EX――世界の例外になる力
例外、という言葉は、俺にとって別に格好いいものじゃなかった。
学校のプリントなら欄外に小さく書かれているやつだし、農作業なら予定通りにいかない面倒ごとのことだ。苗が思ったより伸びない。水路が詰まる。天気予報が外れる。親父が急に機嫌を悪くする。
例外は、だいたい困る。
けれど今、胸の奥で開いた扉の向こうにあったものは、たぶんその困る力だった。
王国の決めた枠から外れる力。
八乙女レオンが作った物語に、入らない力。
「Exception……?」
レオンが小さく呟いた。
初めて聞く言葉だったのか、それとも意味だけは理解したのか。どちらにしても、あいつの顔から余裕が少しだけ削れた。
ほんの少しだ。
それでも十分だった。
俺は床に手をついたまま、ゆっくり息を吸った。体は重い。六日の心から術式を抜いた反動で、腕は鉛みたいだ。指先は震えている。普通に考えれば、立ち上がるだけで精一杯だった。
だが、見えていた。
部屋中に線が張り巡らされている。
青い線。王命の線。
金色の線。六日から奪われ、レオンへ流れ込んだ勇者スキルの線。
赤黒い線。床の儀式陣から六日と、その腹の奥にある小さな命へ伸びる線。
どれもが、人を人として見ていなかった。
対象。
器。
駒。
王国の線は、いつもそういう名前を誰かに貼りつける。
「大和さん」
青葉の声がした。
振り返らなくてもわかった。彼女は泣きそうな顔をしている。けれど、足は引いていない。
凪は六日を抱えるように支え、雫は扉の前で弓を構え直していた。六日は苦しそうに息をしながら、それでも俺を見ていた。昔の六日の目で。
戻ったわけじゃない。
壊れたものが全部直ったわけじゃない。
それでも、あの目は王妃のものではなかった。
「君のスキルが何であれ」
レオンが剣を抜いた。
勇者スキルを纏った瞬間、剣を抜く動作までやけに様になる。訓練を積んだ剣士の動きではない。世界そのものが、彼を格好よく見せるように補正している感じだった。
腹が立つ。
「勝つのは僕だ」
レオンが踏み込んだ。
速い。
六日が戦場で見せたものと同じだ。踏み込む場所に迷いがなく、床の絨毯は足を取らず、照明の光まで彼の目に入らないように味方する。雫の矢も、青葉の術式も、凪が投げた薬瓶も、全部がわずかに逸れる。
世界がレオンを勝たせようとしている。
なら、俺はその勝負にいないことにする。
俺は金色の線に手を伸ばした。
熱い。
触れた瞬間、指先の皮膚が焼けたような痛みが走った。だが、もう怯まなかった。田んぼの水門が錆びついている時、少し痛いくらいで手を離したら水は流れない。
俺を、レオンの勝利条件から外す。
青葉を外す。
凪を外す。
雫を外す。
六日を、王家の所有物という判定から外す。
「外れろ」
言葉は短かった。
けれど、部屋の空気が変わった。
レオンの剣が俺の肩へ落ちるはずだった。
俺は避けられる体勢ではなかった。普通なら、そのまま斬られて終わりだったと思う。
だが、剣は俺のすぐ横を通った。
外れた、というより、剣が俺を狙う理由を一瞬見失ったようだった。レオンの目が見開かれる。勢いを殺しきれず、彼の足が一歩流れた。
勇者スキルを手に入れた王子が、ただの人間みたいに体勢を崩した。
雫はその一瞬を逃さなかった。
矢が飛ぶ。
今度は逸れなかった。
矢はレオンの頬をかすめ、後ろの壁に刺さった。血が一筋、綺麗な顔を伝う。
雫が口笛を吹いた。
「お、当たるじゃん」
レオンは頬に触れ、指についた血を見た。
その顔から笑みが消えた。
「不愉快だな」
声が低くなる。
「実に不愉快だ。君たちは、自分が何をしているのかわかっているのか? 王に選ばれる者の物語を、汚しているんだよ」
「物語って便利だな」
