13・DTMとススキノ・ジャニス
13・DTMとススキノ・ジャニス
アラームもセットしていないのに、自然と目が覚めた。午前七時だ。
まだ酒の抜けない頭で起き出すと、ゆっくりとドアを開けた。途端に喫茶店のモーニングの匂いがしてきた。
「おはようございます……」
キッチンで洗い物をする女性に小さく声をかけると、
「あら、起きた? 昨夜は遅かったんだろうし、まだ寝てればよかったのに」
裏表のない顔で彼の奥さんは笑った。
「えっと、名前なんだっけ?」
「はい、坂下優希です」
「私は美鈴。じゃ、ユーキちゃん。これテーブルに運んで」
「あ、はい」
キッチンへ行くと雑誌に載せられそうな見事なベーコンエッグが焼けていた。『苦手料理・目玉焼き』の彼女としては、なんとかそのコツを知りたいと思った。
「それ終わったら、ウチのアレ、起こしてきて。起きなかったら背中でも蹴ればたいてい起きるわ」
「はあ……」
言われた通りには出来そうになかったが、
「尋生さん、朝ですよ。奥さん、朝ご飯作ってますよ」
しかし彼は動かない。なので仕方なく、
「えいっ!」
「痛あっ!」
確かに起きた。
「起こしましたよ。二度寝しないでくださいね」
そう言い置いて、優希はキッチンへ戻る。
「起きた? ありがとね。でさあ、ユーキちゃんはパン派? ご飯派?」
「私ですか? どっちかと言えばご飯ですかね」
「OK決まり」
美鈴はフライパンに卵を落としてふたを閉めた。
「おい、今日のキックは何だ……まだ腰にきてるぞ」
Tシャツにジャージで起き出してきた尋生が、不満そうに頭を掻いている。優希は美鈴と目配せして微かに笑う。
「何だ。パンじゃねえのか」
「本日は多数決でご飯に決まり。基本的に新潟人なんだからお米食べなさいよね」
「俺は神奈川人だっつーの」
美鈴はベーコンエッグにサラダを添えると優希へ渡した。
文句を言いつつも食べるものは食べるらしく、途中から納豆ご飯に切り替えた尋生が丼飯を掻きこみ始める。昨夜あれだけ飲んだ人間の食欲とは思えない。
「ああ、食った。食い過ぎだ。だから朝のコメは危ないんだ」
そう言いながらTシャツの腹をさすった。
「じゃ、私はボチボチ仕事行くから。ユーキちゃん、ゆっくりしててね。今夜はジンギスカンだからさ」
そう言って笑うと、美鈴はキッチンでマウスウォッシュを口に含んだ。それから上着を羽織って玄関を開けると、パタパタと慌ただしく階段を下りて行った。
と、テーブルに目を移すと、
「何飲んでるんですか朝から!」
尋生がテレビを見ながら発泡酒の缶を開けていた。
「ああ。糖質オフだからいいのいいの。ユーキも飲むか」
「いりません。ていうか糖質関係ありませんから」
そう言って彼女はテーブルの皿を片付け始めた。タダで泊めてもらって朝食まで御厄介になるというのは彼女の美学が許さなかった。スポンジを洗剤で泡立てて、丸皿から洗い始めた。
「いいねえ。台所に立つ新妻な感じ。アイツもちょっと前までそうだったんだけどなあ」
何を回想しているのやら、セクハラの匂いがするので優希は急いで洗い物を終える。
「コーヒー飲むなら、そこにインスタントあるから」
優希は複雑な思いを抱きつつ、好意に甘えた。
「奥さんは朝から仕事なのに、自分はビール飲んでるんですね」
精一杯の皮肉を込めた優希の言葉は、
「ん? 俺もこれ飲んだら仕事だぜ」
どうやら発泡酒を飲み干した尋生の台詞で打ち消された。
「仕事ですか。じゃあ私も一緒に出ますんで」
すると尋生は立ち上がり、
「いいのいいの、お前はここにいろ。俺の仕事、自宅仕事だから」
