39 蛹の呪
その店にあるのは相変わらず本棚に並んだ分厚いファイルと至る所に貼られた付箋紙ばかりで、人の姿はなかった。
行き場も還る場所も失った名前達。墓場のようなその場所をすり抜けて、アラクネは衝立の裏側に踏み込んだ。
この場所を閉ざしていた鍵は、ヤタから譲り受けた。
アラクネは借りるだけのつもりであったが、返してもらう機会がないのだからと言われ、譲り受けるという形になった。
奥の部屋にも人の姿はなかった。先程通り抜けた場所も、おそらくは地下室も、最後にこの場所を訪れた時のままだ。しかしこの部屋だけは変化が見られた。
ベッドの上。シーツが土に汚れていた。ただそれだけだった。
「…………」
その汚れを一瞥して、部屋の中を見渡す。
簡素なデザインの机に引き出しが一つ付いているのを見付け、迷わずに開けた。
探していた物は、それですぐに見付かった。
店を出る際、再び扉を施錠するべきか少し考えた。
治安の悪い街だ。鍵を開けていればすぐさま中を荒らされて浮浪者の溜まり場にでもなるだろう。
この場所がどうなったところで、戻ってくる主はもう居ない。
少し考えて、わざわざ開けておく理由もないと思い、鍵を掛けた。
「あらァ、アラクネちゃん来てたの? 居るんなら声を掛けなさいな」
ミノムシは知らぬ間に店に入り込んでいた男の存在に気付くと、本気で怒っているという様子でもないが、その不躾を叱った。
「わざわざ足運んでもらったのに悪いけれど、残念ながらまだいい呪いは入ってきていないわよ」
アラクネに与えられた命屋の能力を塗り替えるだけの呪い。それを求めてアラクネは何度かこの呪い屋を訪れているが、今回同様芳しい回答を得られたことはなかった。
「構わん」
「そォ? じゃァまた一緒にお酒でも呑む?」
報告を聞いてもすぐには帰ろうとする気配がなかったので、そう誘ってみた。
「いや、それもいい」
アラクネは誘いを断り、だがそれでも帰る気配は見せず、ミノムシに近寄った。
「もう呪いを探す必要はない」
「じゃァ、何を……?」
脚の不自由なミノムシは常に床に座り込んでいるため、傍に立ったアラクネの姿を見上げる形になる。首を逸らすように見上げ、不思議そうな視線を送る。
アラクネは奇妙な風体の男を見下ろし、この店に来た目的を告げた。
「てめぇの不死を貰う」
ミノムシは見上げたまま、ゆっくりと首を傾げた。そしてゆっくりと元の角度に戻すと、弾かれたように笑い出した。
「ァはははッ! 面白い冗談だわァ」
身体を折り、手を叩き出しかねない勢いで笑う。アラクネはその様子を、表情を変えず見下ろす。
「俺は本気だ」
「あァそう? それならそれで別にいいわァ」
ミノムシは笑うのを止めると、ぐるりと首を捻った。
「だけどねェ、前にも言った通りアタシはこの呪いを手放す気はないわ。アタシの意思がなければ、この呪いを他に移し替えることなんて出来やしないのよ?」
そう言って自分の胸を指す。
「どうやってアタシから不死を奪い取るつもり? 何をしてもムダよ。拷問でもしてみる? むしろ望むところだわァ」
己の身に受ける苦痛を生の糧としているマゾヒストは馬鹿にするようにけらけらと笑う。
「無駄かどうか試してみるか?」
アラクネは机の上の伏差しを手に取ると、それに刺さっている伝票の束を引き抜き、床に置いた。そしてミノムシの手首を掴み、骨張った手の平をその上に翳させた。
「どうするの? このままアタシの手をこの上に叩きつけるの?」
「ああ、そうだ」
にやにやと笑うミノムシの態度を意に介さず、宣言通り上向きに伸びた太い針に手の平を叩きつけた。
「……あら?」
何が起きたのか、ミノムシは理解が出来なかった。
伏差しの針は、ミノムシの手の平を貫通していた。
「え……どうして……?」
自分の身に起きた事が信じられず、ミノムシは手首を掴んだアラクネの腕を引き剥がすと、手の平に刺さった伏差しを引き抜いた。血で赤く濡れたそれを床に置くと、今度は自らの意思で手の平を叩きつけた。
「あれ……?」
すぐに針を引き抜き、もう一度同じ事を繰り返す。
