40 蜘蛛の生
住処に戻ると、女の喚き声は聴こえなくなっていた。
アラクネは部屋に踏み込み、ベッドの上を見た。部屋を出た時と変わらず、猿轡を噛まされベッドに縛り付けられた女がそこに寝ていた。
昨夜から暴れ続けていたが、留守をしていた間に随分と大人しくなっている。身じろぎ一つせず、静か過ぎるくらいだ。
顔を覗き込むと、腫れぼったい目が気だるげに数度瞬いた。どうやら生きてはいるらしい。
「……んぅ……」
青い目がアラクネの姿を捉え、口に噛ませた布の下で何かを訴えた。
少し考えてから、アラクネは猿轡を取ってやることにした。首の後ろの結び目を解いて外した布を、舌を噛むような素振りを見せればすぐに口に押し込めるよう指に巻き付ける。口の中に含ませていた湿った布を抜き取ると同時に息が洩れた。
「……縛ったまま何処かへ行くなんて、酷い人ね……」
早速口を利いたかと思えばその口から恨み言が発せられ、アラクネは出端を挫かれた気分になった。構えていた指が行き場を失い、宙を彷徨う。
「……また、殴られた気がするわ……」
掠れた声で恨み言を重ねる。『また』と言う辺り、いつだったかの事を随分と根に持っているらしい。
「殴ったな」
否定する理由もないので素直に事実を認める。ケイは力無く目を細めた。それ以上その事について追及することはなかったがおそらく、呆れているのだろう。
「……シャワーを浴びたいのだけど……」
「駄目だ」
泣き腫らした顔や血と土埃に汚れた身体が気になったが、拘束を解くことは躊躇われた。
「……昨日から、縛られたままなのだけど……」
「我慢しろ」
縛り付けたのはアラクネ自身であるため、そんなことは言われなくても理解している。『殺せ』と泣き喚いていた姿を見ている手前、そう簡単に自由にさせてやる訳にはいかなかった。疲弊し大人しくなってはいるが、冷静になっているとは限らない。
ケイはまだ何か言いたそうにしている。アラクネを見つめていた瞳が、逆の方向へ向いた。
「…………昨日から、用を足していないと言っているのよ」
「…………」
脚を擦り合わせるように動かしたのを見て、ようやく何を言わんとしているのかを理解した。
「こ」
「ここでしろなんて言わないでよ?」
「…………」
ベッドを汚されても困るので、結局は拘束を解いてやることにした。
ロープ代わりに使っていたシーツは、結び目が固く締まり解くことが出来なかった。足首と布の間にナイフを差し込み、肌を傷付けないように切り取る。布の下の皮膚は、激しく暴れ続けた所為で赤く擦り剥けていた。
手首の布も同じように切り取ると、自由を取り戻したケイはゆっくりとした動作で起き上がった。やはり足首同様手首も擦り剥けていて、ケイは傷の具合を確かめるように手首を軽く撫でた。
「……シャワー、使って構わないかしら?」
「十五分で出ろ」
そう言って、アラクネはタオルを手渡した。
「十五分経って反応がなければ、鍵をこじ開ける」
「そんなことされるくらいなら、初めから鍵開けておくわよ……」
タオルを受け取ると、頼りない足取りでバスルームへと消えて行った。ドアは閉められたが、鍵を掛けた気配はなかった。
それから数分の間、バスルームはケイの貸切りとなった。
しばらくして鏡の前に剃刀を置いたままだということに気付いたが、ケイは何事もなくバスルームから出てきた。タオルと共に着替えとしてシャツを渡していたはずだが、ケイは入浴前と同じ服を着ていた。血と埃で汚れたままだが、アラクネのシャツを着なかったのは本人の意地だろう。
まだ目の腫れは取れず、手櫛で梳かしただけの濡れた髪は絡まり放題だが、先程と比べれば随分と身綺麗になった。
「喉が渇いたわ……」
アラクネが冷蔵庫から水の入った瓶を取り出すと、ケイはそれを受け取って直接口を付けた。喉を潤し一息吐くと、瓶を返して自身は濡れた髪のままベッドの上に倒れこんだ。気力体力共に消耗しているらしい。
