1.まさかのもふもふですが自分がなりたかったわけではありません
異世界に飛ばされてから今まで、いろいろあった。
いろいろって、そりゃあもういろいろだ。一言でとうてい表せられないから何も言わないけど、ほんとうに大変だった。
でもなんやかんやで、ようやく異世界に飛ばされた原因っぽいものもわかって、めでたく日本! ってなるはずだったのに。(借金はたまのくそやろうへのツケだ)
なんで、どうして? こうなるんだろう。
いま現在の私のお尻からは、そのまま襟巻きとして売れそうなくらい立派なもふもふ尻尾が、のびのびと生えているのである。
※
この薄暗い牢屋にいるのは、阿止里さんなのだろうか?
ククルージャで一緒に過ごした阿止里さんを思い出す。目の前にいる彼は、未来とは別人のような見た目をしている。
かつての彼はといえば、さっぱりと短めの黒髪、奥二重で切れ長の黒い目に鍛え抜いた身体の青年だった。
年はたぶん、私と同じか上くらいの、どんなときでも表情を崩さず端的な言葉を使う人だ。かと言って他人に冷たいかといえばそうじゃない。
以前、庭に落ちていた本の栞(巻物タイプの本なので、栞といってもフォークみたいな形状をした木片だ。巻物の紙を破らないように、クリップ的に使うやつ)を拾って、誰に尋ねることもなくユーリオットさんに渡しに行ったのを見かけたことがある。それはほとんど新品で、よく観察していなければ誰のものかはわからないはずだった。
そんなふうに、知らない間にみんなのことをよく見ている。
リーダーっぽい位置にいるのも納得だ。人は自然と、ふさわしい人をリーダーに選ぶものだから。
会社の上司もそうならいいのにと、いつも眉をひそめながら貧乏ゆすりをしていた上司を思い出したところで、彼が口を開いた。
「よくよく痩せて貧相なたぬきだな。自分の食いぶちも狩れないのか」
私は一瞬、固まった。
えっ、今の阿止里さんの発言?
なんかすごい悪口言われた! あの思慮深い阿止里さんにそういう冷たいことを言われるとなんだかショックだ。若いころの彼は毒舌なのか?
というか、自分がどんな姿かたちになっているかもわからない状況なので、反応に困るのが正直なところ。鏡でもあれば一目瞭然なんだろうけどさ。
「加えてこのにおい。肥溜めから生まれた?」
淡々とした声音は、ちょっと高いけどやっぱり阿止里さんのものに聞こえてしまう。
もしかしたらよく似た別人なんじゃないかと、私はなかば祈るようにしながらこわごわ牢の中を覗き込む。
合掌造りっぽい建物は思いのほか光を遮断するようで、奥は薄暗い。加えてこの動物の目のつくりのせいか、色の認識ができない。
モノクロの世界だ。白と黒の濃淡で世界が構成されている。それでもなんとか阿止里さんの姿を把握することはできているので、改めてじっと見てみた。
彼の、黒の瞳は知っているものよりもずっと鋭い。顔の輪郭は逆にややふっくらとしていて、まだ幼さを辛うじて残している。髪は長くて頭の後ろの高い位置でひとつ結び、ポニーテールにしてある。
ククルージャのころよりも少し若くみえる。二十台前半くらいかも。
片膝を立てて座っているけど、服は太い糸を編んだみたいなもので、私は歴史の古代の資料集で見たものを思い出す。
奈良時代だか平安時代だか、あのへんのページだ。上半身は浴衣の上部分(ひたたれって言うんだっけ?)、下半身は黒いスパッツの上にひざ下までのだぼっとした袴をはいている。
靴は何も履いていなくて、はだしのままだ。
ていうか、本当にかっこいい。
花も恥じらってえいやっと入水するくらいの美少年だ。月花の華やかで柔らかな美しさとは違って、研ぎたての刃物のように鋭く揺るぎない、力強い美。
涼しい目元が秀麗で、でもその氷柱のような瞳と目が合うと、なんだか悲しくなった。
もちろんこの阿止里さんは私のことなんて知っているはずもないけど、きつい視線はぐっとくるものがある。
それにしてもこれって、阿止里さんの過去――なのだろうか。でも、どうして。
いままで私がククルージャで関わったみんなのところに飛ばされたのは、たまの宿願のために天珠が必要だったからだ。
次元の彼方に飛んでいってしまったアレクシスの魂を取り戻すための、道しるべとして。
でもそれが叶ったいま、もう天珠は必要ないはずではないか。
天珠のためではないとしたら、いったい何のために?