俺は立ち上がった。
膝が笑っている。視界の端が白い。けれど、立てた。
「六日も、俺も、青葉も、モリューカの人たちも、お前の物語の登場人物じゃない」
レオンの指輪が強く光った。
「跪け」
命令だった。
声が部屋を打った瞬間、青い線が爆発するように広がった。近衛兵たちの膝が折れる。廊下にいた侍女の悲鳴が聞こえ、遠くの広場からもざわめきが起きた。
王命が王城全体に走っている。
レオンは怒りを隠さず叫んだ。
「僕を王と認めろ! 僕を愛せ! 僕こそがこの国を導く者だ!」
青い線が、俺の胸にも絡もうとした。
だが、触れた瞬間に滑った。
入れない。
王命は俺の内側に入れない。
それを感じた瞬間、俺はようやく理解した。
EXは、相手より強い力じゃない。
相手の決めたルールの外に立つ力だ。
レオンが王命で世界を縛るなら、俺はその世界から人を外す。
「青葉!」
俺が叫ぶと、青葉はもう動いていた。
彼女は王妃の間の壁に走り、落ちた白布の下から現れた祭儀紋へ手を当てる。榴岡愛子が止めようとしたが、雫の矢がその足元へ刺さった。
「動くと次は足。二歩目で射るよ」
「四歩目ではないのですか」
榴岡が苦しげに言った。
「今日は混んでるから短縮営業」
こんな時でも雫は雫だった。
青葉は床に膝をつき、術式に自分の血を一滴落とした。砕けた若葉の飾りの破片も握っている。
「この部屋は戴冠台と繋がっています。王命を広げるための祭儀室です。なら、逆に記録を流せます」
「やれ」
俺が言うと、青葉は振り返らずに頷いた。
「王都の皆さん、聞いてください」
青葉の声が、部屋の外へ流れた。
いや、王城の外へ。
広場へ。
通りへ。
青葉王都全体へ。
最初はざわめきだった。祭りを待っていた民、戴冠式の壇の前に集められた貴族、近衛、神官、王命で膝をつきかけていた人々。その頭上に、青葉の声が降った。
「私は杜野青葉。かつて王国の巫女として、異世界召喚に関わりました。今から読み上げるのは、王国が秘匿してきた召喚者の記録です」
レオンの顔が歪んだ。
「やめろ」
青葉はやめなかった。
彼女は袋から文書を取り出し、読み始めた。
過去の召喚者の名前。
公式記録と、実際の処分記録。
帰還術式が隠されていたこと。
勇者を王家に取り込み、不要になれば消してきたこと。
六日の心を王命恋慕で縛ったこと。
胎脈を王家の継承器にする計画。
ひとつひとつの言葉が、石畳へ落ちていく。
落ちた言葉は、すぐには爆発しない。
ただ、人の足元に染み込む。
秋保の粥みたいに。
作並の井戸水みたいに。
じわじわと、王国の物語に穴を開けていく。
「嘘だ!」
広場から誰かの声が聞こえた。
「魔王の偽文書だ!」
別の誰かが叫ぶ。
当然だ。
人は、一度信じたものを簡単には捨てられない。王家は正しい。魔王は悪い。勇者王妃は幸福だ。そう信じていた方が、昨日までの自分を否定しなくて済む。
だが、六日が立ち上がった。
凪に支えられながら、それでも自分の足で。
顔色はひどい。王妃の衣装は重そうで、髪飾りも崩れている。それでも、彼女はレオンではなく、青葉の術式へ向かった。
「六日、無理するな」
俺が言うと、六日は首を横に振った。
「無理しなきゃいけないのは、今だと思う」
声は震えていた。
でも、逃げなかった。
六日は祭儀紋に手を当てた。
「私は五十沢六日です。異世界から召喚されました」
広場のざわめきが止まる。
勇者王妃本人の声だ。
「私は、レオン殿下に心を縛られていました。自分で選んだと思っていた言葉の中に、王命が混ざっていました。大和くんを傷つけたのは私です。全部を操られていたとは言いません。でも、その弱さを利用されました」
六日の声が詰まった。
俺は何も言わなかった。
