交際クラブの男 ~会員番号3618~ 山城誠四郎 第四話 初めて経験の夜
第4話 初めての経験の夜
山城が彼女の身体に意識を奪われている間に、今度は真理の方が、確実に山城の身体を弄っていった。急ぐわけではない。むしろ丁寧に、どこで息を止め、どこで肩に力を入れ、どこで堪えようとするのか、一つひとつ確かめるように触れてくる。
山城は、男が声を出すなど恥ずかしいことだと思っていた。
男は黙っているものだ。女を喜ばせる側でいるものだ。声を漏らし、余裕をなくし、翻弄されるのはみっともない。
だが、真理の指先がわずかに動くたび、喉の奥から声が出そうになる。
山城は必死にそれを我慢した。唇を閉じ、息を殺し、腹に力を入れる。だが、我慢すればするほど、真理はそれを面白がるように、さらにゆっくり追い詰めてくる。
ふと、真理が顔を上げた。
こわばった表情を見て、楽しむように微笑む。
「かわいい。山城さん」
そう囁くと、反応を確かめるように、さらに大胆に山城を弄った。
触れられている箇所とは別のところで、血が一気に集まっていくのが分かる。
山城は必死に別のことを考えようとした。
現場のこと、明日の会議のこと、社員の顔──何でもいい、とにかく他のことを頭に押し込む。そうしなければ、本当にそのまま果ててしまいそうだった。
この女は、知っている。
自分が何を恥じているのか。どこで見栄を張っているのか。どうされると理性が崩れるのか。真理は、すべて知っているようだった。
頭のどこかでは、まだ冷静な自分がいる。
「ここで崩れたらみっともない」「落ち着け」と言い聞かせる。だが、その声をあざ笑うように、身体の方が先に反応していく。
いつ、この女はこんなことを覚えたのか。
その疑問が、ふいに胸に刺さった。
誰に教えられたのか。どんな男たちを相手にして、どれほどの夜を重ねて、この手つき、この間合い、この声を身につけたのか──考えた瞬間、嫉妬が湧いた。
自分より前に、真理を知った男たちがいる。恍惚の顔を見た男がいる。こうして扱われ、同じように情けなく乱された男がいる。
そう思うと、胸の奥がざらついた。
だが、その嫉妬すら、欲望を冷ますどころか、かえって深くした。
「他の男たちと同じにはなりたくない」と思いながら、反対に真理の手から逃れられなくなっていく。
山城は、真理を独り占めしたいと感じた。今だけでいい、この時間だけでいい。金で決められた関係だと分かっていても、この瞬間だけは、自分だけの女であってほしかった。
真理は、そんな山城の内側まで見透かし、反応を楽しむように、さらに追い込んでいった。
山城はもう、声を殺すだけで精一杯だ。喉の奥で短く切れる息を、どうにか飲み込もうとする。
自分が彼女を抱いているのではない。
彼女に試され、引き出され、男としての一番みっともない部分まで暴かれている。
そう分かっていながら、逃げられなかった。
むしろ、その屈辱に近い感覚までもが、抗いがたいほど甘かった。頭では「やめろ」と言いながら、身体は「もっと」と答えてしまっている。
やがて山城は、彼女が醸し出す空気の流れに逆らうことをやめた。
頭のどこかで最後の理性の灯を握りしめたまま、それでも身を任せ、真理に導かれていった。
考えるより先に、感じることの方が優先されていく。
窓の外には銀座の灯りが静かに揺れていた。テレビの音は遠くなり、部屋には二人分の息遣いだけが残った。
そして、その夜、彼は知った。
自分が思っていた以上に、誰かに触れられることを求めていたのだと。
しばらく二人は、ベッドの上で抱き合ったまま、何も言わなかった。
真理が自分に身体を預ける時、その仕草にはどこか計算された自然さがあった。山城を喜ばせることを知っている。自信を持たせ、男でいさせる空気を上手に作っていた。
それが本心なのか、仕事としての演技なのか。
その時の山城は、分からないままでいたかった。見抜こうと思えば、たぶん見えてしまう。だが、見えてしまえば、この柔らかい温かさまで嘘になる気がした。
山城は考えるのをやめ、艶めかしい真理の身体に酔った。
真理の髪からは高価な香水ではない、シャンプーと肌の温度と銀座の夜が混じった匂いがした。
