもないって――」
「ああ。だから当時アイツが使ってたネットの掲示板にオファーをかけたよ。雲みたいな男でな、『間に合ったら行く』ってそれだけの返事だった。けど、あいつは来た。行くっつっといて行けなかった時のお互いのダメージを知ってるんだ。だからあえて適当な言葉で答えてたんだ。『行ければ行く』『近かったら行く』そういう言葉は人の約束を身軽にしてくれる。ユーキみたいに何が何でも東京、って思ってるうちは足枷だらけなんだ。それだけ言っておきたくてな」
確かにそうだと、顔も知らぬ漆黒のユーキの姿を頭に浮かべる。あの時はつい盛り上がって東京で会おうなどと言ったが、果たしてそこに意味はあるだろうか。
「尋生さん――」
「ん、何だ?」
新しい煙草に火をつけかけた彼へ、ひとつ訊ねてみた。
「知らない人と、約束出来ますか?」
「人によるな。見たこともない商店街の組合長が『手越さん、イベント御出演願います』とかならとりあえず話は聞くだろうし、それから――」
そこで彼はハイボールを口に含み、
「昔、路上で『千円貸してください』っていう、なんていうかタカリに会ったことがある」
優希は話の展開について行けず、
「はあ……」
と気弱な相槌を打った。
「線の細いヒョロヒョロしたガキでな。財布を落として駐車場から車が出せないって言うんだ。聞いてっか?」
「はい、聞いてます」
「その時、俺のギターケースには何千円って金が入ってたんだがな、楽に稼いでると思われたんだろう。だから俺はこの金がどんだけの人間の真心で成り立っているかを懇々と説いたね。そして千円渡した」
「渡しちゃったんですか?」
「ああ。そして自分の名前は名乗らない、電話番号も言わない、そんなヤツが律儀に返しに来るもんか。そう思った」
「来なかったんでしょ」
「ああ。だから俺はそいつの良心に傷をつけるべく先に訊いといた。『名前は』ってな。そしたら『ナカノです』と返ってきた『ナカノ何てえんだ』って俺も意地になって訊くと、『ナカノユウタ』です。って、バリバリの偽名が飛び出した」
「全国のナカノユウタさんには申し訳ないですけど、嘘っぽいですね」
二人で同時に煙草に火をつけ、煙を吐き出すと、不意に尋生が言った。
「でもなユーキ。皆が皆、そうだと思うなよ。必ず正直な人間はいる。その人たちのために、俺たちはつまんないことで挫けてる場合じゃないんじゃないか」
しばらく二人の交わす煙が天井に昇って混じり合った。優希は隣で寝ている奥さんが気になって目をやったが、
「アレは起きねえ。眠剤飲んだら五時間は身動きひとつしない」
尋生が呟いた。
眠剤、と聞いて、優希はこの十日間、眠剤なしで眠れていることにあらためて感じ入っていた。『クラブ・マリア』のママが言ったように、自分はうつじゃないのかも知れない。普通の人間の暮らしを営めるのかも知れない。
一気にグラスを空けた尋生が、ギラついた目で、優希を見つめる。その目はどこか遠くを見つめる猛禽類の目にも見えた。
「俺が指南してやる」
優希は訳も分からず、
「指南ですか……」
そう呟いた。
「おめさんが新潟でどう動くのか、何を唄うのか、全部抱え込んでやるってんだ」
「でも、それじゃ――」
「まあ焦るな。焦った瞬間、旅は弾けて飛ぶぞ。お前はさっき、『バスならもう東京まで行ける』とか思っただろ。でもダメだ。お前の実力で東京なんて行ったら潰されるのが落ちだ。だからこの宿を貸してあげられる間に一万円貯めろ。それで東京に行って、目的を果たしたら家へ帰れ。これは俺の願いでもあり、きっとお前の両親の願いでもあるはずだ」
「……」
「辛気臭い顔すんな。お前がさっさの話とミツキの話を手土産に新潟に来たことを、俺は大事にしたいだけなんだ。偶然だと思いたくないんだ」
打って変わって優しい口調で言われると、優希の目には涙が滲む。涙というのは、人の温もりに出会えた時に流れるものなのだと、この旅で知った。
「じゃ、風呂湧いてるから入って来い。玄関に向かって左だ」
ミツキは立ち上がり、奥の部屋へ消えた。
まだ涙の止まらない優希は、この出会いに感謝した。感謝してもしきれなかった。静岡の実家にいる時には考えもつかなかった状況だ。思えばあの日、飛行機で微睡んでいた自分は、今の毎日を予想だにしていなかった。唄って、金が入り、それで宿を取り、飯を食い、その繰り返しで東京まで行けると信じていた。
だが、現実は違っていた。ネトゲの難敵を倒す予定調和など遙かに超えた冒険が、一日ずつ続いてきた。普通に暮らしていたら接点のなかったクラブのママとも仲良くなれたし、まさか子供たちのお小遣いで救われるとも思っていなかった。
(私は変わったんだろうか)
シャンプーを泡立てながら思うことは、そんな自問からいつしかユーキのことへ変わった。無事でいてくれたらいい。彼女にとっての誰かもまた、彼女に対してそう思っていることを感じつつ。
「お、湯上り美人だな」
尋生は底がないのか、まだハイボールを飲んでいる。
「いいお湯でした。ありがとうございます」
「けど、服がジーパンじゃ寝付けないだろ」
「いえ、野宿でもネットでもこれで慣れてますんで」
「そっか。ま、落ち着いたらそこの左手の部屋を使ってくれ」
「けど私シュラフで……」
「ああ! 皆まで言わせるな! 素直にそこで寝てりゃいいんだ。いつもならカミさんの寝室なんだがな」
「はあ……それじゃ、おやすみなさい」
午前三時。言われるがままにドアを抜け、灯かりの付いた部屋へと入り、他人の部屋の緊張感を薄らと感じた。どこからかブーケの香りが漂う部屋で優希は充電器を取り出し、スマホに繋いだ。真っ先にメールを開くと、ユーキからの最新情報が入っていた。時刻は昨日の十六時二十分だった。
――ユーキお疲れ! 俺はついに熱海まで来ました! ユーキはどこかな? 最近昼路上がメチャいいので助かってます! ヤクザに取られた金 絶対返すから! それじゃ!
ほころんでゆく顔をごまかせなかった。無事に旅を続けている彼に、祝福を与えたかった。ヒールの呪文が使えるならHPを全回復してあげたかった。が、それはウィザードである自分の仕事ではない。ありったけのポーションを投げてあげるだけだ。
それから彼女は尋生が言っていた高速バスのサイトを開いた。聞いた通り、格安の路線ならば平日二千円で東京まで行ける。
(あとはユーキの進み具合だ……)
静岡を越えると、東京はあっという間だ。それが熱海だというならばそこはほぼ神奈川で、一本の電車で東京までゆける。
優希は考える。約束の日を考える。この週末まで木金土と三日ある。一日二千円入るとすれば、日曜日には会えるのだ。日取りを決めれば揺るがない。これまでもそうしてやってきた。そんな思いを込め、
――日曜日のお昼に渋谷ハチ公前! お互い目印はギターケース!
それだけを送った。