言うべきではないと思った。
「王国は、私の子を王家の道具にしようとしています。勇者の力を、王族の血に固定するために」
その言葉は、剣より深く王都を裂いた。
女たちの悲鳴が聞こえた。
兵士の罵声も、神官の怒鳴り声も聞こえた。
そして、その全部を押し潰すようにレオンが叫んだ。
「黙れ!」
王命がさらに強くなる。
青い線が王都中を覆う。
人々の膝が落ちる。
声が消える。
疑いかけた目が、強制的に伏せられる。
レオンは笑った。
「民は王に従う。それが国だ。君たちがどれだけ言葉を並べても、最後に立っているのは王命だ」
その通りなのかもしれない。
王国は長い時間をかけて、人々の中に水路を作ってきた。王命という水路だ。そこへ命令を流せば、人は自然と従う。疑問も恐怖も怒りも、全部同じ方向へ流される。
だが、水路は変えられる。
俺は祭儀紋の中心に手を置いた。
青い線が指に絡む。
数が多すぎる。
王城の中だけじゃない。広場、通り、兵舎、神殿、家々。王命の線はこの街全体に伸びている。全部を抜けば、俺の体が先に壊れる。
だから、抜かない。
外す。
王命という枠から、人を外す。
全員をいきなり自由にするなんて、そんな都合のいいことはできない。けれど、今、王国の嘘を聞いた人。疑った人。膝をつきながらも、なぜだと思った人。魔王の粥を食べた話を聞いた人。呪印を抜かれた兵士の手首を見た人。
自分の中に、ほんの少しでも別の水路を持った人。
そこを広げる。
「EX」
喉の奥から声が出た。
今までのどの発動とも違った。
抽出でもない。
拡張でもない。
除外でもない。
その全部を通り抜けて、もっと奥へ続く感覚。
支配の物語から、連れ出す。
「出ろ」
俺は言った。
「そこは、お前たちの居場所じゃない」
青い線が震えた。
最初に立ち上がったのは、広場の端にいた老人だった。
誰かは知らない。たぶん王都の民だ。王命で膝をついていたが、杖を震わせながら立った。
次に、子どもを抱えた女が立った。
その次に、若い兵士が剣を落とした。
秋保で見た母親の姿が、広場の人垣の中にあった。作並で呪印を抜いた兵士もいる。彼らだけではない。知らない顔が、ひとり、またひとりと顔を上げる。
全員ではない。
それでも、十分だった。
王命は絶対ではなくなった。
レオンの顔から血の気が引いた。
「なぜ立つ。僕が命じているんだぞ」
誰も答えなかった。
答えないまま、立つ。
それが一番効いたのだと思う。
レオンは指輪を掲げた。
「長町泉! 近衛! 反逆者を捕らえろ!」
扉の外から足音が近づいた。
長町泉が入ってきた。
銀ではなく、儀礼用の白い鎧を着ている。式典警護の姿だ。彼女は部屋の中を見た。倒れた榴岡、術式に手を当てる青葉、六日、俺、そしてレオン。
レオンが怒鳴る。
「長町! 命令だ!」
長町の膝は折れなかった。
俺は彼女に絡む青い線を見た。
太い。
重い。
長い年月、騎士として王家に仕えてきた線だ。簡単には外れない。だが、その線にはすでにひびが入っていた。
畑を焼く神殿兵を見た時。
六日の目が消えるのを見た時。
俺を追放した時。
彼女はずっと、納得していなかった。
だから、少しだけ押す。
長町泉を、レオン個人の命令から外す。
王国を守ることと、王子に従うことを、別のものにする。
青い線が滑り落ちた。
長町は剣を抜いた。
そして、その切っ先をレオンへ向けた。
「八乙女レオン殿下。王命の不正行使、勇者王妃への術式干渉、召喚記録の隠蔽、ならびに民への強制支配。王国騎士団長として、あなたを拘束します」
レオンはしばらく何を言われたのかわからない顔をしていた。
それから笑った。
「君までか。君まで僕を裏切るのか」
「私は王国に仕えています」
長町の声は震えていなかった。
