21 魚の眼
――――名前を与えたことを、後悔した。
ベッドの上に静かに横たわるモノを見て、アラクネはここに来るまでに感じていた違和感の正体に気付いた。
アラクネは命屋から預かった封筒を届けるために、名前屋の店を訪れていた。その封筒は本来ならば昨日マオが命屋を訪れた際に渡すつもりであったが、渡しそびれてしまったものだった。命屋はそれを届けるようアラクネに頼み、名前屋から話したいことがあると言われていたアラクネはそれを断らなかった。
名前屋の店へと向かう道中、妙に静かだと感じていた。
店に辿り着き、呼び掛けても返事がないので店の奥へと足を踏み入れ、そしてそこでそれを見付けた。
(だから、静かだったのか)
いつも名前屋へと向かう道中を騒がしいものにしていた元凶――マオは、ベッドの上に靴を履いたまま寝かされていた。
寝かされてはいるが、眠っているのではないということは一目で判った。着ている服は血と土埃で汚れ、桜色だった頬は嘘のように白く、至る所に痣が出来ていた。
マオだったモノは、アラクネがよく見慣れたただの肉の塊と化していた。
近付いて見てみると、枕元に何か黒いものがあった。何処かで見た覚えのあるそれを手に取ろうとした瞬間、部屋のさらに奥から物音が聴こえた。
アラクネは伸ばしかけた手を戻し、音が聴こえた方へと足を向ける。
部屋の奥には地下へと続く階段があった。そこを降りて行くに連れ物音は近くなり、あの煙草の臭いが鼻をついた。
地下の部屋は、物置になっているようだった。薄暗い中、几帳面に整頓されていたのであろう棚や箱の中身を片っ端からひっくり返していく店の主の姿が見えた。
「マナ」
呼び掛けると、マナは口に煙管を咥えたまま振り返った。マナはアラクネの姿を一瞥するとすぐに背を向け、また手近にある箱の中身を浚い始めた。
顔に掛かる長い髪に隠れてその表情を伺うことは出来なかったが、いつもの雰囲気とは違っていることを感じた。
「マオは死んだのか?」
アラクネはすでにその事実を確認している。マナがそのことを理解しているのかを確認するためにそう尋ねた。
「はい。店の近くに倒れていました」
空になった箱を乱暴に押しのけるその行動は荒々しいが、思いのほかいつもと変わらぬ落ち着いた声が返ってきた。
「あんたは何をしている?」
「探し物を」
背を向けたまま、端的に返す。
「誰が殺ったか判っているのか?」
「確証はありません。ですが、会わなければならない人がいます」
いつもと同じ声だと感じていたが、そこには普段にはない鋭さが含まれていることに気付く。
「仇でも討ちに行くつもりか?」
「…………」
マナは、その質問には答えなかった。しばらく荷物を漁る音とマナの髪留めの鈴が転がる音だけが響いた後、マナが口を開いた。
「アラクネさん、死体処理業者と連絡を取ることは出来ますか?」
「肉屋か? あぁ、できるが」
「呼んでいただけますか?」
アラクネは訝しく思いながらも、ポケットから端末を取り出した。肉屋は非合法な死体処理を請け負う業者だ。身寄りのない孤児であるマオの死体を片付けるつもりであるのならば、わざわざそんなものに頼る必要はないように思えた。
「ヤタ? 俺だ」
コール音が途切れるのを待って、アラクネは端末に向かって喋り掛けた。
「……ああ、そうだ。名前屋に……あ?」
顔を上げて、マナの方を見た。マナは目的のものを見付けたのか物置を荒らすのを止め、幅のある服の袖に何かを入れているようだった。
「……判った、伝える」
そう言って、通信を切った。
「会う場所を指定された。どういうことだ?」
死体は店にあるというのに場所を移す理由が判らない。しかも連絡を受けた側が一方的に場所を指定するというのはどういうことなのか。
