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花片と落丁 ―阿止里―

四人と縁子が一緒にいたころの日常の小話です。


三人称です。

 よく噛んで食べなさい、という母の言葉を縁子が思い出したのは、ユーリオットが朝食時にナラ・ガルに対して、眉をひそめながら似たようなことを告げたからだった。


 あのとき、母はなんて続けたんだっけ。


「よく噛んで、なにかいいことがあるかな」


 そう言いながらも、律儀に言われたとおりに咀嚼するナラ・ガルに対し、ユーリオットもまた薄焼きのパンを小さくちぎり、ゆっくりと含んでいく。


 食べ方には育ちが出る。一定のペースで小さく食を進めていくユーリオットは、さすがに裕福な家の出といったところか。がつがつ食べるような飢えとは無縁だったのだろう。

 ちなみに月花もナラ・ガル同様、あまりよく噛まずに飲み込むほうだったので、苦笑しながらも付き合うようにスープの肉を噛みしめている。

 

「そりゃあ、いろいろあるさ。医学書にもそうとあるし、何よりよくそう言われてるだろ」

「たとえばどんないいこと?」


 月花がすかさず問う。ユーリオットは間髪入れない発言に、ちょっと待てと制する視線を向けながら口の中のパンを咀嚼している。

 月花のまっすぐな知的好奇心はあらゆる方面に開かれていて、こんなふうにまわりの人間を閉口させることもしばしばだ。ナラ・ガルはテーブルの中央に置かれた大皿に手を伸ばす。積まれているのはこんがり焼かれたナグイの腿肉だ。縁子はそれを見て、慌てて台所に戻った。持ってきたのは斜めに切ったレモンの入った小皿である。そっとテーブルに添えれば、ナラ・ガルはにっこり笑ってひとつ絞った。果汁の爽やかな芳香がその場に広がる。それに影響されたのか、ユーリオットも口を動かしながら、同じように肉を取り上品にレモンを絞った。ナラ・ガルはぱりぱりに焼かれた皮と果汁との酸味に相好を崩しながら、首を傾げて予想した。


「なんだろうなあ。顎が強くなるとか、我慢強くなるとか?」

「それもあるが、何より消化の負担が軽減されるだろ。胃も身体のうちなんだから、負担をかけるな」


 おまえらはすぐに飲み込んでしまうんだから。憮然とするユーリオットの小言に、はいはいと返事をする二人の声に、縁子は母との思い出から抜け出した。

 かつて、縁子もナラ・ガルと同じようにどうしてと尋ねれば、母は淡々と答えたものだった。


「だいじにするため」


 縁子がこぼした言葉に、三人がとたんに顔を向けた。そこまで注視されるようなことを言ったつもりはなかったので、縁子はちょっとどぎまぎしながら補足する。


「ほら、すぐ飲み込んでしまうと、せっかくの料理がすぐになくなってしまうじゃないですか。味わって、大切に食べて、食材と調理をしてくれた人に感謝をするためでもあるって」


 お母さんが言っていたのだけれど。もごもごとそう付け足しながら鶏肉の骨をいじっていると、三人の眼差しがゆっくりと柔らかくなっていったので、縁子はさらに居心地が悪くなってしまう。


「……なるほどな」

「すてきな考えだなあ。食べ物と、作ってくれた人へ感謝をする、か」

「僕もいつも縁子に感謝してますよ」


 まさしく、噛み締めるってことだね。ふわりと笑った月花につられるように、ユーリオットも珍しく、仕方ないように口元をゆるめた。


 よく味わうのは料理だけではない。きっと、おなじ食卓を囲む、その場を共有している家族や友人がいる幸せも味わうためなのだろうと、縁子はこっそり思ったりした。







「……っ」


 ぴりりと小さな痛みが指先に走る。とはいえその痛みが訪れることを知っていたので、縁子はそのまま指先を口に含む。


 時刻は夕暮れ。夕食の準備をするために台所に立ったところで、中途半端に剥がれた逆剥けが気になった縁子だった。


 台所には大きな窯がひとつと、大中小の三つの水甕が置かれている。調理台としての長めの石でできたテーブルに、小休止できるようないす(背もたれのない、まるいやつだ)が二つあって、縁子はもっぱらそれに腰掛けながら野菜を刻んだり、煮込む時間を過ごしている。


 そのいすに座り、逆剥けを一気にむしったところである。縁子が改めて傷口を眺めれば、皮膚のしたの赤みを帯びた、敏感なところがかすかに見えた。なんとなく傷口を押し出すように挟んでやれば、じわりと滲む血。