そう言うと、窓際に置いた作業机へ座り、パソコンに電源を入れた。それからキーを何度か叩くと、知らない曲が流れ始めた。
「DTMだ。デスクトップミュージック。これで作曲するのが俺の本来の仕事。だから路上で儲けた金は全部酒代に消えるって訳なんだな」
まったく意味の分からない優希は、
「パソコンで、仕事するんですか」
「まあ、簡単に言えばそうだ。歌作りの世界も変遷が激しくてな。アナログがいいってヤツもいれば、コンピューターミュージックで事足りる、って革新派もいる。俺は両者のいいとこ取りで、ギターは生音を乗せてる。ま、それも苦情を避けて日中の人がいない時を狙ってるんだけどな」
それでも意味の分からない優希へ、
「プロのミュージシャンってことだ。言わせんなよ恥ずかしい」
それだけ言うと彼は大きなヘッドフォンをしてキーを叩き始めた。何にしても仕事だというのならジャマはしたくない。優希はコーヒーを飲み干すと、
「私、新潟見物してきたいんで、ちょっと出てきます」
気を遣っていることを悟られぬようにそう伝えた。
「ああ。じゃあ、ケータイ番号だけ教えといてくれ」
アドレスを尋生へ伝えると、ユーキは見知らぬ新潟へと足を踏み出した。
(昨夜は真っ暗だったからな)
記憶にある古町アーケードへ足を向けると、延々と商店街が続いている。朝の配送車が何台も通っていた。彼女は昨夜思い立ったことを行動に移すべく、開いたばかりのカフェへ入った。コーヒーと灰皿を手に窓際のテーブルへゆくと、スマホを取り出す。
まずは軽くいけるところで、小樽の佐々木へとメールを打った。
――手越さんに会えたよー! 優しくて素敵な方でした!
少し盛った。
それから煙草一本分迷い、父のアドレスを表示した。
――お金ありがとう 今は新潟にいます もうすぐ旅の終わりです 色んな人に支えられて――
そこまで打って、長いメールはやめにした。
――お金ありがとう 無事です 新潟にいます
小さく頷くと、送信をタップした。
(よし、外へ出てみよう)
カフェを出ると空は青く、日本海が見たくなった。どれくらいの距離があるのかと調べると一キロほどだという。歩いてゆける距離と分かれば、手ぶらの身では行ってみるしかない。
太陽の位置を見ながら北西を目指す。いくつかの車道を抜けると、住宅街に『どっぺり坂』という名前の不思議な階段が現れた。近所には新潟B級グルメと言われる『イタリアン』の店があったので、帰りに寄ってみようと思う。
坂を上がると古い屋敷を中心に住宅街へ突入する。どの家も緑が多く、方向が合っているのか自信のないまま進んでいった。すると不意に潮の匂いが鼻腔をついた。間違いない、海だ。
いったん上った坂は、今度は下り坂になり、松林を抜けると急に視界が開けた。目に飛び込むのはゆったりとした紺碧の波だった。
(海だ……)
左右に隠すものもなく水平線が広がっている。静岡の海とは何かが違う。沖にボンヤリと見える影はきっと佐渡島だ。それは観光地に縁のなかった彼女に、特別な感情を芽生えさせる。
海岸線に沿って続く車道の向こうへ進み、明るい茶色の砂の上を歩いた。強い風が運ぶのは砂と潮の香りで、夏の残り香がした。少し寒いが、缶チューハイでも持ってくればと思った。
優希は携帯灰皿を持ってきたことを確かめて煙草に火をつける。
生まれて初めて見る日本海は思ったより凪いでいて、頭の中にあった荒々しい海とは違った。どこまでも雄大で、小さな自分の旅を優しく包み込んでくれるようだった。許してくれるようだった。ならば私は何を許してもらおう。そう考えると、いつもいつも聴きたくもない下手な歌を聴かされている通行人に許して欲しかった。私は歌が下手だ、それは彼女も分かっている。