残った水を冷蔵庫に戻していると、ケイが何事か呟いた。ケイは胎児のように丸くなり、毛布を抱き寄せ顔を埋めていた。
「お腹空いた」
泣いているのかと思いベッドの上を覗き込んだが、毛布の隙間からはそんな言葉が聴こえてきた。
息苦しくなったのか、顔を上げて毛布を胸の辺りで抱え直す。顔を上げた先にはアラクネの姿があったがケイの視線は目の前の男の方には向かず、シーツを剥がれて剥き出しになったベッドのマットに落ちた。
「……馬鹿みたいだわ、私。あんなことがあった後なのに……あれだけ殺せって泣き喚いていたのに、身体が生きようとしている……」
「そんなものだろ」
死を望むだけでは人は死ぬことは出来ない。誰が死のうと腹は減る。身体はそう簡単に生きることを止めようとはしない。
丸くなった身体を避け、アラクネはベッドの端に腰掛けた。
「そんなものかしら……」
ケイは毛布を掴んだまま身体を起こし、アラクネに背を向けて膝を抱えた。髪が乱れているが、顔に掛かった毛を払っただけで、あまり気にしてはいないようだ。
「アキは……死んだのね」
つま先を見つめ、既に起こってしまった事象を自分自身に言い聞かせるかのようにケイは呟いた。
「……ああ」
否定しても仕様のない話だと思い、そう返した。
ケイは黙って額を膝に擦り付けた。
「すまなかった」
責任を感じているつもりはなかったが、そんな言葉が口から零れた。許しを乞うた訳ではない。責め立て、罵られることで自身の中にある不快感を上塗りしたかったのかもしれない。生かそうと決めた人間を守りきれなかったことを、自身が思う以上に気にしているのかもしれなかった。
しかしケイは、アラクネが期待したような反応を返すことはなかった。
「貴方を責める理由なんて、何処にもないわ」
「俺が殺したようなものだ」
「私が悪いのよ……全部」
クチナワがアキツを攫ったのは、アラクネを誘き出す餌にする為だった。アキツとクチナワの間には何の関わりも存在してはいなかった。アキツはアラクネと関わりがあったがために巻き込まれたに過ぎない。ケイが責任を感じる理由は思い当たらなかった。
「全部……使えない貴方を頼った私の責任」
責任は感じているようだが、アラクネを慰めようとしているつもりでないことはよく解る。
「……本当は、知っていたのよ」
「何を?」
「アキが、私の為に生かされていてくれたこと」
アラクネは振り返り、ケイの様子を見た。知らぬ間に、その手には白いハンカチが握られていた。これといった特徴がないので判別は付かないが、おそらくはアキツが過去にプレゼントとして渡したものだ。
ケイは膝に埋めた顔を半分上げていたが、視線に気付くとすぐにまた顔を伏せた。
「顔見ようとしないでよ。酷い顔しているのだから」
「今更だろ」
「……本当に、デリカシーのない男」
隠されてしまったので見えないが、おそらくは不機嫌な顔をしている。見続けている限り、ケイは膝に額を貼り付けたままの姿勢で居ることだろう。お互い首が痛くなるだけなので、アラクネは視線を前に戻した。
「あの子が、生きているだけで辛い思いをしていることは知っていた。知っていながら私は自分勝手にあの子を生かし続けて、あの子はそれに付き合ってくれていた。私はずっと、あの子の優しさに甘えていたのよ」
この姉妹は互いの想いを知りながら、互いが互いを生かすためだけに生きていた。ケイは非合法な商売に手を染め、アキツは苦痛ばかりの生に耐え、心身を削りながらも依存し合うことで均衡を保っていた。
「俺はアキに、あいつ自身かあんたを殺すように言われたことがあった」
「……そう」
その想いも理解していたのだろう。アラクネの告白に対して動揺を見せることはなかった。
ケイが死ねば、アキツもその後を追って寿命を終える。アキツはおそらく、いずれ共倒れになるかもしれない危うい均衡を一気に突き崩したかったのだ。
「……だが、最期にはあんたを生かせと言われた」
