7.泳げるってすごいことだと思うんです
男は40前後に見えた。カムグエンの人々とは異なる、茶色い髪に瞳。ツーブロックに刈り上げた髪はテレビで見る軍人のようだ。
長身で、やはり鍛え抜かれた身体をしている。ナラ・ガルさんに匹敵する、堂々とした風体。
印象的なのはその表情だ。私は学生時代の、学年でやんちゃだった男の子たちのグループを思い出す。ハンドボール部だった彼らはよく言えば元気、悪く言えば粗野に過ぎ、問題を起こしては叱られていた。叱られたところでまったく気にしないようなガキ大将の集まりだったが、その中にひとり、異彩を放っていた男がいた。
余裕のある表情、自信を宿した目。輪の中心にいるくせ、いつも静かに笑っているだけだった。上手にまわりを誘導し、常に面白いものを探しているかのようでもあった。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば享楽的な。大人になった彼がやくざの裏で、ものごとを操っていると言われても違和感がない。
ろくに話したこともないのに、印象だけでものを言って失礼かもしれないが、私は彼が隠す気もない冷淡さが苦手だったのだ。
こんなことを急に思い出したのは、目の前の男が纏う、刹那的な空気が似ていたからかもしれない。
「ずいぶん遅かったじゃあないか。お話が長引いたのか?」
「いえ、べつに。ただこの娘が奇妙なことを言ったので、僕は混乱しています」
「へえ? どんな」
「以前、僕に会ったことがあると。僕は覚えていないのに」
「そりゃあ、面白い」
私を見る瞳が、怪我した鼠を見つけた猫のように細められた。言いようのない悪寒が、背中を走る。
「やはり、僕の名前を知っているようです。兄さん、どうしたらいいと思いますか」
兄さん? 月花に、兄がいたのか。
彼らの会話は、どんどん進んでいく。私は混乱した。どういうことだ。
(縁子。血の縁はなさそうだぞ。義兄弟という意味ではないか?)
ぎっ、義兄弟! 現代社会で暮らしていれば、めったなことでは耳にしない言葉だ。あれか、兄弟の杯を交わす、というやつか?
それにしても、月花の表情や声はひどく明るい。狐面のせいで下半分しか見えないが、それでもだ。
三人に対してですら、こんなにあからさまに懐いてはいなかった。
「おまえの名を知っているとあっちゃあ、かわいそうだがどうしようもないだろうなあ。きれいに沈めてやりゃあいい」
どうして二人は、こんなに月花の名前に固執するのだろう。
ククルージャにいたときは、隠す風情もなかったのに――んん、沈める?
「そこまで、したほうがいいと?」
月花が控えめに確認した。その声は淡々としていて動揺の色はないが、どこか困惑も混じっているように感じた。
「あくまで、俺の意見さ。おまえに関わることだろう? おまえが決めたらいい」
なに。これって、私を湖に沈めるかどうかって話? 意味がわからない。
「……兄さんは、いつでも正しいですよ」
では、そうしましょう。そう言って私に向き直った月花は、もはや迷いはないようだった。さっきまでの、好き嫌いの話で子どものようだった一面は欠片もない。私はそのことに戸惑う。まるで別人のように冷え切った声で月花は口を開く。というわけで、と首を傾けた。
「大丈夫。苦しみのないように心がけますから」
本能的に後ずさる。冗談ではない。こんなところで――しかも月花に――どうして沈められなければならない?
「このあたりの底には、たくさんの長くて大きな藻があります。優しく包んでくれますよ」
手が伸ばされる。どこかのテレビで、鶏の首をぽきりと絞めた料理人が頭をよぎる。
月花の背後では、男は極上のマッサージを受けているような面持ちで静観している。自分の手を動かさずに、けれどすべて彼が仕組み、誘導した。それが成功しようとしている、仄暗い優越に浸る瞳。私は直感する。
この男は、こいつは。月花のひび割れた心にするりと入り込み、巧みに痛む箇所を包んだのだ。
そして彼の賢さを、己のために利用しようとしているのではないか。
根拠はない、あくまで勘だ!