私がぐるぐると考えていると、肉体が勝手に動き出した。何が何だかわからないまま、顔をぐいぐいと檻の中へ突っ込もうとしている。力任せに押し付けてて痛い!
なにこれ。もしかしてこの動物の身体が動こうとしてる?
しきりにすんすん鼻を鳴らして、なおも檻へ入ろうと頑張っている。檻の間隔は握りこぶし一つぶんくらいなので、もちろんこの動物の頭は通らない。
それから意図せず口の中に満ちる唾液と胃のあたりの痛み。
視界の奥、阿止里さんのそばにある盆に乗った焼き魚。あれを食べたくて食べたくて仕方ないのだと気づく。
突然の獣の(つまり、私の)凄まじいプッシュに、阿止里さんはほんのわずか顎を上げる。そしてすぐにああ、とうなずく。
「これが目当てか」
そう言って側にあったお盆から、こんがりジューシーな焼き魚をつまみ上げた。若鮎みたいな、ふっくらした身と死んだ目玉が食欲をそそる……。
いや、私のじゃなくて、この獣の食欲ね!
阿止里さんは無表情につまんだ魚を見ていたが、不意にその腕を動かした。檻に寄りかかるような体勢でその鮎を檻の外、つまり私の真上にぷらんと垂らした。
身体を仰け反らせて追う私。口からは涎が垂れている。いやっ、私のじゃなくて、獣の涎なわけで!
そしてあろうことか阿止里さんは、背伸びしてもちょうど届かないくらいの絶妙な高さで揺らし始めた。
「どうした。欲しいのだろう」
こっ、この人!
さっきまでは牛乳を拭いた雑巾みたいに私を見ていたくせに。おちょくっているのだ!
頭上でぷらぷら揺れる鮎。ぽたぽた垂れる私の涎。
「跳ぶなりなんなりしてみせればいい。届くかも」
空腹に支配されているこの身体――果たして狸なのか犬なのか猫なのか、ちっともわからないけれど――は、私の意思に反してぴょんぴょんと跳ね回った。
私はそんなことしたいなんて思ってないのに! この身体、いつも私の思うとおりに行動できるわけではないみたい。
「あとわずか届かぬようだな、ほら、もう少し」
そう言いながら、焼き魚をさらに高く持ち上げるようにしてから、阿止里さんはそれを自分の口元へ持っていく。見せつけるように横腹をちょっとかじった。
私の魚!
(ひっ、ひどいです! 最初からくれる気なんてなかったんじゃないですか!)
憤慨しながらそう叫べば、私の声はまるで水の中みたいに湾曲しながら歪に響いた。この動物には声帯なんて器官はないだろうから、肉声は出るはずもないんだけど。
でも阿止里さんははっきりと目を見開いた。
「たぬき、人語を話すのか」
(そのちょっと焦げたとこ、いちばん美味しそうだったのに……、いや、え?)
「けむくじゃらのただの汚い獣ではないのか。まさか、どこぞの神であられるか」
(か、かみ?)
「この由伊津の国の荒れようを見にいらしたか? ……だが神にしては、ずいぶん間の抜けた様相のような気も」
神かと疑いながらも悪口を隠せていない。
そして、由伊津? 私はあたりを見回したが、国といえるようなものは見当たらない。森の中の見捨てられた、やる気のない牢屋がぽつんとあるだけだ。
何これ、私はどう振る舞うべきなんだろう。私の声が聞こえてるのも不思議だけど、由伊津の国? 神さまが視察に来る? そんなふうに神さまが身近に存在する場所なのか。
というかね、神さまがいるなら誰よりも私が会いたいわ! この身の境遇をせつせつと訴えたい! そしてなんとかしてくれこの状況!
あと空腹やばい。私がいわば同居させてもらっているこの獣の肉体、空腹で限界っぽいぞ。
私は何が正解なのかもわからないまま、目先の欲を優先させた。つまりは盛大な嘘をついた。いつもなら嘘は躊躇うところだけど、背に腹は変えられない!
(そ、そうです。そうそう。私ってばこのあたりに来たばかりの神さまでして。てなわけでその鮎を恵んでくださいな!)
ほとんど後ろ足で立つような体勢になりながら、頭を振り乱して前足で檻をがりがりと引っ掻く。きっと空腹で目は血走っていると思う。
「……供物をねだる神とは、これいかに。ずいぶん風変わりでいらっしゃる」
(たまにはそういう神がいてもいいじゃないですか、いいじゃないですか!)
「失礼だが、なんの神でおわすのか」
(たんぱく質の神です)
阿止里さんは盆踊りするミミズを見たような顔をしてから、尻尾の焦げたところだけ寄越した。
ばちが当たるぞ!




