一話 依頼人
豪雨が、地を叩いていた。
そこかしこに水溜まりができ、ドロドロと泥濘んだ土の大地。
木々は雨粒に打たれ、その葉を、枝を揺らし。
ぽつぽつと点在する、お世辞にも豪華とはいえない粗末な家屋は皆シンと静まり返っていて、周囲には豪雨の音が絶えず響き渡っている。
人通りはなく、薄暗い夜道。
舗装された道などなく、ただひたすらに続く悪路。
そんな中を、一台の馬車が駆けていた。
周囲の寂れた風景には見合わない、そこそこに豪華な装飾の、立派な馬車だ。
泥を跳ね飛ばし、水しぶきをあげ。止まることなく、その車輪は回る。
しかし雨は勢いを衰えるどころか、どことなく激しさを増し。
やがては、どこか遠くで雷鳴が光り、轟きはじめる始末。
けれども、出歩くにも億劫になるであろう豪雨を浴びながら、馬車はひた走る。
代り映えのしない、寂れた風景の中を。
降り注ぐ雨粒と、時折の雷光を頭上に。
馬蹄と、馬車が奏でる音が、暫し夜の闇にあった。
そんな馬車の車輪が、ようやく止まったのは。
周囲の建物より一回りも二回りも大きい、木造の建物の傍らであった。
その建物はといえば、窓からは光が明るく灯っているのが伺え。また微かにではあるものの、激しく主張する豪雨すら押しのけて聞こえくる、内部からの騒がしい喧噪。
大きさ、その内の様子からして、明らかにただの住居ではない、建物だ。
馬車を走らせていた御者が地面に降り、扉を開ける。
中から降りてきたのは、髪に白色が混ざりつつある、初老の男。
スッと背筋を伸ばし、眼前の建物を見やった男は。
御者に軽く手を上げると、頭に被った帽子を片手で押さえ、外套をはためかせ。豪雨であるに関わらず姿勢よく、ゆったりと建物まで歩いた。
迫り出した屋根の下に入り、雨粒を防ぎ。
入り口であろう大きな扉前の、大の大人が十人は横に並べるほどに広い数段の階段を上り。
男は、扉を押し開ける前に、スッとその目線を上げた。
――ハミュア村名物。
吊り下げられているのは、少々草臥れた木の板。――村の名と、その名物であることを示す看板だ。
それを確認した男は目線を戻すと、扉に手をかけ、静かに押し開いた。
瞬間。
ガヤガヤと、騒がしくも楽し気ないくつもの声が、男の耳を通り抜ける。
むわっとした生温い熱気が頬を撫で、強い酒の香りと食欲をそそる芳しい匂いが、鼻腔をくすぐる。
ほとんど馬車に乗っていたといえど、だ。降りしきる雨風によって少なからず冷えていた男の身体。
それだけで、普通なら多少なりとも相好を崩そうというものだが、しかし。男は眉一つ動かさず建物内に歩を進め、開けた時と同じように静かに扉を閉め、少々中に進み入った。
広がるのは、とにかくの人、人。そして、料理に、飲み物。
いくつもある、円形のテーブル。それぞれを囲んで座り、料理を掻っ食らっている大多数は大人の男性だが、中にはちらほらと、女性、それに子供の姿もある。
そして、それらの間を忙しなく動き回って料理を運び、片付けているのは、幾人かの給仕達。
どうやらここは、酒場――或いは、料理店のようだった。
ふむ、と男は数瞬その眼前の光景を見ると、空席を探すでもなく、また給仕に声をかけるでもなく。その場で、左右を見渡した。
正面には、料理店。では、その左右に何があるかといえば、これまた料理店であった。
ただし、単純に正面の料理店の規模が大きく、視界いっぱいに広がっている、というわけではない。
左には、正面の料理店から壁を挟んで、同じような光景――つまり、テーブルに並ぶ料理と、それを囲う人々が。右にもまた、同様の光景が広がっているのだ。
要するに、入って左、正面、右と、別々の料理店が三つ。同じ一つの建物の同じ階に会していたのである。
――ここで、おおよそ間違いないとは思うが。
建物内部入口付近で留まること、数十秒。中の様子をしっかりと認識した男は、内心頷いた。
その間に、入口に近い席からいくつかの無遠慮な視線が、男に向けられる。
さもありなん。この場にいるほとんどの者といえば、有り体に言うなら簡素というか、金のかかっていなさそうな装いだ。
対し男は、見た目こそ派手ではないものの、上質さを思わせる外套に、帽子。男の醸し出す雰囲気も相俟ってどこか上品さすら感じられる装いである。
流石に、奥の方の席など、この場全ての視線が集中することはなかったにせよ。その存在が浮いているとあって、興味、懐疑といった視線を男が受けるのは仕方がないと言えた。
さて、とそんな視線を気にすることなく、ようやく男はその足を動かす。
向かう先は、眼前の三つの料理店の――そのどれでも、ない。
それぞれの店が、どんな料理を、飲物を提供しているのか。そんなことには一切目もくれず、真っ先に男が歩を進めたのは、入口横、上階へ昇るための階段であった。
男の目的は、唯の一つ。そしてそれは、料理を食すことでは断じてないのだ。
一歩一歩、木造の感覚を足に感じながら、一段一段ゆっくりと男は階段を上がっていく。
