孤独な運命論者・一
「ふわぁ……」
込み上げてくる欠伸を噛み殺しながら、各地から届く文書に目を通していく。
竹簡が擦れる乾いた音と、墨の匂い。窓から乾いた秋風が吹き、臨淄にある官舎の中を吹き抜けていった。
斉王田建三十七年――つまり紀元前二二八年。隣国・趙が、秦に滅ぼされた。
おかげで僕たち役人はてんてこ舞いだ。国防のための徴兵、物資の徴収、治安悪化にともなう盗難事件の処理……。仕事が山のように積み上がっていく。
「子安。この危急存亡の秋に、欠伸などするな」
「まあまあ。子安くんは真面目で優秀なんですから、それくらい目を瞑ってあげましょうよ。彼がいなければ、この仕事は終わりませんよ」
欠伸を咎めてきたのは、上司の田嘉さん。眉を吊り上げ、こちらを睨んでいる。まあまあとなだめてくれるのは、先輩の田常さんだ。
子安というのは僕の字で、劉備玄徳でいうところの「玄徳」にあたる。僕のフルネームは田寧子安。
なぜ紀元前二二八年の人間が、西暦一六一年生まれの劉備を知っているのか。
答えは単純。僕が日本からの転生者だからだ。
正直、最初は面食らった。転生というなら異世界だろう、チート能力の一つや二つあってもいいだろう――そういうツッコミはもちろん、なんでよりにもよって乱世真っ只中の中国なんだよ、という叫びもあった。
不幸中の幸いだったのは、王族・田氏の端くれとして生まれたことだ。おかげで経済大国・斉の首都臨淄で、冗官として働かせてもらっている。
「……む。高唐君の領地から徴兵された男子が、たったの五十人。高唐には一万近い人が住んでいたはずですが」
思わずポツリと漏らした一言に、田嘉さんが忌々し気に反応する。
「どいつもこいつも……! 田氏としての自覚はあるのか!」
「秦と違って、うちはまだまだ封君の力が強いですからね。仕方ありませんよ」
「子安、貴様、何をそう呑気な! 斉あっての田氏だろう!」
「さいですね」
僕が気の抜けた返事をすると、田嘉さんの顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
ちょっと、楽しい。
前二二一年に斉が滅びることを、僕は知っている。だからこそ、斉の滅亡がもう避けられないことも、嫌というほど理解していた。
斉は始皇帝によって最後に滅ぼされる国だ。だが、その理由は決して恰好の良いものじゃない。最後まで、ろくな抵抗をしなかった。それだけのことだ。
――何せこの国の宰相たる后勝様までもが、秦に買収されているのだから。
各地から徴発された男子の人数を見れば、秦の調略が斉国内でどれほど広がっているのかが分かる。
「高唐君のように極端に供出する兵が少ない人は、もう秦に買収されているんでしょうね」
「ん、なにか言いましたか? 子安くん?」
「”なにか”という単語は口にしていませんよ」
「子安くん。そういう口の利き方は、怒る人が多いですからね?」
田常さんが苦笑交じりに注意してくる。田嘉さんは書類に夢中で聞いていないことは、すでに把握済みだ。
「言っていい人にしか言いませんので大丈夫です」
「それは私を舐めているということですか?」
「滅相もありません。寛大だという意味ですよ」
ふっと笑った田常さん。けれど、すぐに表情に影が差す。
「尚武の国であるあの趙が滅びるなんて……。斉は本当に大丈夫なのでしょうか?」
無理だと思いますよ、という言葉はぐっと飲み込む。斉が滅びるなんて口にすれば、高確率で首が飛んでしまう。
「まぁ、僕たちは小役人ですし。国が変わっても大丈夫ですよ」
小さく呟く。
斉を滅ぼしたとき虐殺があったという記録はない。学のある人間は、どんな時代でも貴重だ。
統一後の秦はきっと大忙しだろうから、僕たち役人の命と職業はおそらく保障されている。
「ああ、そうだ子安」
しかめっ面のまま筆を滑らせていた田嘉さんが、思い出したように顔を上げた。
「なんですか?」
僕は積み上がった竹簡を脇に寄せながら、気のない返事をした。どうせまた小言か、面倒な仕事の割り振りだろう。そう高を括っていた。
「安平君が招賢令を出していたから、お前の名前で応募しておいた」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
安平君田仲。
斉救国の大英雄・田単将軍の息子にして、三万戸の封地を持つ斉最大の実力者。バリバリの主戦派だ。
そんな人が招賢令を出す。それは分かる。だが……。
「なんで僕の名前で勝手に応募したんですか!?」
僕の抗議に、田嘉さんはぴしゃりと筆を置いた。跳ねた墨が、田常さんの竹簡に飛び散る。
「あ」
九割方書き終えていた竹簡だった。田常さんの表情から、すっと感情が抜け落ちる。……お労しい。
だが田嘉さんはそんなことには気づかず、言葉に力を込めた。
「いいか、子安」
「はあ」
「お前は小生意気だが頭の回転が早い。しかも、無駄に学がある」
「褒めながら貶すのやめてください」
「お前は俺なんかより斉に貢献できる男だ。愚鈍な俺には、お前に出世の機会を与える程度しかお国に貢献する方法がない」
「……さいですか」
田嘉さんは間違ってはいないし、悪い人でもない。むしろこの戦国時代で愛国心を持たない人間の方が珍しいのだろう。
誰だって、外国人に支配されるのは怖い。
「暴秦の脅威が間近に迫った今こそ、お前は羽ばたかねばならないのだ! お前にはそれができる!!」
「……」
めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど。
田常さんもニコニコしながら頷かないでほしい。
「それに、子安とて王族田氏出身だ。傍流も傍流とはいえ、庶民とは格が違う。その恩を返さずして、人の子であろうか」
「いや、まあ……」
実際、田氏出身のおかげで簡単に仕官できたし、教育も受けられた。恩に報いるべきという理屈は、まっとうだと思う。
ただ僕は、斉がどうあがいても滅ぶことを知っているだけで。
「故に子安の名で招賢令に応募しておいた。三日後の夕刻、安平君の御屋敷に参れ」
「……分かりました。行くだけ行ってみますよ」
渋々同意する。この熱弁の前に断れるはずがない。それに、二十歳にも満たない僕が採用されることなど、まずないだろう。