「あなたの欲望に仕えているのではありません」
その一言で、レオンの中の何かが切れた。
彼は剣を構えた。
金色の線がまた広がる。勇者スキルはまだ完全には消えていない。レオンの周りに、勝利のための補正が集まり始める。
「いいだろう」
レオンは俺を見た。
「なら、最後に君だけは殺す。君さえいなければ、物語はまだ戻せる」
「戻らないよ」
六日が言った。
レオンが彼女を見る。
六日は涙で濡れた目のまま、はっきりと言った。
「あなたの物語には、もう戻らない」
レオンが踏み込む。
速い。
長町が前に出るが、彼女の剣は弾かれる。雫の矢も逸れる。凪が六日を庇い、青葉が術式を止めようとする。
俺はレオンの金色の線を見た。
まだ強い。
だが、さっきとは違う。
広場の民が立ち、六日が拒み、長町が剣を向けたことで、勇者スキルの足場が崩れている。最強とは、勝つ相手がいて初めて成り立つ。誰かを支配して作った勝利は、支配される側が抜け落ちると形を保てない。
俺はレオンへ歩いた。
剣が振り下ろされる。
俺は避けなかった。
いや、避ける必要がなかった。
レオンの剣は、俺の肩の前で止まった。金色の線が、俺を勝利条件に入れようとして、失敗している。
例外。
俺は、あいつの物語の外にいる。
レオンの目が恐怖に染まった。
初めて見る顔だった。
俺は拳を握った。
農作業で硬くなった手。
土を触り、瘴気を抜き、種を伸ばし、呪印を引き抜いた手。
その手で、レオンの顔を殴った。
思ったより普通の感触だった。
王子でも、顔がよくても、勇者スキルを纏っていても、人間の頬を殴る感触は普通だった。
レオンは床に倒れ、指輪が外れて転がった。
青い宝石にひびが入る。
俺はそれを踏み砕いた。
王命の線が、部屋の中から消えていく。
完全に世界から消えたわけではない。王国が長い時間をかけて作った支配は、指輪ひとつで全部なくなるほど単純じゃない。
けれど、レオンの手元からは消えた。
彼は床に手をつき、呆然と周囲を見た。
近衛兵は動かない。
長町は剣を向けている。
六日は凪に支えられ、彼を見ている。
青葉は記録の文書を抱え、榴岡は雫に押さえられている。
誰も、レオンに跪いていない。
誰も、愛していない。
誰も、王として見ていない。
レオンの唇が震えた。
「僕は王だ」
声は小さかった。
「僕は、愛されるべき存在だ。僕が、この国を」
俺はしゃがみ、彼を見た。
「あぁ、いたな。君みたいなやつ」
レオンの目が揺れる。
追放された夜、あいつが俺に言った言葉を、今度は俺が返した。
「目障りだから、消えてくれないか?」
殺すつもりはなかった。
殺して終わりにすると、こいつの物語に付き合ったことになる気がした。
長町が近衛へ命じ、レオンの腕に拘束具がかけられた。彼は最後まで叫んでいた。自分は王だと、民は従うべきだと、六日は自分のものだと。
だが、その声は廊下に出る頃には、ただの騒音になっていた。
榴岡愛子も拘束された。
彼女は青葉を睨みつけた。
「あなたは自分が何を壊したのかわかっているのですか」
青葉は静かに答えた。
「はい。だから、これから記録します。誰が何を壊してきたのか、誰がそれを隠してきたのか、全部」
「巫女の務めは祈ることです」
「いいえ」
青葉は砕けた若葉の飾りを床に置いた。
「私はもう、祈るだけの巫女ではありません」
榴岡は何か言おうとしたが、雫が後ろから軽く押した。
「はいはい、続きは取り調べで。四歩目までに歩いてね」
「その脅しは何なのですか」
「伝統芸能?」
「違うと思います」
凪の突っ込みが静かに入った。
王城の外では、祭りが壊れていた。
けれど、暴動にはなっていなかった。
いや、ならずに済んだ、という方が正しい。