 机の上に目をやると、いままさに縁子の身体から解き放たれたさかむけの小さな皮膚が落ちていた。ものいわぬ皮膚。縁子はそれを見て、なんとも言えない心地になった。


 変なの。そう思考していると、奥から声がしたので、そのせいで思考は途切れてしまった。


「何をしている」


 冷ややかなようにも、ただ淡々としているだけにも聞こえる声音に、縁子は少しの驚きをもって視線をあげる。


「あっ、おかえりなさい阿止里さん」


 うん、とうなずきながら外套フードを脱いで、ぱんぱんとはたいてから通路の壁にかけているのは、帰宅したばかりの阿止里である。縁子が慌てて代わりにやろうと立ち上がれば、手で制して座るように促される。


 阿止里は今朝はやくから家を出て、ギルドでの次の契約の話をしてきたところだった。日雇いの形態ではなく、中長期にわたる仕事を主に請ける阿止里たちにとっては重要な更新作業をいったところだろうか。阿止里が朝食のときに不在であったのはそのためだった。


 ちょっと中庭に出て、阿止里はさらに全身をぱんぱんと手で払う。そうして砂を落として再び台所に入り、調理台わきのいすに座ったので、縁子は後ろから水割りワインを杯に注いで彼の前に置く。それから奥の戸棚の壷からいくらかのナッツ類を小皿に盛って差し出した。阿止里はねぎらうようにちょっと目を細めてから、ワインを飲み干す。だいぶのどが渇いていたようだ。縁子はおかわりを注ぐ。阿止里はナッツをつまみながら、それでと話を戻した。


「何もない机の上を凝視していたな。また何か珍奇なことを考えていたのか」

「珍奇とは失礼ですね、阿止里さん。不思議だなと! 単純にそう思っていたんですよ」


 心外というように縁子が眉を上げて見せて、阿止里も応えるようにほんの少し口元をゆるめる。そのゆるめ方がまた絶妙だ。皮肉っぽくならない程度に親密で、なのにちっとも馴れ馴れしくない。


 縁子が思うに、阿止里は自分の外見がいささか冷淡すぎることを自覚している。涼しげな目元、奥二重の黒の瞳は美しいだけでなく、何か深いもの――たとえば清濁だとか、人間の邪悪や澄んだ部分だとか――をまるごと飲み込んでいるように奥行きがある。目が合うだけで相手を落ち着かない気にさせるのだ。


 そして彼はそういうふうに見られていると自覚もしているので、それらの要素が有利に働くように行動を制御してもいるかのような。

 そしてそれと同じように縁子相手には、ときどき意識的に表情を崩すのだ。縁子はこの隙のない主人に対して、多大なる尊敬とそこそこの親しみ、そしてかすかな違和感とをずっと持ち続けている。


「何を不思議だと?」

「ええと、これです」


 そう机の上の皮膚――まるでゴミのようなかけら――を指差せば、阿止里もさすがに訝しげに、あるいは薄気味悪そうに眉をしかめた。


 なるほど、他者からみた自分を思い浮かべ、縁子はほぞをかむ。夕食にはまだいくらか早い夕暮れどき、人気のない台所にひとり座り、血を滲ませた指先をさらに絞るようにつまんで、机に落ちた小さなゴミを見て物思いにふけっている。不審と判断するにはじゅうぶんな状況だったかもしれない。


 縁子は一瞬の逡巡ののち、口を開いた。机に落ちた小さな皮膚に人さし指を押し付け、湿り気を利用して拾ってみせる。


「これは、私の皮膚だったものです」


 阿止里がとうとう困惑を隠さなくなった。しかし縁子は気にせず続ける。聞いてきたのはそちらのほうですよと、むしろ堂々と顎を上げた。


「ちょっと前まではこの指先にくっついていた、さかむけの部分なんですよ。そのときはまだ私の皮膚だった」


 それで? 阿止里はやや半眼ながらも諦めたように瞬いた。縁子の言葉を最後まで耳にする気になってくれたらしい。


「不思議じゃありませんか」

「待て。飛躍した」


 それがどうして不思議なんだ。阿止里の眉間が険しくなるのを横目に、縁子はすこし唇を尖らせた。

 自分があまり上手に説明できないのはわかっているが、ときおりこんなふうにもどかしくなるときがある。

 でも縁子は、この雇い主がきちんとさいごまで聞いてくれることも、もう知っている。だから縁子は、もどかしさはあれど焦ることなく言葉を続ける。


「……たとえば、爪。切る前は私の身体の一部ですが、切った瞬間にそれは私だったものに成り代わりますよね。ほかにも髪とか。シャワー……お風呂に入って髪が抜けてそれが排水溝に溜まるのとか、とくに醜い。でもあれらだって、私の一部だったものですよね。それが不思議なんです」


