23 魚の疼
人に干渉するのもされるのも、まっぴらだ。
だから、この能力が煩わしかった。
名前を知れば、そいつが今まで何をしてきたか知ることができた。
別に俺はそんなこと望んじゃいないのに、知りたくないことまで全部、だ。
まだガキだった頃に、カッとなって腹いせに名前を剥ぎ取ってやったことがあった。
名前を失ったそいつは誰からも認識されなくなって、誰にも看取られず消えるみたいに死んでいった。
誰もがそいつのことを忘れてしまったけれど、俺だけがいつまでもそのことを憶えていた。
俺が名前を憶えている限り、俺の中からそいつの存在が消え去ってしまうことはなかった。
そろそろ自活しなければならないという歳になって、若干開き直って煩わしいこの能力を商売に使ってみることにした。
商品として他人に押し付けてしまうことで、俺の中にある他人の名前をどうにかしてしまいたいという理由もあった。
結果、目論見通りにはいかず、俺の中の名前の数をさらに増やしてしまっただけだった。
ある時、一人の男に出会った。
そいつは生きることに絶望して、できることなら消えてしまいたいのだと言った。
名前から、そいつは幼い頃から殺しの術を仕込まれ、暗殺を生業としてきたのだと知った。
本人はそんなこと望んじゃいなかったのに、だ。
多少共感を持ったのかもしれない。
消えたいと言うそいつの望みを叶えてやることは簡単だったが、そうしてやらなかった。
人生をやり直してみる気はないか――なんて適当なことを言って、俺はそいつと名前を交換した。
俺は、俺の能力と過去を丸ごとそいつに押し付けた。
俺の能力と過去を持ったまま、死んでくれることを期待して。
思っていたより前の名前の記憶が残ったままだったが、気にしなければそう気になるものでもなかった。
十年程生きてきた年数に差があるため齟齬が生じてしまった所為もあるだろうが、多分名前屋の能力を受け渡した俺たちには、他の奴らよりも『名前を替えた』という意識が強く出たのだろう。
そいつも多少困惑していたようだったが、文句は出なかったので放っておいた。
俺にとって『マナ』はもう他人だ、どうなろうと関係ない。
俺はいつだって、俺のことを一番に考えて生きている。
変な能力を持った孤児に、名前を与えたのだってそうだった。
物乞いに施してやるほど、当時の俺の懐は温かくはなかった。
だから適当な理由を付けて、適当な名前を与えることでその場を逃れた。
後先のことなんて考えずに。
あの子供が名付け親に懐いてくるなんて考えてなかった。
あの根暗がそのまま生き続けるなんて考えてなかった。
けど俺に関わりさえしなければ、そんなことはどうだってよかった。
そう、関わってさえこなければ――……
「マオから聞いたよ……どうして今更名前を返して欲しいなんて思ったんだ、マナ?」
ヤタと名乗る男は、包丁の刃先をマナと呼んだ男に向けたままそう尋ねた。
マナはヤタの姿を睨みつけたまま、答えない。
ヤタは軽く肩を竦める。
「質問を変えるよ。キミはここに何をしに来たんだ? 俺から名前を奪い返しに来たの? 俺がマオを殺したのか確かめに来たの? それとも、マオを誰かに殺された八つ当たり?」
「……っ!」
心の揺れを示すかのように、髪留めの鈴が小さく鳴った。
「ま、名前を取り返すつもりで来たんじゃないのは解ってるよ。さっきも言ったけど、マオを殺したのは俺じゃない。キミがそれを信じられるかはともかく、それは本当だ。それが確認できたなら、もう帰ってくれてもよかったんじゃない? 俺はキミともマオとも関係ない……何がそんなに気に入らないんだ、マナ?」
「うるさい!!」
ヒステリックに叫び、マナは標を打った。右手が使えず左手一本で縄標を扱った所為か、それとも動揺の表れか、目に見えて技の精度が落ちていた。標はヤタの横を通り過ぎ、すぐさま縄が引き戻されることもなかった。