長町が王都警備隊へ民を押さえつけるなと命じ、青葉の読み上げた記録は神殿の壁にも映し出された。紫波が手配していた写しが、国境から来た人々によって広場に配られていた。いつの間にかそこまで準備していたらしい。あの人は本当に怖い。
そして夕暮れ前、王都の南門が開いた。
入ってきたのは、花巻楓率いるモリューカの部隊だった。
魔王軍。
王国がそう呼んできた人々。
彼らは剣を抜いていなかった。
先頭に立つ楓は緑の外套をまとい、馬ではなく自分の足で歩いていた。その後ろには兵士だけでなく、荷車があった。鍋、薬箱、水袋、雑穀、豆。武器より目立つのは、どう見ても炊き出しの道具だった。
王都の民は怯えた。
当然だと思う。
子どもの頃から魔王は怪物だと聞かされてきたのだ。そんな相手が城門から入ってくれば、膝も震える。
楓は広場の中央で足を止め、よく通る声で言った。
「私は花巻楓。王国が魔王と呼んできた、モリューカの領主です」
広場は静まり返った。
「私たちは略奪に来たのではありません。嘘を終わらせに来ました。怪我人を診ます。子どもと老人から食事を配ります。毒はありません。先に私が食べます」
楓はそう言って、荷車から渡された椀の粥を一口飲んだ。
王都の真ん中で、魔王と呼ばれた少女が薄い粥を飲む。
たぶん、王国の絵本には絶対に載らない場面だ。
雫が俺の隣で笑った。
「楓様、絵になるねえ」
「魔王の絵としては地味すぎる」
「大和の趣味でしょ、地味なの」
「俺のせいかよ」
凪はもう広場の怪我人を診ていた。王都の人間も、最初は怖がっていたが、子どもの熱を下げられると途端に凪へ縋った。治癒師はやっぱり強い。
青葉は神殿の前で文書を読み続けていた。
声は少し枯れている。
それでもやめなかった。
彼女の隣には、長町泉が立っていた。王国騎士団長が、裏切り巫女と呼ばれた少女を守っている。その光景だけで、王都の空気はまた少し変わった。
六日は王城の医務室に運ばれた。
凪の診立てでは、命に別状はない。胎脈も不安定ではあるが、守れるという。六日はその言葉を聞いた瞬間、顔を覆って泣いた。
俺は医務室の外でしばらく待った。
入るか迷った。
正直、逃げたい気持ちもあった。今さら何を話せばいいのかわからない。助けた。だから終わり。そう割り切れたら楽だった。
でも、終わりにするためにも話さなきゃいけないことがある。
俺は扉を叩いた。
「大和くん」
六日は寝台の上に座っていた。王妃の衣装は脱がされ、簡素な白い服に替わっている。髪もほどかれていた。化粧も落ち、顔色は悪い。
それでも、ようやく六日だった。
「入っていいか」
「うん」
俺は椅子に座った。
少し沈黙があった。
昔なら、沈黙なんて気にしなかった。田んぼの畦に並んで座って、別に話さなくても平気だった。今は、沈黙が重い。
先に口を開いたのは六日だった。
「ごめんなさい」
それしか言わなかった。
言い訳も、泣き落としも、私は操られていたからと言うこともなかった。
ただ、頭を下げた。
俺は手を握った。
「謝られても、すぐには受け取れない」
「うん」
六日は頷いた。
「私、大和くんにひどいこと言った。現実を見ろって。あれ、ずっと頭の中に残ってる。途中から、自分でもおかしいって思う瞬間があったのに、見ないふりした。レオンに言われたからだけじゃない。私、怖かった。勇者だって持ち上げられて、帰れなくて、大和くんを見ると全部崩れそうで」
「うん」
「私は弱かった」
「そうだな」
六日は少しだけ笑った。
痛そうな笑いだった。
「そこ、否定しないんだ」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「うん。大和くんは、そうだよね」
また沈黙。