アラクネが肉屋との会話の詳細を伝えると、マナはまだ煙の立ち昇る煙管を携えて立ち上がった。散らかしたものを片付けることもせず、階段を塞ぐように立つアラクネに歩み寄る。
「アラクネさん、お願いがあります。私と一緒に、来て欲しいのです」
「それは構わんが、俺にどうしろと? 死体を運べばいいのか?」
「いいえ、マオはここに置いて行きます。貴方にはただ、見届けて欲しい。私に何かあれば、そのことをマオに伝えて欲しい……」
死体にどうやってものを伝えろと言うのか、何を伝えろと言うのか、アラクネには理解出来なかった。しかしマナの口調に有無を言わせない気迫を感じ取り、了承した。
「……判った」
アラクネは、マナの瞳の色が長い髪と同じ黒色であることにこの時初めて気が付いた。
「ありがとうございます。……行きましょう」
マナはアラクネから視線を離すことなく、そう言った。
指定された場所は、建設途中のデパートの一角だった。床板と壁は貼られて一応建物としての形態は成しているが、コンクリートの柱や鉄骨が剥き出しのままになっている。仕切りとなる壁の類は設置されておらず、広いフロアの視界を遮るものは所々に突き出した太い柱のみだ。
陽は沈みかけ、作業員の姿は既にない。明かりとなるのは作業用に設置されたライトのみ。その光で十分に視界は利くが、強い光が柱の裏に出来る影を一層濃いものにしていた。
黒に塗り潰された柱の陰に溶け込むように、黒い作業着姿の男はいた。
「あれ、アラクネも来たんだ?」
いつもの軽い調子でそう言ったヤタは、その隣に立つ男の姿を見て双眸を細めた。
「やぁ、マナ。久しぶりだね。別に会いたくはなかったけど」
「…………」
マナはヤタの挨拶に無言で返す。双方、再会を喜んでいるという雰囲気ではなかった。
「知り合いなのか?」
アラクネがどちらにともなく尋ねる。問いに答えたのは、ヤタの方だった。
「まーね。こっちとしてはキミらが知り合いだったってことに驚きだけど、まぁ命屋さんの知り合い同士だし、不思議じゃないか」
ヤタは柱から離れると、ツナギのベルトに取り付けられたホルダーから何かを取り出した。
「さてと、俺に何か用事があるんだろ? さっさと本題に入りなよ。世間話がしたいだけならまぁ、付き合ってやってもいい。けど――……」
腕を伸ばし、手に持った物でマナを指す。
それはマオの枕元にあったものと同じ、黒い短剣。
「それ以上のことを望むつもりなら、俺はキミを殺そうと思うよ」
衣擦れの音がして、アラクネは隣を見た。マナの袖から、縄が輪を作るようにして垂れていた。
「……どうして、あの子を殺したのですか……?」
「あの子? マオのこと? 何言ってんの、殺してないよ。しつこいから少し痛い目見てもらっただけで、元気に逃げて行ったよ」
「そうだとしても、あの子が死んだのは事実です」
ヤタは首を傾げ、アラクネに意見を求めるように視線を寄越した。
「マオが死んだのは本当だ。両腕からの出血と、何度も殴られたような痕があった」
それを聴いて、ヤタは少しだけ驚いたような顔を見せた。しかしすぐに、真顔に戻る。
「腕を斬ったのは俺だけど、殴ってはいないよ。キミは仇討ちに来たつもりなのかもしれないけど、見当違いもいいとこだ。マオの死に、俺は無関係だ」
「無関係だと……?」
そこで初めて、マナの声に怒気が帯びた。
「あの子は、お前が――――!」
マナは縄を垂らした手を胸の前に構えた。輪になっていた縄は袖の中から伸びたものであり、その先端には刃が結び付けられ、マナの手に握られていた。
その刃は、黒い鳥の羽根に似た諸刃の短剣だった。