一人身になってからも、店の女を抱くことはあった。
だが、恋人ごっこのようにホテルで人と抱き合うのは久しぶりだった。
誰かが隣にいること。
自分の腕の中に女の体温があること。
何かを話さなくても、空間が埋まっていること。
それだけで、妙に満たされていた。
やがて山城は少し体を起こした。
「シャワー、浴びますか。先に浴びてください」
真理は小さくうなずく。
「はい」
白いタオルをまとい、彼女はバスルームへ消えた。
扉が閉まると、山城は一人になった。
さっきまでの熱がまだ部屋に残っている。テレビはついたままだが、音は遠い。仰向けになり、天井を見る。
満足していた。
男としての自信も、確かに満たされていた。真理も少なくとも受け入れてくれたはずだと感じていた。彼女もそれなりに満足していた──そう思いたかった。
しかし同時に、別の考えも浮かんだ。
演技だったのではないか。
思った以上に大胆だった。声も反応も、想像より大きかった。そのたびに嬉しくなり、若い頃のような得意さを感じていた。
だが、落ち着くと、その得意さの裏側に小さな疑いが生まれる。
あれは、本当だったのか。
それとも、自分を喜ばせるためのものだったのか。
人の表情や声の変化には敏感なはずの山城にも、真理のことは分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
やがてバスルームの音が止まり、真理が戻ってくる。髪を軽く整え、少し現実の顔に戻っていた。部屋に入った時の女ではなく、帰る準備をしている女の顔だった。
山城は、その変化を少し寂しく感じた。
「お小遣いは、八万円ですよね」
財布を出しながら聞くと、真理は静かにうなずいた。
封筒に入れておいた金を渡す。裸の札で渡すのは品がない気がしていた。こういう時でさえ、どこかで形を整えたかった。
真理は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
丁寧な言い方だった。あまりに丁寧で、少しだけ現実に戻された。
これは恋人同士の夜ではない。
約束された時間であり、決められた関係であり、金銭のやり取りがある。
分かっていたはずなのに、封筒を渡した瞬間、改めて突きつけられた気がした。
それでも、不思議と嫌な気持ちはなかった。
むしろ、はっきりしていてよかった。曖昧に期待し、傷つくよりよほど分かりやすい。
「真理さん」
「はい」
「LINEを教えてくれますか」
少し緊張しながら言う。断られたらどうしようと思った。
クラブは一度会ったあとは関与しない。連絡先を聞かなければ、今後会える見込みはない。
また会いたいと思っているのは、自分だけかもしれない。
だが、真理はすぐ微笑んだ。
「ぜひ」
その一言で、胸が軽くなった。
二人はスマートフォンを出し、LINEを交換した。画面に真理の名前が表示される。苗字は違うが、真理は本名だという。
ただの連絡先。それだけだ。
それなのに、細い糸が一本つながったように感じられた。
真理はスマートフォンをしまい、山城を見た。
「私は、今は特定の人がいません。ぜひ、またお会いしてください」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で鐘が鳴ったような気がした。嬉しさのあまり、いやらしい顔をしていないか心配になる。
その反面、自信もなかった。
仕事としての言葉かもしれない。また会えば、また収入になる──そう考えているだけかもしれない。
それを素直に信じてしまうほど、経験も自信もない。
「私は、どのあたりが良かったですか」
聞かなくてもいいことを、また聞いてしまった。言った途端、恥ずかしくなる。
五十八歳の男が、二十七歳も年下の女に自分の良かったところを尋ねている。
真理は落ち着いた微笑みを返し、少し考えてから静かに言った。
「自慢しないところです」
「自慢?」
「はい。経営者の方や偉い方のお話を聞く機会はありますけど、自分の自慢話をずっと聞くのは、正直、大変な時があります」
「そういう人、多いですか」