六日は腹のあたりに手を置いた。
「この子を、私は守りたい」
「守れ」
俺は言った。
「レオンの子でも、王家の器でもなく、お前の子として守れ」
六日の顔が歪んだ。
「私に、できるかな」
「知らない。でも、やるしかないだろ」
「厳しい」
「優しく言えるほど、俺も回復してない」
「そっか」
六日は涙を拭った。
「大和くんの隣には、戻れないよね」
その質問は、来ると思っていた。
だから、ちゃんと答えた。
「戻れない」
六日は目を閉じた。
「うん」
「でも、敵じゃない」
六日がゆっくり目を開ける。
俺は続けた。
「お前は生きて、証人になれ。王国が何をしたのか、レオンが何をしたのか、自分が何をされたのか、何をしてしまったのか。全部背負って話せ。それが、お前にできる償いだと思う」
「うん」
「俺も、俺のやることをやる」
「畑?」
「畑」
六日は少しだけ、本当に少しだけ笑った。
「大和くんらしいね」
「米農家の息子だからな」
「農家じゃなくて?」
「息子だ。そこは譲らない」
六日は涙をこぼしながら笑った。
その笑い方は、昔に少し似ていた。
でも、昔と同じではない。
それでいいと思った。
部屋を出ると、青葉が廊下に立っていた。
「聞いてたか?」
「いえ」
青葉は首を横に振った。
「でも、終わった顔をしています」
「終わったかな」
「少なくとも、ひとつは」
俺は壁にもたれた。
疲れが一気に来た。EXを使いすぎた反動で、体の芯が空っぽになっている。青葉がすぐに手を伸ばした。
「大丈夫ですか」
「たぶん」
「たぶんは禁止です」
「凪さんみたいなこと言うな」
「宮古さんに教わりました」
青葉は俺の腕を支えた。
彼女の手は温かかった。
「青葉」
「はい」
「帰る場所になるって言ったの、まだ有効か」
青葉は一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに笑った。
「はい」
「じゃあ、少し休ませてくれ」
「もちろんです」
「あと、俺がまた無茶しそうになったら止めてくれ」
「全力で止めます」
「そこは少し迷ってくれ」
「迷いません」
青葉はそう言って、俺の手を握った。
王城の白い廊下で、俺はようやく息を吐いた。
王国がその日で綺麗に変わったわけではない。
レオンを拘束して終わり、なんて都合のいい話ではなかった。貴族の中にはまだ彼を支持する者もいたし、神殿の奥には榴岡と同じ考えの者が残っていた。民の中にも、魔王を信じられない人間は多い。
それでも、王国の嘘はもう密室には戻らなかった。
青葉が記録を公開し、六日が証言した。長町泉が騎士団の一部を抑え、紫波が国境村との交渉を進めた。楓は略奪ではなく炊き出しを命じ、凪は王都の子どもを治療した。雫は逃げようとした勾当台国分を三歩目で捕まえた。本人は「惜しい、四歩までいかなかった」と言っていたが、何を惜しんでいるのかはわからない。
八乙女レオンは王位継承権を停止され、王命の術具をすべて奪われた。
最後に見た彼は、地下の牢でこちらを見ていた。
王命もない。
勇者スキルもない。
近衛もいない。
綺麗な服も、拍手も、愛を強制する指輪もない。
ただの男だった。
彼は俺を睨みつけ、かすれた声で言った。
「君は、僕から何もかも奪った」
「違う」
俺は答えた。
「お前が奪ったものが、戻る場所を見つけただけだ」
それ以上は言わなかった。
言葉をかける価値も、もうあまり残っていなかった。
数週間後、モリューカに戻った。
王都に残る選択肢もあった。帰還術式の記録も見つかった。元の世界へ戻る道が、完全ではないにしても、存在することもわかった。
正直、揺れた。
南魚沼の田んぼ。
親父とお袋。
あの日の軽トラ。
落ちてきた光。