 奇妙な沈黙が落ちた。


 縁子はちょっと肩をすくめた。わかっている。どうということはない、ただの日常に感じたささいなことですよというふうに。


 けれど縁子はこうも思っている。とりとめのないことを零せる相手は意外と少ない。口に出す以上はその言葉には意味や責任が生まれるのが世の常である。

 ましてや縁子の立場は奴隷だ。大らかな主人たちのおかげでそういう立場を忘れかけるが、子どものころの昔話や趣味などに弁舌をふるう場とはかけ離れている。


 ゆえにちょっと疑問に思ったことや、ささいな感動などはぐるぐると自らの中で廻り、たいていは排水口に吸い込まれる水のように消えていく。

 ナラ・ガルや月花などはそんな配慮をしなくともよいというふうだが、彼らの貴重な自由な時間を、自らの非実用的で実のない疑問を投げて煩わせたくないので、なんとなく口に出すのは控えめにしようと心がけていた。


 それが、この主人に対してとなるといくぶん勝手が違ってくるのが、縁子には不思議だった。


 先ほど一瞬、逡巡した。こんな伝えても意味のないことを、この忙しい主人に話す必要があるのだろうかと。

 意味もなければ暗喩ですらなく、日本の仕事場でだって絶対に言えないし、友達にだって言ったところで「だから何?」「それがどの話とつながるの」と場を冷やしてしまうだけだろう。


 でもこの人は。


 今も疑問にすらなっていない縁子の呟きに、無表情でありながらも真面目に思考してくれている。


 阿止里はゆっくりと瞬いて、なるほどなと呟いた。そして、これはあくまで俺の考えだがと続けた。


「皮膚が新しくなるのも、爪が伸びるのも、髪が抜けるのも、ひっくるめて変化のひとつに過ぎない。おまえは髪が伸びることに、醜悪さを覚えるか?」

「いえいえ、まさか」


 そんなことはないですと縁子が首を振れば、阿止里も小さく頷いた。


「果物が熟すのも変化のひとつ。果物が腐るのも変化のひとつ。それぞれに、おまえはどう感じる」

「ええっ、唐突ですね」

「返答は」

「うーん、熟すのは嬉しいです。腐るのはいやです」

「しかし果物からすれば、それもおなじ変化にすぎない。髪が伸びるのも、髪が抜け落ちるのもそれに追随する。おまえが勝手に、一喜一憂してるだけだ」


 勝手に、とはずいぶんな言い草だと思いつつも、なんとなく阿止里の言わんとするところが見えてきて、縁子は小さく首を傾けた。


「……平等に訪れる変化を、私が勝手に不思議に思っていただけということでしょうか」


 どうだろうとゆるく首を傾ける阿止里に、縁子はちょっと不満に思う。どうして空は青いの、と問いかけた子どもに親がするような幕切れではないか。


「おまえがそう思ったのなら、そうなんだろう」


 ただ、排水口に溜まる髪の毛の醜悪さには同意する。


 そう言って阿止里は立ち上がり、縁子の座る側に身体を屈めた。距離がぐんと近くなる。何だろうと身体を硬直させれば、机の上に戻してあったさかむけの皮膚に、ふっと息を吹きかけた。

 阿止里の吐息が縁子の一部だったものを宙に舞い上げる。睫の数すら数えられそうな近さと、その横顔の輪郭の美しさに、縁子は知らず息を詰めた。

 そうして阿止里は横目でひっそりと縁子を見る。見知らぬ場所に迷い込んだ子どものような、好奇心と気おくれの中間みたいな顔。試すような探るような、焦れているような色は気のせいだっただろうか?

 床に落下する皮膚を見届けることなく去っていく阿止里の背中。去り際に、阿止里の手の甲がかすかに縁子の髪を撫でた感触。


 不意に縁子は思う。意味もなく比喩でもなく、なんの教訓にもならない今の会話。毒にも薬にもならないとはまさにこのことだ。

 日本の友達にだって伝えることはない胸のうち。こんな日本から遠く離れた異世界、原始的な環境のその中で、なんのてらいもなく話をできる相手がいるという事実。


 外に目をやれば、茜色と藍色とが、お互いを尊重するように丁寧に溶け合っている。

夕食を作り始めなければならない時間だ。ナラ・ガルやユーリオット、月花たちも、もうじき姿を見せるだろう。そしてまた、おなじ食卓を囲むのだ。


 母の言葉を思い出す。


 よくかんで、味わって、感謝をして、飲み下すのよ。


 料理だけではないのだ。縁子はとりとめのない時間を舌の上で転がし、共有してくれた相手に感謝をして、そしてその相手がいることの響くようなあたたかさを感じながら、ゆっくりと嚥下した。






八章はここまでとなります。お付き合いいただけた方々、ありがとうございます


そして感想、評価、レビュー、ブックマーク、メッセージ等、いつもありがとうございます。どれも励みとさせて頂いております。心の栄養ドリンク。


思えばお話もだいぶ進んできました。縁子は一難去って……ですが、へこたれず前を向いて欲しいです。次章まではまたしばらく間が空きますが、大詰めになってきた縁子の冒険(違う)がどうなるのか、見守っていただけますと嬉しいです。


何はともあれ、素人の趣味にお付き合いくださる方々に、心から感謝を。






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