「なんで……どうして……?」
もう一度繰り返す。今度は逆の手で同じ事を試す。やはり結果は変わらず、もう一度。繰り返すごとに手の平とそれを覆う皮の手袋の穴が増えていく。
ミノムシは針を引き抜き、自分の手の平の穴を表から裏から確認した。
「なぜ……何故だ……」
穴の開いた手袋からは桃色の肉が覗き、赤い血が止め処なく溢れ出ていた。その事実を確認して、ミノムシは絶叫した。
「何故、ナニも感じないの!!?」
生きるための糧。自分と生を繋ぐ苦痛。その苦痛を、今のミノムシの身体は感じることが出来なかった。
「香の臭いに慣れて麻痺しちまってるから、変化に気付かねぇんだ」
感情を感じさせない男の声が耳に落ちた。
ミノムシは慌てて辺りを見渡し、鼻を蠢かせた。常人ならば吐き気を催すほどの甘い臭い。常時焚かれたその香の臭いの変化は感じ取ることが出来なかったが、店の中の景色がいつもより煙って見えた。
煙の正体に思い当たり、ミノムシは土気色の肌を青みがかったものにさせた。
「まさか、マナの……っ、あの葉?!」
ここに来る前、アラクネはある物を探して名前屋の店に足を運んだ。
探していたのは、マナが愛用していた煙草の葉。
感覚を、特に痛みを遮断する、麻酔のような効果を持つ煙草の葉――――
「ィやだ、嫌だ……イヤ……っ」
ミノムシは腕を使って床の上を這い進む。煙を吐き出す香炉に手を伸ばすが、それに届く前に虫のような歩みは止められた。アラクネがミノムシの片足を踏みつけ、その歩みを止めていた。
逃れようと足を引くが、びくともしない。アラクネが足を上げようやく解放されたかと思ったのも束の間、靴底が落下しミノムシの足を容赦なく踏み砕いた。
「ヒィ……!」
骨が粉砕される音が耳に響く。しかしその衝撃に見合うだけの痛みは感じられない。ミノムシにはそれが堪らなく恐ろしかった。
アラクネは腰を下ろすと、ミノムシの腕を掴んで床に押し付けた。片方の手には先程の伏差しが握られている。
「いやだ……っ」
腕に針を浅く突き立て、ゆっくりと引く。包帯とレザーに引っ掛かりながら、皮膚が抉られていく。
「やめ……ッ、お願い、やめて……やめて……!」
穴だらけの片手を伸ばして、必死に縋り付く。手袋と衣服越しに、爪がアラクネの腕を引っ掻いた。
「俺も慣れている訳ではないからな、細かい力加減はできん」
香に混ぜられた葉の効果はアラクネにも表れている。爪を立てられたところで痛みは感じず、伏差しを握った手の感覚も鈍い。
「……まぁ、加減ができないところであまり関係はないか」
縋り付いた手を引き剥がし、針を振りかぶって手の平を床に磔にした。動きを封じた手の指を持ち上げ、小指から順に折っていく。
「ャめ……やめて……だん、なサマ……こんな……だ、方が……ッ」
ミノムシは涙声になりながら、アラクネではない別の誰かに訴えた。混乱の余り意識が過去と混濁している。
「辛いか、ミノムシ」
三本目の指を摘んで、アラクネは尋ねた。
「ァ、当たり前だ……! こんな……生を感じられない生なんて……! だから渡せと言うの? 不死を手放し楽になれと言うの? ……嫌、イヤ! アタシは生きていたくてこの呪いを手に入れたのに……こんな……生を失ったまま死ぬなんて、そんなのは……!」
「ならば、続けるまでだ」
小枝でも折るように容易くへし折る。
「ギィ、ア……!」
声、と言うよりはガラスを引っ掻くような不快な音が喉に埋め込まれた人工声帯から発せられた。
自身の肉体を、心を傷付けられながらも、ただ目の前の光景として見続けるしか出来ない。拷問を受けながらも痛みに狂うことは許されない。否、痛みを感じていないからこそ狂ってしまいたいと思うのに、狂えない。狂ってしまえば楽になれる、しかし狂うには痛みが足りない。死人のような身体では狂えない。
狂ってしまうには、絶対的に生が足りない。
「人間が最も自分の生を感じる瞬間は、どんな時か判るか?」
磔の手の指を全て折り終わったアラクネが再び問い掛けた。
「どんな、って……」