帰りたい気持ちは消えていない。
でも、今すぐ帰るには、この世界に植えたものが多すぎた。
青葉はそれを聞いて、ただ頷いた。
「いつか帰る道も探しましょう」
「いいのか」
「帰る場所は、一つでなくてもいいと思います」
その言葉に、少し救われた。
モリューカの砦に戻ると、子どもたちが走ってきた。
例の男の子が、俺を見るなり叫んだ。
「大和! 水の畑、作るんだろ!」
「いきなりだな」
「衣川じいちゃんが言ってた!」
「あのじいさん」
平泉衣川は少し離れた場所で、知らん顔をしていた。絶対に言いふらしていた顔だ。
楓は砦の前で待っていた。
緑の外套は相変わらず少し泥で汚れている。
「おかえりなさい」
その一言が、思ったより胸に来た。
「ただいま」
俺はそう返した。
花巻楓は魔王ではなく、モリューカの領主として周辺の村々に認められ始めていた。まだ時間はかかる。王国との関係も、すぐに平和とはいかない。けれど少なくとも、魔王という嘘だけで攻め込める時代は終わった。
水田作りは、当然のように難航した。
まず水が足りない。次に土が合わない。さらに衣川と俺で畦の高さについて揉めた。雫は見物しながら「二人とも顔が怖い」と笑い、紫波は水量と労働力を数字で殴ってきた。凪は腰を痛めた作業者を治しながら、俺が無茶をしないか見張っていた。青葉は記録板を抱え、「大和さん、今の失敗も記録しますね」と言った。
「失敗は書かなくてよくないか」
「次に活かすためです」
「俺の恥が後世に残る」
「それも歴史です」
「歴史って怖いな」
楓は水路の端で、小さな布包みを開いた。
あの一粒。
ほとんど死にかけていた水穀の種。
俺は手のひらに乗せた。
まだ、かすかに熱がある。
「いけるか」
衣川が聞いた。
「わからない」
「正直でよろしい」
「でも、やる」
俺は小さな苗床に、その一粒を置いた。
EXで無理に伸ばしすぎれば、たぶん壊れる。だから、少しだけ。
土から余計な冷えを抜く。
水の濁りを抜く。
種の奥に残る力を、ほんの少しだけ広げる。
急かさない。
引っ張らない。
待つ。
農業で一番難しいのは、たぶんこれだ。
待つこと。
数日後、小さな芽が出た。
本当に小さかった。
見落としそうなほど頼りない緑だった。
けれど、そこにあった。
子どもたちが騒ぎ、衣川が目を細め、楓が息を止めた。凪はほっとしたように笑い、雫は「これ、食べるまで何日?」と聞いて衣川に怒られた。青葉は記録板を抱えたまま、静かに泣いていた。
俺は畦に立ち、水面を見た。
まだ田んぼと呼ぶには小さい。水も浅い。苗も一本だけだ。南魚沼の田んぼとは比べものにならない。
それでも、水面には空が映っていた。
あの日、光が落ちてきた田んぼと同じように。
ただし、今度は落ちてくる光に怯えるだけではない。
俺たちはここに水路を引き、畦を作り、種を植えた。
捨てられた者たちが、自分の足で立つための場所を作った。
青葉が隣に来た。
「大和さん」
「ん?」
「いい田んぼに、なりますか」
「わからない」
俺は正直に答えた。
「でも、する」
青葉は笑った。
楓が少し離れたところで、こちらを見ている。雫と凪が何か言い合っている。衣川が子どもたちに、畦を踏むなと怒鳴っている。
俺は小さな芽を見下ろした。
レオンに捨てられた。
王国に外れと笑われた。
六日とは元に戻れない。
元の世界への道も、まだ遠い。
それでも、俺の足元には土がある。
水がある。
種がある。
なら、まだやれる。
「捨てた王国よ」
俺は小さく呟いた。
誰に聞かせるでもなく。
「収穫の時を待っていろ」
それはもう、復讐だけの言葉ではなかった。
このクソッタレな異世界を、俺たちの手で耕し直す。
その始まりの言葉だった。




