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8.月花の後悔と、蛇の男

 そして私は今また、森の中を走っている。


 もちろん全力疾走ではなく、ぼてぼてとした小走りだ。夜明け前の暗い森の中、舗装もされていないところなんてろくに走れたものではないのだ。


 ユーリオットさんのところでサンダルをもらえて本当によかった。足の裏が小枝や小石でずたずたになってしまうところだった。


 未開の地は私の背よりもなお高い藪や茂みばかりだから、危ないときは顔を怪我しないように腕で覆いながら走る。体力を消耗するが仕方ない。

 アラサーにはなにもかもがハードル高いよ。これが落ち着いたら、たまに有給休暇をもらえないか頼んでみようかな。なんだそれ、って聞き返されるのだろうけど。

 そんなふうに、私は無理やり意識を軽くすることを考えてひたすら走る。


 どうして私がこんな状況かというと。

 無茶とは知っている。ばかげていると言われるのも知っている。けど、やってみないとわからないじゃない?


 つまり――月花に会って、夜明けの攻撃を止めてくれるよう、直談判するためだ!


 もちろんヒルダは猛反対した。

 初めてヒルダに会ったとき、私はまさに白狐ハウ・キュオである月花に殺されかけていたし、泳ぐことすらできない私に何ができる、ということだ。(ここでは泳げることではじめて、人権を得られるようなふしがある)


 ヒルダの言うとおり、何もできないかもしれない。正直こんな状況じゃなければ、申し訳ないが遠くへ逃げてそれでおしまいだ。命は惜しい。


 だけど私はもうカムグエンの人たちと暮らして、かれらの生活に触れてしまった。

 月花とだって、過去にではあるけれど一緒に食卓を囲んだ。トランプだってした。


 この人たちどうしが争うのが、嫌なのだ。せめてどっちかに深入りしていなければ、知らん振りもできたかもしれない。


 だから出会いがしらにヒルダが言ってたことを利用することにした。

 私が古い口伝にあるという救いの少女というくだりのことである。(なんども言うが少女ではない)

 だから大丈夫、万に一つうまくいったら、それにこしたことはないでしょうとヒルダを説き伏せた。


 彼女は大きく利発そうな瞳を潤ませて、まるで子どもの健康状態を検分する母親のように私を覗き込み、絶対に帰ってきてね。そう告げた。

 それから、彼女は危険を冒して舟を漕ぎ、播族がいると思われる境界線まで送ってくれた。


 そして私は今、月花を目指して夜明け前の森を走っている。そういうわけだ。


「播族たちは、どのくらいの人数いるんだろう」


 さすがにずっと走り続けるなんてことはできないので、私は歩きながら上がった息を整える。腰につけられた巾着にいるたまは、さあな、とそっけない。

 そういえば、ヒルダにカムグエンの人口をきいたとき、ひとこと「たくさん」とだけ返された。

 どうやら十以上の数字は、「たくさん」でくくられてしまうらしい。閉口すると同時に、十進法って便利でなんてありがたいんだろうと改めて感じた。


(縁子。人間の気配だ)


 たまの言葉にとっさに身を隠す。大木に背を当てながら覗き込むが、私の視力では薄闇に何も見つけられなかった。

 さらに身を乗り出したとき、風を切る音がした。直後、目の前で揺れる細い棒を見て、私はまたたく。


(上だ!)


 たまの声に顔を上げる。それでも私は、何も見つけることができない。懐中電灯がほしい!