「じょっ、冗談じゃない! 月花、しっかりして。思考とか判断は、他人に任せちゃいけない! どんなに辛くても、それだけは――」
私がそう気色ばんだとき、小舟のへりを掴んでいた手がずるりと滑った。
嫌な浮遊感は一瞬だった。後ろ手に体重を預けていた私は、体育の授業のように後転し、湖にばちゃんと落ちた。
さいごに目にしたのは、月花の無防備に空いた唇。魚眼レンズで見上げたかのような、溢れる星空。
そのあとは、ゆらめく暗闇と水の音が、私を包んだ。
落下した水中は、私が経験したどの暗闇よりも奥深く不気味だった。
いったいどちらが水面で、どちらが水底なのかもわからない。目を開けていられないのだ。
泳げないも同然の私は、本能のまま手足をばたばたさせたが、徒労に終わる。
泳げる友達は、「人は身体の力を抜けば浮くようにできている」と言っていたが、それができれば苦労はしない。
口に含んだ酸素がなくなっていく。まとわりつく服が悪意を持つ碇のよう。耳に入り込んだ水が気持ち悪い。
打つ手がない。空気が、空気がほしい。
そう思ったとき、背中を大きな手のひらが押し上げた。
ちがう。手のひらではない。おそるおそる背後に手を回して、当たっているものの正体を探ってみると、それはたくさんの、湖の魚たちだった。
(逆らわずにいろ)
たま? ではこの魚たちは。
私は目をぎゅっとつぶって、息を止め続けた。左手で口と鼻をふさぎ、右手で腰の巾着の中の頭輪を握り締めた。相変わらず苦しいが、身体を動かさなくてもいいぶん、先ほどよりもずっと楽だ。
魚たちが、私の背中じゅうにその顔を押し当てるようにして身体を運んでいく。上昇してくれないのは、上に月花とあの男がいるからだろうか?
ああ、でも、そろそろ息がもたない――
突然、足のすね辺りに硬いものが当たり、反射的に身体に力を入れた。同時に上半身が、湖岸に打ち上げられる。
そこには渇望した空気が当たり前のように満ちていて、呼吸ができて、私は大きくえづきながら飲み込んでしまった水を吐き出した。生臭い水のにおいで吐き気が止まらず、涙がにじむ。
プールで失敗したときのように鼻がつんとしている。耳の中がとぷんと波打ち、めまいがするほど気持ちが悪い。
「あっ……う、あ……」
大きく胸を上下させながら、湖岸に仰向けになる。自分の身体がトドかセイウチになったかのように重かった。肩や髪が泥だらけになったが、それもどうでもいい。
「たま、ありが……と」
ようやく息が整ってきて、腰の巾着に触れながらお礼を言う。
(礼など……)
ばつの悪そうなたまの声。私はそれを、不思議に思う。
確かにこういう状況になったのはたまのせいだけど、たまの声には申し訳なさというよりは、迷いだとか、自己嫌悪のような響きがあった。
その理由を聞こうと思ったとき、やや遠くの水面を滑る小舟の影が見えた。反射的に息を潜める。
草むらにうずくまりながら様子を伺うと、どうやら月花と男の乗った小舟のようだった。
魚たちは、わりと離れたところに打ち上げてくれたらしい。
「……月花に、何があったんだろう」
髪から滴る水を絞って、遠ざかる彼らを見つめる。
賢い少年だった。三人と過ごす日々は、彼らの意見に自分の意思をきちんと伝え、年若いながらもひとりの人間として、自立していたように見えた。
けど今は違う。あれはほとんど服従する勢いだ。
あの男がイルカだと言えば、たとえカブトムシですらイルカだと答えるだろう。それもあくまで、本当はカブトムシだとわかった上で従うのではないか。
それは理性をきちんと持ち合わせた上での妄信だ。
(頭の回る人間ほど、いちど信じ込むと離れられぬものでは? 自分が心を預ける相手に認められることほど、心地のよいものはない。自分の思考を放棄して、唯々諾々と動くこともあるだろう)
そういうものかな。
私はちょっと思い返してみた。確かに、学校の生徒会や会社の課でも、「あの人にほめてほしい」と動いていた人たちはいた。
その気持ちはわからないではない。私だって、尊敬する上司に数字が見やすいといわれたときは、素直に嬉しかった。次はさらに工夫としようとも思ったものだ。
けれどそれは、場合によっては危険なことだ。もしその上司が、実は裏で不正をしていて、幻滅したとする。私は次から、書類に工夫をしなくなるだろう。あんな人のために業務の合間を縫って仕上げたなんてと、いやな気持ちになるだろう。
それはいけない、と思うのだ。仕事に工夫をするのもがんばるのも、ぜんぶ自分のためであるべきではないか? 相手あっての努力の、不思議な空々しさは、誰でも一度は感じたことがあると思う。
ぶるりと、身体が勝手に震えた。私は意識を目の前の水面に戻す。
熱帯地域といえども、夜の冷えた湖の中をツアーさせられるとこたえる。
「ひ、ヒルダたちのとこに帰りたい……! たま、魚に助けてくれるように頼めたんでしょ? 私を助け合いの家まで飛ばしたりとか、できないの?」
いつも好き勝手に人を転移させるのだ。こういうときくらい、有意義に使ってほしい。
(あいにく魔力は枯渇気味だ。先ほども、鍋底にこびりついたスープをなめるようにして集めた魔力なんだぞ。無茶言うな)
ほんっと、肝心なときに使えないんだから!
