4.再就職に成功です
そういうわけで、私はなし崩し的に、ユーリオットさん(少年)の小間使いとあい成った。
ゾエさんとも、初日以来めっきり会わない。本当に、この邸で、ユーリオットさんと二人暮らし。ふたりきり。
だからだろうか、まるですべてが完結しているように感じた。しばしば、家に満ちる静寂に、はっとさせられる。世界から音が消えたように思うことがあるのだ。
大きな母屋は、それ単体でもまるで平安時代の貴族のような広さである。それこそたくさんの女中たちが働いているのだろうが、不思議なくらい出会わない。それぞれの邸は、およそ50メートルくらい離れているが、その数字以上に、完璧に隔絶されているようだった。
邸宅の門をくぐり、買い出しで店主とやりとりをしなければ、会話する相手はユーリオットさんだけである。
ちなみに邸の配置はこう。この広大な敷地を真上から見ると、ちょうど漢字の「品」という配置で、三つの邸宅が建てられている。学校のグラウンドの向こう側に見えるような大きさで、それぞれは木々や茂み、庭などを間に挟み、レンガの道でつながっている。三角形のような並び方だ。
母屋がもちろん、一番大きく、ほかの二つは母屋の四分の一くらいの大きさだろうか。何にしろ、すごい贅沢なつくりである。
天珠が目的のはずのたまは、疲労を癒すためかずっと眠りに落ちている。私は依然として、どう動くべきかもわからないので、現実的な営みのために働くまでである。
どんなときでも、衣食住は最優先なのだ。
ククルージャでの住み込み奴隷生活を経験していたおかげで、目先のものごとに戸惑うことも少ない。
ましてやここでは、裏手に個人用の井戸まで備え付けてあるのだ。何をするにも、効率がいい。
ククルージャやビエチアマンなど、ほかの街を見たことがあるため、比較ができるのは興味深かった。
買い出しひとつとっても、さまざまな市場が街のいたるところで催されていたりもする。
新鮮な海鮮系ならあっち、日用雑貨ならこっち、というように、それぞれ特色ある市場が3つ4つある。どこも人出は多いので、ククルージャよりも、そしてビエチアマンよりも規模の大きな街なのだろう。
私はまだ見ていないが、街のはずれ、いちばん西側へいけば、なんと海が見下ろせるのだという。暇を見つけて拝みたいものだ。
邸の日々の生活についてだが。
ユーリオットさんは、もっぱら部屋に篭って、パピルスのような大判の紙を読み漁っているようだった。
どのようにそれらを入手しているのかは不明だ。なんにしろ、ここでも書物は貴重品。紙は流通しているようだが、印刷技術が存在しない。つまり、書物は人の手で膨大な時間をかけて複写される。手間と人件費をたっぷり吸って、お値段は想像以上のはずだ。ご両親が何をしているか知らないが、よっぽどすごい人たちなのだろう。
ユーリオットさんとの距離は、完全に主人と女中のそれである。
良家の家人たちは、下働きを空気のように扱う――とは、聞いたことはあるが、まさしくそれだ。おはようございます、とか、この野菜も残さず食べてくださいね、とか言うと、見知らぬ言葉を聴いた犬のような表情になる。
だから、私も話しかけることは控えようかとも思った。それが正しい主人と女中なら。
だが、いかんせん、孤独すぎた。買い物以外は、誰とも話せない。つらい。
そこで、私は非礼と知りつつ、ユーリオットさんが怒り出さない範囲で、顔色を伺いながら話しかけることにした。なんだこいつ、という雰囲気から、諦めモードになるまで、そうかからなかった。
あとはまあ、私はすでにユーリオットさんと暮らしていた経験があるので(未来ということになるのか?)、おおよそ彼の行動というか、好みというかを知っていた。
そのせいもあって、いろいろなものごとを、比較的滞りなくやれている。
たとえば。
「ユーリオットさん。朝ごはんです」
「ふん。なんだ、この怪しげな茶色いどろどろは」
「デミグラスソースもどきです。炒り卵に合いますよ」
「……」
まんざらでもなさそうにもぐもぐしているので、及第点だったのだろう。ちなみに、未来の彼が好んでいたものだ。
こっそり、自分でソースをおかわりしてた。お皿も、パンでふき取ったかのようにきれいだった。
それから。
「新しい種、買ってきましたよー。市場で、希少品って言ってたんです」
「はあ? ばからしい。種がなんの役に立つ」
「調合のお勉強、されているのでは? 薬草が手の届くところにあると、はかどるかなあと思いまして」
「……」
数日後には、私が水やりをしようと庭へ出ると、すでにたっぷり与えられているので、気に入ってはくれたらしい。
気づくと、庭は新しく開墾されて、植えた品種がわかるようにタグまで刺さった、薬草畑が広がっていた。
ほかにも。
「トランプしましょう」
「なんだ、子どもの遊びか? 興味ない」
「まあまあ、そういわず。一回だけ、付き合ってくださいよ」
「……」
スピードは経験がものを言う。大人げなく圧勝した私からトランプをもぎ取って、部屋に篭ってしまった。
翌日、リベンジを申し込まれて大敗した。どや顔がかわいらしくも憎らしかった。
そんなふうに、ひどく穏やかに日々が過ぎていった。
私が、彼の言いつけを破ってしまうまで。
※
その日は、風が強かった。
私は市場で買い物を済ませて邸に帰宅したばかりだったが、買い物かごに入れていた布地が、ふわりと飛ばされた。
ユーリオットさんが、ハンカチを作れと言って、そのために購入したものだ。
彼は、持ってないものはない。ハンカチだって持ってるくせに、私が今まで誰にもハンカチを作ったことがないと知るや、そう命令したのだ。
裁縫は苦手な私が憂鬱になっていると、それを見て上機嫌だった。その表情ときたら、嫌がらせするクラスの男子だ。
ともかく、まっとうに雇ってもらっている間は、雇用主には逆らえない。私はまっしろな木綿と、金色の糸を選んできたのだ。
ユーリオットさんの麦色の瞳は、日の光を反射してべっこう飴のような、やさしい金色になることがある。それに似た色を選んでみた。照れくさいから、言わないけどね。
その布地が、ユーリオットさんの邸まであと少し、というところで、風に巻き込まれて生き物のように飛んでいったのだ。
私は買い物かごをその場において、慌てて追いかける。
気まぐれな魚のように漂ったそれは、飽きたかのようにふわりと地面に着地した。
ユーリオットさんが近づくな、と行った、東屋を抱く別邸の縁側に、である。ずいぶん飛ばされたものだ。
私はあと一歩踏み出せば、別邸の庭に立ち入ってしまうというところで、足を止めた。
彼に雇われて、「やれ」と言われた仕事は多い中、「やるな」という禁止事項はその唯一だったので、どうしようと思い悩む。
だが、見回したところで女中も誰もいない。
そろり、足を忍ばせて、布地へ手を伸ばす。指先に、乾いた木綿の繊維の感触を感じたとき、ぎぃ、という音が聞こえた。
しゃがんだまま、目だけを動かすと、開け放たれた窓の奥、揺り椅子に身を委ねる人がいた。
規則的に揺れる、木製の揺り椅子。ぎぃぎぃと、軋ませながら、座る女性は、まっすぐに私を見ていた。
望むものすべてが満たされている、というような、不思議な微笑をのせて、呟く。
「からすさん、わたくしのお人形を、ごぞんじない?」
ええと。ご存知ないですね。




