47 諭すもの
こわい。そう口にして、それから取り返しのつかない言葉を発したような気がして私は思わず片手で口を覆った。そんなことをしてももう声に出した言葉は戻らない。
「叔父様の優しさが、恐ろしい?」
水希ちゃんが確かめるように尋ねてくる。私は答えられなくてうつむいた。押し黙ってしまう私に、水希ちゃんは更に言葉を続ける。
「それは何が恐ろしいのでしょう。叔父様が? それとも叔父様の向ける優しさが?」
それとも、と水希ちゃんは更に踏み込んできた。囁くような声で、静かに、それでいてはっきりと。
「優しさを向けられるご自分のことが?」
答えを知っているのではないかと思うほど具体的に示されて、私は思わず目を上げて水希ちゃんを見た。水希ちゃんは私を見てはいない。言葉だけ向けられて、それでもこんなに踏み込まれていると感じる私は水希ちゃんの視線を感じたら余計に言葉に詰まってしまうだろうと思った。それさえ判っているみたいで。
「……水希ちゃん、何でも、知ってる、みたいです」
「存じません。わたくしはただ、想像しただけのこと」
水希ちゃんも視線を更に伏せる。長い睫毛が綺麗で、造りものめいた人形のような美しさが際立った。
「私、その、誰かと関係を、築くのが、苦手、で」
上手くやりたいと思うのに自分の言動や行動は、時には其処にいることだけでも苛立たせて最後にはいつも破綻した。何が悪いか結局判らないままだから、何もできなかった。何もしなかったから破綻したのかもしれないと思うけれど、それを検証するにはもう、身も心も疲れきっていた。
「誰とも、上手く、できなくて。表面上だけ、でも、上手くできないから、どうして良いのか判らない、んです。水希ちゃんも、雨竜さんも、優しくしてくれて嬉しい、のに、それにどう返して良いか、どうすれば良いか、判らなくて」
水希ちゃんはじっと私の言葉に耳を傾けてくれる。私が話すのを待ってくれる。誰かに自分の考えていることを話すなんて苦手だったし、嫌いでさえあった。今も震えそうなのを必死に我慢している。言いたくないわけじゃない。けど、言おうとすることで、話している途中で相手を苛立たせる結果になるばかりだから、それが嫌になってしまったのだと思う。こうして聞いてもらえることが奇跡のようなのに、上手く言えないからまたすぐ苛立たせてしまうのではと怯えている。
「優しくしてもらえるような、価値なんて、ない、のに」
何も返せない。何もあげられない。そう思うからいつ要らないと言われるかもしれないと思って身構えている。もう要らない、と手放されると知っているからそれがいつ訪れても良いように。
「つまり奥様は、叔父様を信じられない、と仰っているのですね」
「え、そ、れは」
違う、と否定するより前に、何が違うんですの、と水希ちゃんに返される。すっと向けられた視線は冷たくて私はまた失敗してしまったのだと知った。こういう失敗を繰り返して私は拒まれてきた。
「叔父様の言葉や態度よりも、ご自身の経験を信じていらっしゃるのでしょう。わたくしには“優しくしてもらえる価値のない存在であろうとしている”ように見えます」
「──」
指摘されて息を呑んだ。二の句が継げないのはきっとそれが、その通りだからだと思う。
「心配ですか。優しくされることが。優しくされなくなれば、安心ですか」
「……」
きっと最後には要らないと拒まれると思っているから、そう信じているから、そうでない目の前の現実がこわくなる。優しくされるとこわい。優しくされなくなれば、やっぱりと思って安心する。でもそれは凄く狭い視野の中で、私だけの世界で過ごして判断していて、何も見ていない。周りの何も。相手の表情も、気持ちも、何も。
だから誰もが苛立った。独り相撲をする人に対して真剣に相手をするのも馬鹿らしいと思うだろう。そんなんじゃ、好かれるはずがない。そんなんで、誰かを好きになれるはずがない。何も見ようとしていないのだから。知らないものを好きにはなれない。
「今までがどうだったかなんて、知りませんし関係ありません。あなたに選べるのは、これからどうするか。ただ、それだけです。学んで来なかったなら学べば良いのです。知る機会がなかったなら知っていけば良いのです。たったそれだけ。あとはあなたに、その気があるかどうか」
覚えておいてください、と水希ちゃんは私を真っ直ぐに見て言った。
「こう扱われたいと願っていると、本当にその通りに扱われてしまうんですのよ。それが意識的であれ、無意識的であれ、他者には伝わるものです。あなたがご自身をぞんざいに扱うなら、周りもそう扱います」
今は優しくても。いずれ拒まれると私が信じて疑わなければ、ならそうしてやろうと周りは思うのかもしれない。何をしても満足しなかった私がそうされることでやっと安心して満足するなら。相手だって疲弊するだろう。それならお望み通り拒んでやって、早く解放されたいと思ったっておかしくはない。
「ご自身で大切にできなくても、叔父様が大切にしていると感じるならどうぞその感覚をこそ大切にしてください。ご自身が信じられないなら、どうぞ叔父様を信じてください。今日のことでより感じられたはず。叔父様が紛うことなく、奥様を大切にしていると」
え、と目を丸くすれば水希ちゃんは微笑んだ。困惑するように、少し眉根を寄せて。
「名前、お呼びになったでしょう」
「名前……?」
ピンとこない私に水希ちゃんは息を吐く。
「対象の存在を固定化するのはそれに名前をつけることです。更に強固に固定化するのであれば、その名を繰り返し呼ぶことです」
つまり、と水希ちゃんは呆れたような表情で私を見る。
「奥様が叔父様の名を呼べば、叔父様にはそれが分かります。だからすぐに駆けつけて来たでしょう。奥様の声を聞きもらすまいとしているからです。
それに奥様が叔父様を呼ぶ度、叔父様は認識され、とどのつまり存在は固定化されます。神たるもの、求める声には応えるのですよ」
はぁ、と水希ちゃんはまた息を吐くと私にお膳を返した。それを受け取りながら私は水希ちゃんの言葉の意味を掴みかねて情報処理が追いつかないままだった。
「あ、あの、教えてくれて、ありがとうございます。何だか凄く、大切なこと、聞いた気が、します」
「大切なことを申し上げたのですから当然です。忘れないでくださいね」
「は、はい」
私は頷いた。水希ちゃんは横になると言うからそそくさと退室し、台所へ戻った。こうして踏み込んでくれる存在がいてくれることがありがたいことなのだと、私は初めて知ったのだった。