そうして、辿り着いた二階で。男は建物に入った時同様、再び正面と、次いで左右を見回した。
二階に広がるのも、一階で見たものと同じような光景。即ち、1フロアでありながら迫り出した壁によって隔てられた三つの料理店である。
とは言うものの、一階の料理店ほどの賑わいはない。ないが、全く閑散としているわけでもない。下が大繁盛であるなら、このフロアの客足は可もなく不可もなく、といったところだろうか。
今度は、一階で留まったよりも遥かに時短く、男の足は動き出す。
その向かう先はまたしても、更に上の階へと続く階段だ。
確か――。
この場所で正しいのならば、次の階であるはず。
半ば確信しているものの、男としてはこの地、この建物は初めて訪れた場所。
さて、無駄足でなければよいが、と男は階段を昇っていく。
その頭上から、声。
「ふー、食った食った。……が、やっぱりなんかあそこの料理は、なんかこう、物足りねえんだよな」
「あぁ、分かるぜ。不味くはないんだが、ここの他の店と比べるとどうも……今一つ満足できないんだよな、あそこは。料理を作ってる金髪の姉ちゃんは美人なんだがなぁ」
「だよな? ただ、あの店の後に別の店で食うと、なんつーか……なあ?」
「あぁ、どういうわけかその店がいつもより数段美味く感じるんだ、これが。同じ料理食ってるはずなのに、不思議なもんだ」
階段の中程で、男二人組とすれ違う。
その際、彼らは物珍しげな視線を寄越してきたが、別段何か声をかけられることなく去っていく。
――間違いない。
二人組の会話を耳にし、ここでいよいよ男の足に迷いがなくなった。
三階。今度は、立ち止まってフロアを確認することなく。三階の床を踏むやいなや、男は右へと歩を進めた。
ガヤガヤ、と騒がしい声は階下からのみで、同じ建物内に関わらずこのフロアだけはまるで別空間のように、静か。
途中、正面の区切りを何の気なしに一瞥する。賑わいがないのも当然、二階までとは異なり、只々無人のテーブルが並んでいるだけであった。
では、男の目指す三階右隅も無人であるかというと――そういうわけでもなかった。
一階、二階と同じように、料理店と思しき空間。
しかし、人は疎らだ。店の者とテーブルに座る客を合わせて数えても、両の手の、いや、片手の指で事足りた。
フロアを区切る壁。その上部、突き出た棒に吊り下げられた飾り気のない木の板には、こうある。
『アンダードッグ』
それは、店の名前。そして――男が、己の仕える主に言いつけられた、目的の場所であった。
男は、被っていた帽子を手に持つと、店内に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
そんな男に、すぐさま近寄ってくる、人影。
まだ若い、少年だ。年の頃は、十代半ば前後ぐらいだろうか。
しかし、そう言ってくるということは、この店の人間なのだろう。
男は、軽く頭を下げると、改めて店内を見回した。
それほど大きな店ではない。
僅か二人しかいない客は、ここから少し離れた隅の方に座り、静かに料理を食べている。
カウンターの向こうには、手慣れたように食器を洗っている一人の女性。若く、美しい女性だ。若いと言っても、眼前の少年よりは明らかに年上。店の人間であることに違和感は無い。
見たところ、店の人間は女性と、少年のみ。
今この場にいないだけなのかもしれないが、それ以外は他に誰の姿もなかった。
そのことを確認した男は、失礼、と前置きし。声を潜めて、少年に告げた。
「――この辺りで、噛まない犬を捜しているのですが」
それは、男が己の主に指示された通りの言葉。
違わず店の人間にのみ告げるよう――即ち他の誰にも聞かれぬように、と厳命された言葉。
男の言葉を聞いた少年は、これまで浮かべていた朗らかな笑みを別種のものへと変え、深めた。
そうして少年は、こちらへ、と男を促し歩き始める。
「――ペラ」
と、女性の名であろうか。
男を案内する最中、少年がカウンター内の女性に向かって呼びかけた。
彼女はその声に応えず、目線だけを少年にやり。
次いで、その背後に続く男を見て、微かに少年に笑みを向けて頷いた。
男は促されるまま、店の奥、扉へと入る。
案内された先は向かい合った一組の椅子と、その間にテーブル、そして窓のある、小部屋だった。
外は未だ雨が激しく降っており、窓を強く叩いている。
雷も、時折その姿を見せているようだった。
バタン、と閉まる扉。
少年が、どうぞと男に座るよう手で指し示す。
では、と男が腰掛ければ、その向かいに少年が座る。
そうして、少年は。やや芝居がかった口調で、こう言うのだ。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
一際大きい雷鳴が、轟く。
その稲光が、閃光が。窓の外から部屋を、少年の顔を照らした。
「――かませ犬、いかがですか?」
小物感全開の主人公でお送りします。