「何故、そんなことが言える! 何故、無関係だなどと言える! あの子に名を与えたのはお前だろう!? あの子はお前に懐いていたのに、何故関係ないなどと――!!」
マナは己の武器を手元に戻すことも忘れて、ただ感情に任せて叫んでいた。
対照的に、ヤタは落ち着いていた。
「無関係だよ。マオは俺に懐いていたんじゃない、『マナ』に懐いていたんだ――……ああ、そうか」
ヤタは何かに気付いたように、そこで一旦言葉を切った。
「キミは『マナ』でいることが怖かったのか」
「!」
「だから、名前を取り戻したいと思った」
マナはヤタの言葉に顔を伏せ、垂れ下がった縄を握り締めた。
「……そうだ」
言葉に篭められていた熱が拡散し、マナは低い声で呟いた。
「私は、恐ろしかった。盲目に私を慕ってくるあの子を騙していることが心苦しかった。あの子を……自分を偽り続けることが恐ろしかった……」
「騙す? 偽り? ……ふざけんなよ」
今にも泣き出してしまいそうな震えた声で語るマナに、ヤタは冷たく言い放った。
「それって俺の人生も否定してんの? 言っとくけどね、俺は自分を偽ってるつもりなんてないよ。俺は名前をどうにかしたかっただけで、キミの人生を引き継ごうなんて気はなかった。殺し屋なんて向かない仕事はさっさと辞めて、あとは自分の生きたいように生きてきた。キミもきっかけが欲しかったから、名前を替えることを受け入れたんじゃなかったのか? それなのになんで、過去の名前に逃げようとした? ……どうして『マナ』であることを受け入れられなかった?!」
語尾を荒げたヤタの声に、マナの肩がびくりと震える。
ヤタは突き付けていた包丁を下ろした。
「俺はね、必死だったんだよ? マオが俺の前に現れて、キミがここにやって来て、俺の名前を――俺が今まで築き上げてきた人生を奪われるんじゃないかって、怖くて仕方がなかった。だから、キミを殺してでもそれを守ろうと覚悟をした。俺がキミに敵うかは判らなかったけど、ま、キミだって面と向かっての殺し合いには不慣れだろうから可能性は五分だと思ってね」
言いながら、包丁の柄を器用にくるくると回す。
「でもね、今はその覚悟がムダになったかなと思ってるよ。キミは生きていることを否定した、痛みも感じないただの肉の塊だ……死体と変わらない。俺は、死体を怖いとは思わないよ」
包丁を弄ぶのを止め、右足を一歩引いた。脇を締め、腰の辺りに包丁を構える。
「俺はキミに名前を返さない……さあ、これで逃げ道は塞いだ。俺のことが気に入らないなら、八つ当たりでもなんでもいいから掛かって来いよ。俺が、キミを『マナ』のまま殺してやる」
『らしく』なく、挑戦的な口調でヤタはそう言った。
「…………タ……」
縄の先の標は、マナの手元に引き戻されることはなかった。握り締めていた拳が緩み、左手から垂れていた縄が床に落ちる。
「ヤタァァァアア!!」
マナは帯に差していた短刀を引き抜き、ヤタに斬り掛かった。
「そうだよ、俺がヤタだ! ちゃんと解ってるじゃないか、マナ!」
刃がぶつかり合い、金属の擦れる音が耳障りに響く。
「だァッ!!」
ヤタは袈裟斬りに包丁を振り下ろす。振り下ろした刃は、衣服ごとマナの左肩を切り裂いた。
マナは避けることも、防御をすることもしようとはしなかった。血飛沫を舞わせながらも痛みに怯むことはなく、ただ標的へと斬り掛かる。返礼だと言わんばかりに、ヤタの肩を切り裂いた。
「っく……!」
ヤタは痛みに顔を顰める。マナは手を休めない。
「アアァア!!」
咆哮しながら、斬撃を繰り返す。ヤタはそれを弾き返し、受け損ねた刃で傷付き、隙を見て反撃を与えることを繰り返した。
マナの動きは速く、手数が多い。しかし、一撃一撃は軽い。右腕が上がらないため重心が安定せず、狙いを確実に定めることが出来ないでいる。
