第25話 大賢者の違和感と辺境伯家の令嬢
ワルツの最後の一節が、大理石の壁に反響し、夜会の高い天井へと吸い込まれていった。
俺、ユキは、アリアのしなやかな腰に回していた手をそっと離した。
そして、教育係セバスに骨の髄まで叩き込まれた、一切の淀みがない「完璧な騎士の礼」を捧げる。
「……アリアさん。実に見事な舞踏でした」
「あ……お、おう。ユキ、お前……」
深紅のドレスに身を包んだアリアは、肩で荒い息をつきながら、宝石のような赤い瞳を潤わせていた。興奮で上気した彼女の頬が、シャンデリアの光を反射して林檎のように色づいている。
広間を支配していたのは、水を打ったような静寂だった。
数分前まで「蛮族」と嘲笑していた貴族たちが、今は言葉を失い、俺という「レベル1のポーター」が示した矛盾を消化できずに固まっている。
特にアルフレッドは、口を半開きにしたまま、俺の質素な制服を穴が開くほど凝視していた。
(……しまった。アリアさんの誇りを守るためとはいえ、やりすぎたか)
俺の《偽装》はステータスという数値を隠せても、身体が記憶している「気品」までは消し去れない。レベル1617のステータス補正を受けた俺の所作は、帝国最高の舞踏師ですら平伏するほどの、神話的な美しさに達していたのだ。
「ユキーーー!!!」
静寂を物理的に突き破ったのは、アリアの絶叫だった。
彼女は周囲の視線も、ドレスの裾も気にせず、俺に正面から飛びついてきた。
「すごいぞユキ! なんだ今の! お前、ダンスを踊れたのか!」
ぎゅっ、と。
ドレス越しに伝わる彼女の確かな熱量と、剣を振るう者特有の引き締まった、けれど確かな柔らかさを持つ肢体の感触。
至近距離で混ざり合う野生の花の香りと、彼女の激しい鼓動。俺は「強がり」の仮面が剥がれそうなほどの気恥ずかしさに襲われ、思わず顔を背けた。
「私でも踊れた! お前のリード、まるで魔法みたいだったぞ!」
アリアは太陽のような笑顔で、俺の「幸運」と「才能」を無邪気に賞賛した。
彼女の「信じ切るポンコツさ」が、今は唯一の救いだった。
「まぁ、ユキくん……本当にお上手でしたわ」
フィーナもうっとりとした碧眼を向けてくる。
だが、彼女たちの背後で、ただ一人、冷徹な分析眼を光らせている人物がいた。
『大賢者』ルナだ。
彼女は一度も視線を逸らさず、俺の関節の動き、重心の移動、そして歩幅の一致率を脳内で演算し続けていた。
(……不自然。論理的逸脱。確率論的崩壊)
ルナの唇が、無機質な結論を紡いでいるのが見えた。
「……ユキ。議題があるわ」
ルナが音もなく歩み寄り、俺の袖を細い指先でぎゅっと掴んだ。
「ルナさん? 料理なら後で――」
「それより優先度の高い事象が発生した。……今のあなたのステップ。あれは、平民の付け焼き刃では到達不可能な『王室儀礼舞踏』、その最上位形式よ。なぜそれを、レベル1のポーターが体現できるの?」
追及は鋭利な刃のように正確だった。俺は背中を伝う嫌な汗を感じつつ、事前に用意していた「偽りの真実」を口にする。
「……買いかぶりですよ。以前、没落した屋敷で使用人をしていたことがあると言ったでしょう。そこで主人のダンスを、影で見様見真似で覚えただけです」
「……使用人が、見様見真似で? その説明は、私の知性とプライドに対する侮辱よ」
ルナの紫色の瞳が、俺の嘘を根底から否定しようと輝きを増した、その時だ。
「――ルナ様。それ以上は、無粋というものではなくて?」
二階のバルコニーから、一滴の雫が水面に落ちるような、澄んだ声が響いた。
周囲の貴族たちがモーセの十戒のように道を開ける。
水色の髪を揺らし、蜂蜜のような金色の瞳を細めた少女が、優雅に、しかし圧倒的な威圧感を伴って歩み寄ってきた。
セレスティーナ・クレセント。
この地の社交界を支配する、辺境伯家の令嬢。
「素晴らしいものを見せていただきましたわ、『白銀の乙女』の皆様。特に……そちらの、ユキ様」
「は、はい」
俺が会釈すると、セレスティーナは不敵な微笑を浮かべ、俺の耳元へ顔を寄せた。アリアたちに声すら届かない、二人だけの至近距離。
「その礼の角度、指先の残し方。……私の父が招聘している帝国の礼法教師よりも、遥かに『高貴』な香りがいたしますわね」
「……ただの癖です」
「ふふ、癖で王族の所作が出るなんて、とても興味深いわ」
彼女は、アリアたちには決して聞こえない微かな、けれど確信に満ちた声で囁いた。
「――まるで、本物の王子様みたい」
俺の胃が、過去最大級の痛みで悲鳴を上げた。
アリアたちの過保護な愛と、ルナの冷徹な知性。そして、正体に迫ろうとするセレスティーナの接近。
亡国の王子の平穏な日常は、今、予測不能なカオスの中へと叩き落とされた。