「多いです」
真理も少し笑った。
「でも山城さんは、そういう感じがありませんでした。会社のお話も、成功談というより、苦労した話を自然にされていて。少し自虐的に楽しそうに話されていて、聞いていて、本当に楽しかったです」
山城は黙って聞いた。
「それに、ご結婚されていないし」
最後の一言が、二度目の鐘を鳴らした。
ご結婚されていないし──
それは、安心という意味か。後ろめたさが少ないという意味か。また会いやすいという意味か。
いけない。早すぎる。
そう思いながらも、胸の中ではもう次の約束を考えていた。
「私もぜひ、またお誘いさせてください」
できるだけ落ち着いた声で言うと、真理はうなずいた。
「はい。楽しみにしています」
どこまで本当かは分からない。
それでも、信じたかった。
その夜、山城はホテルにそのまま泊まるつもりだった。真理には先に帰ってもらう。
「私は、今日はこのまま泊まります」
「そうなんですね」
「ええ。少し飲みましたし、ゆっくりして帰ります」
本当は、帰れないほど飲んでいたわけではない。
ただ、この余韻をすぐ家に持ち帰りたくなかった。一人の部屋に戻って現実に戻るのが嫌だった。
真理はバッグを持ち、帰る準備をした。
部屋を出る時、山城は自然に立ち上がり、ドアの前まで見送った。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
真理がドアノブに手をかけ、ふと振り向いた。
山城に近づき、軽く背伸びをしてキスをする。一瞬のことだった。
山城は驚いて、何も言えなかった。
真理は少し照れた笑顔を見せた。
店での礼儀正しい笑顔とも、部屋での大人の表情とも違う、少女のような素直な笑顔だった。
「また、連絡ください」
そう言って部屋を出た。
ドアが閉まる。
部屋には山城一人が残された。
一度のデートで八万円。食事代、ホテル代、クラブへの紹介料を合わせれば、一晩で十万円を軽く超える。
今の山城にとっては払えない額ではない。
だが、お金の価値は骨身に染みて知っている。
若い頃なら、そんな金の使い方をする男を馬鹿だと思っただろう。
資金繰りに苦しみ、社員の給料を払うために頭を下げていた頃なら、怒りさえ覚えたかもしれない。
だが、その夜は違った。
不思議と損をした気分はなかった。むしろ、満たされていた。
金を払ったからではない。
女を抱いたからだけでもない。
自分がまだ男として扱われたこと。
良い女に出逢えたこと。
その女に帰り際、「また会いたい」と言われたこと。
その一つ一つが、静かに熱を持っていた。
交際クラブなど怪しいものだと、山城はずっと心に蓋をしていた。金で女を買うようなものだと、どこかで軽蔑していた。
しかし、実際に体験してみると、想像していたほど汚くはなかった。少なくとも、今夜の真理との時間は、山城にとって「ただの遊び」ではなかった。
こういう出会いがあるのなら。
もう少し、試してみてもいいのではないか。
危ない考えだと思った。
だが、その危なさをすぐに否定しきれなかった。
「無駄に銀座で三十万使うよりいい」
そんな言い訳を口にしながら、山城はベッドに戻った。
真理がいた場所に、まだ温もりが残っている気がした。シーツには、彼女の香りが残っていた。
山城は、その香りの残るベッドに身を沈めた。
目を閉じると、真理の顔が浮かぶ。
ニット姿。銀座の店でグラスを持つ指。「自慢しないところです」と言った時の声。帰り際の、照れたようなキス。
一つ一つを反芻した。
若い頃に戻ったようだった。
いや、若い頃とは違う。あの頃の恋には、金も契約もなかった。今夜の出会いには、最初から値段がついていた。
それでも、心は確かに動いていた。
その事実だけは否定できなかった。
眠りに落ちる前、枕元のスマートフォンを手に取る。
LINEの画面を開くと、真理の名前がある。
山城はしばらく、その名前を見つめていた。
そして、何も送らずに画面を閉じた。
今夜は、まだ送らない方がいい。
そう思えるくらいには、山城は大人だった。
だが、次に会うことを考えながら眠りに落ちていった。