一方、ヤタの一撃は重い。加えて、マナは己を守ることを捨てている。ヤタの振るう一撃は確実に、深く、マナの身体を切り刻む。
「そろそろ、かな?」
息を弾ませながら、ヤタが呟く。
マナの手から、短刀が滑り落ちた。その上に血が滴り、瞬く間に刃は赤い色に塗り潰された。
ヤタはマナが刃を拾い上げるのを待つことなく斬り掛かった。
マナにはもう、刃を拾い上げるだけの力は残っていなかった。痛みを感じることはなくとも、腱を傷付けられ、血を失い過ぎてしまえば刃を握ることさえまともに叶わない。
かろうじて肉切り包丁をかわしはしたが、足をもつれさせそのまま床に突っ伏した。
うつ伏せに倒れこんだまま動くことも言葉を発することもなく、ただ浅い呼吸の音だけを洩らす。微かに上下する背中を見下ろし、ヤタは呼吸を整える。
「……気は済んだ? もういいかな……俺も疲れた。もう、終わらせようよ」
ヤタは包丁を握る手に力を込め、別れの言葉を口にする。
「じゃあね―――」
凛。
今まで鳴ることがなかったのか、それとも意識の外にあっただけなのか、忘れていた鈴の音がやけに大きく聴こえた。
「あ……」
衝撃と痛みを感じて視線を落とすと、そこに黒髪があった。
「キミがこんなにしつこいなんて、思ってなかった……」
マナはヤタに体当たりをするように、身体をその胸にぶつけていた。ほつれた長い黒髪に混じって縄が垂れているのが見えた。
「キミも、それなりに必死だったってことか……――だけど……」
マナの口に咥えられた標が、ヤタの鎖骨の下に刺さっていた。
――――しかし、浅い。
ヤタは、包丁の柄を握る手に、力を込めた。
「こちとら肉を刻むことには慣れてんだ! 素人なめんなよ!!」
力を込め、マナの腹に埋められた包丁を真横に、引き抜いた。
「……ァが……がは……っ……ぅ、あ……」
マナは仰向けに倒れ、咳き込んだ。喉の奥から血が溢れ、息苦しさから顔を横に向けた。
「ぁ、ぁあ……うぁ、ああ……っ!」
血を吐き出すと、呻き声は慟哭へと変わっていった。重たげに左手を持ち上げ、袖で顔を隠すように覆う。
「ぅあ、ああ……! マオ……マオ……!」
子供のように泣きじゃくり、繰り返し名前を口にする。
ヤタは血に濡れた包丁を引っ提げたまま、男の姿を見下ろしていた。
「どうして……どうして……! 私は、ただ……あの子に傷付いて欲しくなかった……なのに、何故……あの子が死ななければ、ならなかった……!?」
「そんなに大事なら、なんで自分が『マナ』であることを受け入れてやらなかったんだよ」
ヤタは語り掛けるが、マナはそれに対して反応を示さず、失った子供の名前をひたすらに繰り返した。
「マオは自由で、強い子だったよ。あの子なら、陰気でダメな人間なんかとはさっさと縁を切って生きてくことだってできたはずだ」
もはや聴覚が働いていないのかもしれなかったが、ヤタは構わず語り続けた。
「それなのに名前屋を離れようとしなかったのは、キミを慕っていたからじゃないのか? 名付け親だからじゃ――……俺じゃない……『マナ』を慕っていたからじゃないのか?」
そう言うとヤタは黒いツナギの袖で包丁に付いた血を拭い、ホルダーに収めた。これ以上包丁を握り締めていることに意味はなかった。
「痛、ぃ……」
名前を繰り返していたマナの口から、別の言葉が発せられた。
「痛い……いた、い、痛い……」
痛みを感じないはずの男は痛い、痛いと繰り返した。
「いた、い……ど、して……マオ……マオ……」
言葉は途切れ途切れで、もはやうわ言のように意味を成していない。感じている痛みは痛覚によるものなのか、それとも――――
「やっと、生きてる人間らしくなったじゃないか」
それは『ヤタ』が『マナ』に贈る、最後の言葉。
「キミはそのまま、マナとして死になよ」
凛、と控えめな鈴の音が、闇に溶けた。