 すると先ほどの音が、次々に発せられた。がつ、がつ、という鈍い音とともに、何か細長いものが上半身をなぞるように飛んできた。


 本当に驚いたときって、声って出ないんだ。

 皮膚から三センチも離れないところに、縫いとめるように突き刺さっている矢を見て呆然とする私に、高台から愉しげな声が落ちてきた。


「朝の蜘蛛は善きもの、生かせ。夜の蜘蛛は悪しきもの、殺せ――さあ、いったい今はどっちの時間なんだろうなあ?」


 小枝を踏む音とともに、夜明けの薄青い闇の中から忍び出てくる長身の男。

 刈り上げた茶色い髪、茶色い瞳。皮の簡易的な鎧のようなものに包まれた、堂々とした体躯。

 彼の木靴がぬかるみに入っだのだろう、なめくじがあくびをするような、ぬめった音が聞こえた。


 愉悦をたたえた瞳が、快さそうに細められた。






 兄さん(エトライ)と、月花に呼ばれていた男だ。

 弓を片手に持ち、なにかの肉食動物のように物音を立てずに近づいてくる。私は標本の虫のように樹に貼り付けられて、動こうにも動けない。

 こんなふうに縫いとめられるのは映画とかで見たりするけど、ぜんぜん取れない! 私は忙しなく身体を揺すって、矢じりを緩めようとしたがまったく効果は無い。むしろ、麻の布地の穴がちょっと広がった。弓とは、かくも深く木に突き刺さるものなのか。


 それにしても、どうしてこの男がひとりでここに?


「お嬢ちゃん。あんたは池に沈んだはずじゃあなかったかね。しばらく待っても、浮かんでこなかったものな。どういうからくりがあったのか」


 私から一メートルほど離れたところで足を止め、ナラ・ガルさんほどもある長身をかがめて見下ろしてくる。

 私はカムグエンや播の状況の背景も経緯も、虫食いの地図のようにしか理解はしていない。

 

でも! こと月花に関しては、あんなふうになってしまった原因は、この男にあるに違いない!


「あなたこそ。脱走兵ですか? こんなところにひとりでいるだなんて、すごく怪しい」


 男の瞳が妖しく光る。なにひとつ面白いことなんてないのに、唇を吊り上げるのはやめてほしい。


「なあ、お嬢ちゃん。自己紹介が遅れたなあ。俺の名前は、ウオンリュという。あんたの名前は?」

「教えません」

「俺は名乗ったのに?」

「怪しいおじさんとは、口を利くなって教わったもので」

「つれないねえ。そういうところを、ユエのやつは知ってるのかな」


 その名前に、私の顔が強張ったのがわかった。男は酒の肴のおいしい珍味を眺めるように破顔する。

 私は腹が立った。いったい目的は何なんだ。私を本物の蝶の標本のように射抜くことだってできたはずなのだ。


「どうやら本当に昔のあいつを知っているようだ。なのに俺の名前を聞いても驚かない。カムグエンの民かといえば、まるで違う顔立ちだ」


 私は黙る。誰も助けてはくれないのだ。自分でどう切り抜けられるか、選択肢をかき集めるほかない。


「さあ困った。あんたをどうすべきだろうなあ? あいつ、あんたに会ってからというもの、別人のように落ち着きがないんだぜ。ため息をついたりそわそわしたり。あいつを不安がらせるものは不要だから、しっかり沈めてやったはずなのに。あいつはそれでもどこか上の空のままだ。そしてあんたは、こんなふうに目の前にいる。なあ、あんたは月と、どういう間柄だったんだ?」


 月花が、落ち着きをなくしていた? 記憶の欠落が気になっていたのだろうか。あるいは何か、過去の断片を思い出していたのだろうか。


「月を安定させてくれるなら、連れてってもいいんだが。だが、逆効果になることもじゅうぶんありえる。ああ、困った」


 困ったと口では言いながら、やはり味わうように口はつり上がっている。

 その微笑みは、けれどゆっくりと消えていった。目だけで笑みをつくり、さあ話せと低く告げる。


「俺と会う前の月のことを。そうすれば無事に解放してやるよ」

「なんで、それを知りたいの」

「そりゃあ、お嬢ちゃん。あいつは俺の弟分だ。なんだって知っておきたいって気持ち、わかるだろ?」


(縁子。鵜呑みにするな。この男、真実と虚偽ととうまく配合し、あたかも本当らしく言葉を紡ぐ)