押し寄せる波と風との一方的な会話を終え、優希は踵を返した。
帰り道にミートソースのかかったイタリアンやきそばを食べて満足した優希は、尋生の部屋に帰ることにする。時刻は一時で、アーケードには人も流れている。日本海側ではシャッター街ばかり見てきた彼女も、新潟のアーケードはちゃんと息づいていることが嬉しかった。
「それでも大分店がなくなってんだけどな」
部屋に戻った優希に、尋生はヘッドフォンを置くとボヤいてみせた。
「でもウチの地元より多かったです。都会ですよ、新潟は」
「ま、腐っても政令指定都市だからなあ。ああ、それで今夜なんだが、バンドの練習が入った。なんで、お前は一人で唄ってきてくれ。遅い時間には顔出すから」
「分かりましたけど……私一人で唄っていいんですか? 許可とか――」
「俺がいいつってんだ。文句言う奴には俺の名前出しとけ」
「はい……」
パソコンをシャットダウンすると、尋生は奥に行って着替えてきた。それから軽い荷物とギターを持って、
「それじゃ出てくる」
「あの。私、鍵とか持ってないんですけど」
「大丈夫だ、夕方には美鈴も戻ってくる。それまでギターの練習でもしてろ」
それだけ言うと、尋生はドアを抜けて出て行った。
他人の部屋に一人きり――。
優希はスマホを出すと、ユーキのメールを確かめた。
*
一度目は無視したが、二度目の着信に立ち止まって電話を取った。召集時間にうるさいドラムの矢作かと思いきや、この一年、電話はおろかSNSでも絡んでいなかった名前が表示されていた。虫の報せで、ろくでもないことだというのは分かった。
「何だ珍しい。これからバンド練習なんだよ。切るぞ」
『はあ? 一年ぶりのアタシからの電話にそれ? 大体アンタって情が薄いのよ。それでよく結婚なんて出来たもんだわ』
「アンタとはなんだ。お兄様と呼べ」
『呼ばないわよ!』
「分かったから。用件は何だ。手短にな」
『アタシも人から聞いただけなんだけど、最近、ギター弾きから詐欺に遭ったって話が多いらしいのよ』
「詐欺? オレオレ系か」
『違う、もっと悪質な奴。知り合いになったと思ったら急に、金が必要になったって言ってたかるんだって。寸借詐欺っていうの? どうも九州とか本州とかの話みたいだから、もしかしてそっちにもって思って』
尋生は煙草屋の前の喫煙所に移動しながら話を続ける。
「旅唄いなら一人、今ウチで預かってるけどな」
『何それ? ヤバいんじゃない?』
「まあ、そういうタマじゃない。ウチでいい子にお留守番してる頃だ」
『危機管理意識なさ過ぎ。で、そいつは二十代の男で、ハイバラユーキっていうらしいの』
ユーキか、と煙草に火をつけ、
「そういう情報は先に言えよ」
『だから、アンタのネットワークでとりあえず出来るだけは拡散しといて欲しいの』
「そういう面倒事はお前がやればいいだろ。とりあえずススキノのジャニスなんて呼ばれてる人間がSNS拡散すれば一日で全国規模だろうに」
『その二つ名、金輪際やめてよね。アタシはジャニスが好きなだけでジャニスになりたい訳じゃないの。で、とにかく情報は伝えたわよ。アンタの旅唄いネットワーク、信頼してるんだから』
そう言うと、電話は一方的に切れた。
(詐欺ねえ……)
吸い殻入れに煙草を投げると、今度こそ矢作から電話が入った。なので無視してスタジオを目指す。これから五時間みっちり練習かと思うと頭が痛くなった。