自らの死が確実なものとなった瞬間、アキツは共倒れを避けケイを生かす選択をした。
思えば初めて会った時、アキツは姉よりも先に自分を殺すよう頼んできた。順位を付けるとすれば、そちらの方の優先度が高かったということなのだろう。
「泣きながら、笑っていた」
「私が最後に見た時も、あの子は笑っていたわ……」
最期に見せた笑顔が頭から離れない。自分の望んだ通りに事が進み、死を得られたことがそんなにも喜ばしかったのかと考え続けていたが、ケイはアラクネとは違う見解を述べた。
「最期まで……本当に優しい子」
何故笑うことが優しいことと繋がるのか、アラクネには理解出来なかった。アラクネには理解出来なかったが、血縁であるケイには解る何かがあるのだろうと相槌を打った。
「そうか」
「だけど、貴方に私のことを任せたのは頂けないわ」
そう言って、ケイはベッドに転がった。
「貴方に生かされなくたって、私は生きているわ。死ねなかったのだもの……」
「だったら生きていろ」
「そうね……私、あの子がいないと生きていけないと思っていたけれど、実際はそんなことなかった。いくら辛くても……死ねないのなら、生きるしかないのよね……」
布の擦れる音。ケイは毛布を広げ、その中に潜り込んでいた。伸ばした脚がベッドの端に腰掛けたアラクネの身体に少しだけ触れ、すぐに引っ込められた。
「……貴方に迷惑を掛けながら生きていくのも、それはそれで面白そうではあるけど」
衣擦れの音と共に、そんな呟きが聴こえた。
ベッドを占領している時点で充分に迷惑は掛けられているとアラクネは思う。アラクネが立ち上がると、ケイは楽な姿勢を探しているのかまた脚を伸ばした。
「何か食うか?」
先程ケイが空腹を訴えていたことを思い出し、そう尋ねた。
「そうね……でも、後でいい……今は少し、眠りたい……」
夜通し泣き喚いていたケイも、アラクネ同様一睡もしていない。何よりもまず、身体が休息を欲していた。
毛布の下で身じろぎしていたが、しばらくすると大人しくなり寝息をたて始めた。アラクネはそれを見届けてから壁際に寄った。
(後で、か……)
また縛り付けておくべきか考えたが、考えるだけに留めた。壁を背もたれにして、床に座り込む。
いつだったかヤタに、自分は他人の生に依存して生きているのだと言われたことを思い出した。その言葉を借りるなら、ケイはアキツに依存して生きていたということになるのだろう。
依存している間はそれがなくては生きていけないと思うものだが、実際にそれを失った時、人はどうなってしまうのだろうか。
ケイはアキツを失っても死ななかった。
――――俺は、俺の生を失っても生きていけるのだろうか。
ともあれ己の死に関しては、しばらく先送りにしても問題がないように思えた。体内にはミノムシから奪い取った不死があるが、その効力がケイの能力を上回る保証はない。ケイが再起不能になった場合の保険であったが、不要になってしまった。
ケイはもう、自ら死を望むことはない。それならば、不死の呪いに頼るなどという危険な賭けに出る必要はない。
今まで通りアラクネはケイに『生かされる』という形になるが、それも悪くないと思えた。
(多分、俺は……)
初めから、この女を殺すことが目的ではなかったのだろう。
殺すことは生きるための手段だった。だから、ただ生きる目的が欲しかっただけなのだろう。
否、目的はただの後付けに過ぎない。もっと単純で、簡単なことだ。
ただ、生きたかった。
(新しいシーツを買わなければならないな)
途端に、どうでもいいような事が気になった。
シーツなんていつでも買いに行ける。無くても死にはしない。本当にどうでもいいようなことだった。
アラクネはシーツの掛けられていないベッドの上を見た。膨らんだ毛布が規則的に上下している。
それを見ながらアラクネは、自分でも気付かないうちに眠りに落ちていた。