 ご忠告どうも。でもそれはたまも一緒でしょ。

 内心毒づけば、たまはそうか? と空とぼけた。どいつもこいつも。


 とにかく、今の私の目的は月花と直接会ってこの開戦を止める、あるいは引き伸ばすことだ。

 目の前のウオンリュは、考えが読めないし空恐ろしさもあるが、どうにかはしなければならない。


「いいですよ。お話します」

「そうこなくっちゃなあ」

「ただし、条件つきです。私はあなたに会う前の彼の話をする。あなたは私が彼と離れてからの話をする。とっても公平ですね?」


 あんたが兄貴分だというのなら、私だって姉貴分なのである。


 ウオンリュは初めて、その余裕しゃくしゃくの顔を引っ込めた。切れ長の瞳を少しだけ見開いて、おそらくようやくまともに私の顔を見た。

 それからふうんと顎を撫で、縫いとめられた私の左腕に手を伸ばす。

 思い切り、手首に力を込められた。


 その痛みは台風のように避けられないものだった。手首の、外側のでっぱった骨あたりから、根こそぎくびりちぎろうかとするような圧倒的な力。

 感覚が失われ、まるで手首から先が熱の塊のようになった気がした。そしてそのまま、巨大な線香花火の塊のように溶けて地面に落下してしまうとすら思った。


 しかしはじまりと同じように終わりもまた突然やってきた。ウオンリュはぱっと私の手首を離した。


 じんじんする左手首を、呼吸を整えながらおそるおそる見る。そこにはちゃんと手がついていて、けれど細かく震えていて、心臓がそこにあるかのように脈打っている。

 どういうつもり、とこわごわ見上げると、そこには神父のように清らかな微笑みがある。

 私はぞっとした。今のは、とウオンリュが口を開く。


「痛みを与える必要があったからな。あんたの瞳は、俺たちが平等かのような色があったからなあ。もう、理解できただろ?」


 理解したくなんてなかった。けれど身体に与えられた暴力は、彼の意図したとおりになっている。つまり、私が彼を見る瞳には、怯えが浮かんでしまっているだろう。

 とても腹立たしくて、でも無力で、怖いことが悔しくて、私はただ唇をかんだ。


 ウオンリュは理科の実験を見つめる教師のように私を見て、それから呟いた。


「ただ、そこそこ愉しいやりとりではあったしなあ。いいだろう。あんたの条件を呑んでやるよ」


 さあ、お話の時間だな。男の声に同調するように、夜明け鳥がどこかで鳴いた。







 ”不毛の地キュヌス”を聞いたことがあるか。

 昔、ある戦争で負けた国の名前だ。

 キュヌスは高い文明と軍事力を誇ったが、その急成長を他国は恐れた。隣国にあった大国はキュヌスに攻め入り、滅ぼした。


 問題はその後だ。滅ぼされたとはいえ、ちりぢりになった敗走兵やキュヌス人は大勢いた。

 彼らに復讐をされないように、隣国は徹底的にキュヌス人の心を折る必要があった。

 ひとつの国をなくすということは、思ったよりも大掛かりなんだ。数年、数十年たてば、子どもらは青年になり、親の雪辱を心に抱くものも多いだろう。


 瓦礫の山と化したキュヌスを誰もが持て余す中、ある計画が実行された。


 どんな計画か。

 それは街も、道路も、家も、なにもかもを破壊し、平らにならす。それから土地という土地に、膨大な量の塩を撒くという計画だった。


 たったそれだけ、と思うか? だがこれは、何よりもキュヌス人の心を摘む所業だった。


 なぜなら国とは、人と政治と土地の三つが必要だ。

 人がそこに住むには、畑がなければならない。住みかと食料は、人の営みには欠かせないものだ。


 かつて彼らが栄華を誇った神殿や行政施設はただの地平線のようになり、どれだけ耕しても、作物は実らない土地に変貌した。

 

 キュヌス人たちは二度とその地に戻ることはなかった。

 キュヌスを取り巻く国々はそれに安堵すると同時に、その計画を空恐ろしく感じた。


 その発案者を、大国はやっきになって探した。一国の後始末を、ただの土木工事だけで終わらせちまった。

 塩を撒かれた土地は半永久的に不毛の土地となることは、それまでに知られていなかったし、方々へ人を遣ってキュヌス人の残党を探し出し、一人残らず殺して回るよりは、よっぽど低予算でスマートなやり方だ。ほしい頭脳だ。