※
夜中までかかって、何とかカムグエンの集落に戻ることができた。
湖岸をぐるりと、えんえん歩いてきたのだが、これがものすごく疲れた。
道なき道なのは知ってのとおりだが、胸のあたりまでの茂みを掻き分け、見えない足場を確かめながらの行程だった。
ぬかるみに滑ってしまえば湖に落ちてしまうし、岩や石などを踏んでも危険なので、注意しながら進まなければならない。
舟着場に止められていた、そまつな小舟を慣れない櫂でひたすら漕ぎ、なんとか助け合いの家に着いたときは、身も心もぼろぼろだった。
広間の囲炉裏には、白っぽくなった石炭が、あきらめ悪そうに燃えている。みんな、ござのようなものを敷いて、雑魚寝をしていた。
部屋の隅にある物干しスペースに、乾いた衣服がいくつかあったので、拝借することにした。だぼっと、ゆるゆるのポンチョみたいな上着とスカートのようなもの。朝になり、乾いていれば着替えればいい。
乾いた清潔な衣服を着るだけで、ほっと一息だ。
ヒルダはどこだろうと見渡すが、石炭のほの赤い光だけでは見つけることができない。
真っ暗な部屋に、非常灯の光があるだけみたいな状況だ。私は思考を早々に放り投げ、手ごろな床に横になる。砂袋を詰めたように、身体が重い。
まだ濡れている髪を、寝やすいようによけて丸くなる。目を閉じれば、意識が泥のように沈んでいくのがわかった。いろいろなものが頭をよぎった。それはイメージでもあった。煌々と燃える石炭、洞窟に埋められた赤子、湖の底の骨、それから月花の狐面。その下にあるはずの緑の瞳……。
何かが振動するような衝撃に、私は鉛のような瞼を少しだけ開いた。
たくさんの足が、行き交っている。不規則な踊りのようだなと思ったとき、不愉快な音が脳に届いた。
硬い植物どうしがぎゅっぎゅっと、擦れあう音だ。らっきょを食べたときにも似た、ちょっと鳥肌の立つ感じ。
耐え切れず頭をもたげれば、みんなが慌しく動き回る、その足の振動が竹を束ねた床を揺らしている音だと気づく。内部が空洞だから、信じられないほど音が響いたのだろう。
「いや、何事?」
硬い床で身を縮こませて寝たせいで、疲労がすごく残っている。くどいようだが、アラサーだ。日付けが変わってから寝たり、油っぽいものを食べたりすると翌日しんどい。昔とはあらゆるところで変化を感じるのだ。
「ユカリコ! こっち」
乾いてごわごわの髪を手ぐしで直しながら立ち上がったとき、入り口にヒルダが走りこんできた。そのまま私のところに来て、手を取り舟へ引っ張られる。
「これ、何? なんかのお祭りとか」
「ユカリコのそういうほけほけしたところって、貴重よね」
ヒルダはまじまじと私を見つめ、褒めたのかけなしたのかわからないことを言った。
ほけほけとは、失礼な。これでもいろいろ考えているんだぞ。そう思ったが、まあいいやと開き直る。
「そうなの、貴重でしょ?」
そう言って微笑めば、ヒルダも仕方ないように笑った。それから私の手をとり、舟へ飛び乗る。櫂をぐんぐん漕いで湖の中心へ向かう。
人々のざわめきがすごい。まわりを見るまでもなく、たくさんの舟が出ている。一様に、同じ方向へ舟を進める様子は壮観で、まるで何かの儀式かと思ってしまう。
だが、それにしては人々の表情が硬い。
建物の合間を縫っていくと、湖の中心に出た。そこはそれこそ広場のような空間になっていて、水上の交差点ともいえる。
すでに集まっていた、おびただしい数の舟の上には、武装した男たちが居並んでいる。
広場の中心にぽつんと浮かぶ、塔のような建物。その上に立つ壮年の男性が、何事か叫んでいる。その声に呼応するように、集まった人たちが一斉に声を上げた。
まだ状況を把握できていない私の耳元で、ヒルダが囁いた。
「今朝がた、さいごの使者が来たの。カムグエンから私たちが出て行くか、さもなければ剣を取るか。二者択一を伝える白狐が」
戦いになるわ。
そう言うヒルダの言葉に、私はぽかんと口を開けた。
これが火星の月の石だよ、と手渡されたような、どうにも理解できないその塊を、私はただもてあました。




