48 一歩
私は台所へ戻るとお膳を洗った。雨竜さんは近くにいない。洗い物なら私でもできるから良かったと思う。水希ちゃんは上手に襷掛けをするけれど私にはその技術がないから、袖が濡れないように凄く気を遣った。でも洗えなくはない。水希ちゃんが回復したら上手な襷掛けの方法を教えてもらおうと思った。
「深琴」
何とかかんとか洗い物を終えた頃、雨竜さんが現れて私を呼んでくれた。はい、と振り向くと雨竜さんは目を細めて微笑んでいる。洗い物をしてくれたのか、と私の努力の跡を見て言ってくれるから、私も頷いた。
「水希ちゃん、雨竜さんの作ってくれたお食事、全部食べてくれました、よ。お話も、できました。熱は下がってるみたいで、良かったです」
私が報告すると雨竜さんは嬉しそうに、うん、と頷いた。優しい眼差しに安堵が見えた気がして私もほっとした。それに勇気をもらって、それから、と私は続ける。
「今日のこと、覚えてる、みたいでした。あと、色々、教えて、もらって」
私は両手の指を合わせて言葉を選ぶ。雨竜さんは、そうか、と短く返す。私は思い切って、ごめんなさい、と頭を下げた。雨竜さんは驚いた様子で一瞬言葉を詰まらせてから、どうした、と私に尋ねる。
「何故お前が謝る」
私は頭を下げたまま考えていたことを口にする。水希ちゃんに教えてもらって考えたことを。
「私、その、雨竜さんのこと、否定してるって、気づいて」
「……そうなのか?」
傷ついた声に聞こえて私は慌ててかぶりを振った。違うんです、と言ってから、その、と上手く言えない言葉を何とかまとめようと思って口を開く。
「水希ちゃんが、教えてくれた、んです。自分のことばっかりで、全然、何も見てないって。雨竜さんがくれるもの、雨竜さんが向けてくれるもの、素直に受け取れていなく、って、それだと、最後まで、そのままだって。私、そういうの、もらえたことがない、から。どうすれば良いか判らなくて、自分がそんな、価値のある人間じゃないって、思ってて。でもずっとそうしていたら、本当にそう、価値のないものとして、扱われるって」
水希ちゃんとのやり取りを知らない雨竜さんが聞いて、私のこの説明で解るだろうか。でも顔を上げて雨竜さんの表情を見るのはこわい。何を言ってるか判らないと思っていそうな表情を見たらもう、言えなくなってしまいそうだ。
「大事なのは、今までどうだったかじゃ、なくて、これからどうするかだって、教えてくれました。私、自分の親とも、関係を作ってなんて、これなかったのに。優しくなんて、されたこと、なかったのに。雨竜さんも、水希ちゃんも、私に優しく、してくれるから。それが嬉しくて、ありがたくて、でもどうすれば良いか判らなくて。でも、学べば良いって、知れば良いって、水希ちゃん、言ってくれました。だから、その、教えて、ほしいんです。わ、わたし、どうすれば、良いですか」
どうすれば、と言いながら私はぎゅっと目を固く瞑る。
「雨竜さんは、喜んで、くれますか」
誰かに優しくしてもらえるのは、くすぐったくて、嬉しいことだ。安心して、温かくて、ありがたくて。私だけがそう感じることなのかもしれないけど、雨竜さんの優しさが私を包んでくれるのは、幸せだと、思う。
「か、勘違い、だったら、笑ってください。でも、私が嬉しいのは、本当、です。深い意味なんて、なくても、誰に対しても同じでも、私がもらえたって、思えたのは、雨竜さんの、優しさ、なんです。もらってばかりじゃなくて、何か、返せたらって、思って」
だから教えてほしい。そう伝えたかったのだけれど、ちゃんと伝わっただろうか。私の言葉が足りないから未練を願いと捉えられ、少し変わった形で叶えようと迎えられた。雨竜さんが私を好きだなんて思い上がりも甚だしいから考えもしないけど、でも優しくしてもらえるそれが形式だけでも夫婦だからだと言うなら。夫だからだと雨竜さんが思っているなら、妻として何か返せたらと私が思うことも、きっと理解してくれるはずだ。
「……僕はお前がいてくれれば、それで充分なんだがな」
雨竜さんが静かに答える。少し困ったような、でも少し嬉しそうな、そんな声に聞こえた。と、と雨竜さんが足を前に出して私の目の前までやってくる。深琴、と深い声で呼ばれて私は顔を上げた。雨竜さんの優しい目が私を見下ろしている。少し首を傾げた雨竜さんの、蛇のような細いポニーテールが揺れた。
「もし、お前が僕の願いを叶えてくれると言うなら、そうさな」
少し考えるような、それとも言い淀むような、僅かな間を空けて雨竜さんは微笑んだ。両腕を広げて、抱きしめてくれるか、と静かに続ける。私は目を丸くして驚いた。
「勿論、深琴、お前が嫌なら無理強いはしない」
その気遣いさえ優しさだと私は知っている。私が躊躇えば雨竜さんはすぐに身を引くだろう。でもこれは雨竜さんが私に初めて明確に望んでくれた頼み事だ。ちょっとしたお使いとか、そういうのとは違う、雨竜さんがしてほしいこと。
「わ、たしで、良いですか」
「妙なことを言う。深琴、お前が良いんだが」
私はそろそろと腕を伸ばした。雨竜さんは腕を広げた格好のまま動かない。腕を伸ばしただけでは届かなくて、私はおずおずと足を前に出す。雨竜さんはじっと私を見ていて、表情を動かさない。それが何だか、緊張しているようにも見えた。
雨竜さんはいつも私をどうやって抱きしめてくれていたっけ。自分がしてもらったように私は雨竜さんの背中にそっと手を回して抱きしめた。緊張して腕が震えているのが自分でも判る。でも雨竜さんの体は温かくて、その熱に触れれば緊張が少し解れた気がした。
「ありがとう」
雨竜さんの温かい言葉が、静かに降ってきて。私は密かに回した腕に力を込めたのだった。