ミノムシにとって生きることと感じることは同義だ。苦痛を感じることが快楽であり、快楽を感じることによって生を素晴らしいものだと思う。それが全てであり、それ以上の答えなど持ち合わせてはいない。
「俺は今まで何人も殺してきた。殺して、死ぬ瞬間を何度も見てきた」
それ以上の答えなどありはしない。あったとしても、それに耳を傾けてはいけない。
「どいつもこいつも自分の死を目の前にした瞬間、命乞いを始める。死にたくない、死ぬのが怖い、まだ生きたいのだと」
それは、悪魔の囁きだ。差し出されているのは猛毒だ。
「死ぬ時、その瞬間だ。その瞬間に、人間は最も自分の生を感じることができる」
聞き入れてはいけない。そんなことは解っているはずなのに――――
「ヤダ、ナニそれ。すごくステキ」
その言葉のなんと甘美なことか。
アラクネは床に刺さった伏差しを引き抜き、ミノムシを解放した。ミノムシは身を起こすと、濁った灰色の瞳を煌々と輝かせアラクネを見上げた。
「本当に? 本当なの? 不死を手放せば、アタシはこれまでよりも強く生きていると感じられるの?」
「ああ、そうだ」
「嘘だったら呪ってやるから」
不死をこの男に明け渡せば、苦しみから解放される。しかも、自身が何よりも望んでいたモノを得ることが出来る。
迷う理由など、何一つとしてなかった。
「ま、呪うなんてのは冗談。あげちゃうなんてもったいない。アナタにあげられる呪いは不死の呪いだけ。他の呪いは、全てアタシが連れて行くわ。ちょっと近くに寄りなさい、アラクネちゃん」
そう言ってミノムシは変形し血の滴る手で手招きをした。
「そう、もゥちょっとこっち……」
アラクネはミノムシの前に膝を付き、促されるままに顔を近付けた。
「そう、イイコね」
ミノムシは身を乗り出し、唇を重ねた。
「――――……ッ!?」
どろりと生温い何かが喉を下る。腐臭が鼻を突き、不快感からアラクネは唇を離した。そんな様子を面白がるかのように、ミノムシはけらけらと笑う。
「これで不死の呪いの所有権はアタシからアナタに移ったわ。もし死にたくなったら、今アタシがしたのと同じようにして誰かに呪いを移しなさい……フフ……ァはははッ!」
説明の途中で耐え切れなくなったのか、ミノムシは堰を切ったように大声で笑い出した。
「あァ……ステキ……! これが死を目の前にした感覚なのね。あァどうしよう、とても怖い、死ぬのが怖い!」
滴り、血の玉で描かれる床の模様が急激に広がった。出血の量が増している。アラクネが傷付けた箇所以外からも血が滲み、全身に巻かれた包帯を見る間に赤く染めていった。
不死を失ったミノムシの身体を、その内に蠢く呪いが蝕んでゆく。
「そうよ、そう! アタシが欲しかったのはコレだわ! こんなに生きていたいと思ったの初めて……あァ、こういうことなのね……」
両手を広げ、天を仰ぐ。その光景は苦しみに耐えかね神に救いを請うているように見えたが、表情は歓喜に彩られていた。
「死にたくない……なのに、とても堪らない。あァ……すごい、すごい! アタシは生きている! 今、誰よりも生きている!」
喉からは絶えず笑い声が洩れている。
けらけら、けらけら。
やがて笑い声はごぼごぼとくぐもった音に変わった。声帯を支えていた肉が爛れ落ちたのだろう。息が詰まり苦しみから胸を掻き毟るが、ミノムシはそれでも声を上げずに笑い続ける。
ついには身体を支えきれなくなり、自らが作り出した血の海に倒れこんだ。痙攣するように笑い、のたうつ。
皮膚が蕩け、拘束具に覆われた身体がぐずぐずと崩れる。そしてしばらくも経たない内に己の容を保てなくなり、黙して動かなくなった。
アラクネは血に沈んだ骨と肉塊を冷ややかに見下ろした。
「……何故、どいつもこいつも簡単に死にたがる」
あれだけ生を望みながら、結局は死を望み笑いながら死んでいった。
「気に入らねぇ」
あの少女が最期に笑ったのも同じなのだろうかと考えると胸が悪くなった。
「こんな風になって堪るか」
足元の死体を睨み付け、アラクネはその場を後にした。