 だが誰も見つけることはできなかった。うわさではそれはまだ年端もいかない子どもで、まるで無邪気な遊戯のようにそれを思いつき、口ずさんだともいう。


 俺は探した。ずっと探し続けた。膨大な時間と手間をかけ、そして見つけた。 


 醜く、疎ましく、陸に打ち上げられた魚のような目をした、月花ユエホワを。






「手がかりといえば、月花という名前ひとつだ。俺はなけなしの金をはたいて、数人の情報屋に手を尽くさせていた。そのひとりからの引き合いで、数年後に場末の酒場でお目にかかれた。ひどい有様でな。俺が首を締めても、何の抵抗もなく目を閉じそうな、幽鬼の青年さ。それからは、俺の想い通じて、今に至るってわけだ」


 ウオンリュは月花に擬似的な愛情を与えた。誰に見られても気後れしないようにと、白い狐の面まで与えた。(月花たちのいう神は、男が女のように顔を隠すことをよしとしないらしいが、ウオンリュが巧みに説得したのだろう)

 そして他の権力者からの目くらましになるようにと、月花の名前も隠した。


 彼らが月花の名前にこだわっていたのは、こういうわけだったのだ。


「あいつは、過去の自分の計画を恥じていた。キュヌス人たちの戻る土地を、意図せず台無しにしたんだ。じっさい、そこで暮らせたであろう何千、何万の命を、奪ったも同然だしな。まあ俺がしっかり慰めたさ。時間はかかったが、俺は気が長いんだ」


 気は確かに長いだろう。綿密に計画を立て、機を選んで実行し、力強く成功する男に特有の生命力を、この男からは確かに感じる。言い方は悪いが、ベンチャー企業の実業家のような顔立ちといえなくもないのだ。


 ウオンリュは私が貼り付けられた木のふもとに、どっこいせと腰を下ろして胡坐あぐらをかいた。ひじを膝に当て、頬杖しながら私を見上げて続けた。


「それに嬉しい誤算もあった。ユエはとことん理論的な青年になっていて、あいまいで移ろいやすい世俗よりも、確固たる数字と化学の世界を愛した。人間と違って、そこにはどんな感情も裏切りもないからだろうなあ」


 ウオンリュの話と、私の知る月花とを照らし合わせようとした。

 月花は、その計画が実行されてしまった後に、ククルージャの三人と合流した。

 そして束の間の、私が混じった時間。私が消えると同時に、月花の記憶も曖昧になってしまう。三人とは別れ、また放浪の生活。

 その後、絡め取られた。この蛇のような男に。


 ウオンリュの語る月花の過去は壮絶で、私はすでに枯れの心の内側を、想像することすら難しくなっていた。

 私は頭を左右に振る。砲丸投げの玉を、丸呑みさせられたような心地になる。


「俺がなぐさめたんだ。だったら俺の役に立てばいい。俺のために尽くせば、俺は全身全霊であいつを愛す。そして俺が導くまま、月はおもしろいものを完成させた。特別な配合で鉱石と一緒に燃やす植物なんだが、それは煙に溶け込みんで吸い込んだ人や獣を半恒久的に動けなくするんだ。呼吸すらも」


 動けなくなる煙。一度吸い込んだら、ずっと? 呼吸すらも。

 それって。


「……毒ガス……?」


 確かに月花ならば、その手のものの発見に至ってもおかしくはない。でも。


「嘘! 月花が、それを使う許可をするはずがない。だって、あんなに」


 そう。許可をするはずがない。ククルージャの庭。静かな瞳。月花は、無表情でなんと言っていた?


 ――ひとつの畑に実る麦穂の数くらいたくさんの人を殺していたら……――


 そう囁いていた月花。うつくしい緑の瞳。そこに確かに浮かんでいた、深い悔恨。

 その過ちを、繰り返すはずがない!


「そりゃあ、あいつは許可をしないだろうさ」


 その言い方に含みがあった。唇がとろりとつりあがる。この男、まさか。


「無断で、使うつもり……?」


 おすわりが出来た犬を褒めるように、満足げに首を唇を吊り上げた。






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