3.衣食足りて礼節を知る
ちょうど日が沈んだばかりの街を、ユーリオットさんは迷いのない足取りで歩いていく。
私はまわりをきょろきょろ見ながら追いかける。
どうやら広場は、町の一番低いところに位置していたようで、どの道もゆるやかな上り坂になっていた。どの石造りの柱にもカービングが施され、オリエンタルな建造物が目に楽しい。
道を挟んで上のほうは隣の建物とロープをはり、洗濯物を干している家もある。そろそろ取り込まないと逆に湿ってしまうと思うのだが。
窓がやけに眩しくて目を凝らした私は驚いた。なんと分厚いガラスが嵌められているではないか。さすがに透明とまではいかないが、くもりガラスのようなそれは日光をじゅうぶん取り入れてくれるだろう。
家々の窓際には鉢植えの植物まで置いてあったりもする。まるきり地中海の島々の印象だ。
噴水からもわかるように上水道すら整っているときた。すさまじい技術である。
いま歩いている石畳も、でこぼこも少なく滑らかでとても歩きやすい。
私はの格好はビエチアマンでギィが寝かせてくれたまま、つまり裸足だ。滑らかな石畳は足裏にしっとり馴染み、その歩きやすさに感動すらする。
さすがに電線はないけど、あっても驚かないくらいの発達ぶりだ。
坂道を登るにつれ、ユーリオットさんを見て眉をひそめる人たちが多くなってきたことに気づいた。
なんだろう。容姿への嫌悪という感じではない。まるで腫れ物に触るかのような、そこには畏れのようなものも透けて見えた。
買い物かごを腕に下げた女性が口元を覆いながら呟いたのが耳に届く。
「……また出歩いているわ、テクナトディアボルが」
てくなと……何?
何にしろほめ言葉ではないようだった。ユーリオットさんは聞こえているだろうに、まるで気にせず淡々と歩いていく。
そしてしばらく歩いて彼が門をくぐった先は、アブドロの屋敷すら霞むような大豪邸だった。
※
白亜の壁で周囲と区切られ、門を超えた中は美しい西洋風の庭とアプローチが続いている。
勝手知ったるというように歩くユーリオットさんの、ここは彼の家なのだろうか。私はちょっと猫背になりながらおそるおそるついていく。
正面に見えてきたのは広々とした平屋。漆喰にはしみひとつなく、燦々と輝いている。
その表玄関ではなくユーリオットさんは裏手のほうへ回りこむ。建物から外れて草花が茂るところを歩いていく。
巨大な母屋が区切れた先からはるか遠く、小さな邸のようなこじんまりとした家屋が奥にひっそりと建っている。その邸のまわりにはさらに小さな庭と池まであるようだった。
そしてその小さな邸にたどり着き、ユーリオットさんが扉を開こうとしたとき、母屋のほうから声がかけられた。
「御曹司。また外出を?」
私はびくりと肩をゆらしながら、ユーリオットさんはうんざりしたようにして声のほうを見た。
少し離れたところ、家と家とをつなぐレンガの道の上に、白い簡素な服に身を包んだ壮年の女性が立っている。髪はぴしりと結い上げられ、清潔そうな前掛けはまるで女中の見本のようだった。
「度がすぎれば旦那様にご報告しなければなりません。その旨、どうか心にお留め置きください」
「うるさい。言いつけたければ言えばいい。おれに指図をするな」
「御曹司、そのものは」
女性がちらりと私を見た。まるで中古の電子レンジを品定めするような視線に、私はため息をつきそうになる。好意的に見られるとは思っていないが、最近向けられる視線といえばこういうのばかりだ。
「おまえがおれに付けた女中がな、今朝がた消えていたぞ。おまえの選別眼もまるで進歩しないな? だからおれが自分で拾ってきた」
なるほど、そういうわけで私は拾われたのか。そしてどうやらこの女性は、女中のなかでもかなり上の位にいるらしい。
彼女が付けた下働きが、ユーリオットさんの美貌(この世界では、醜さだったか)に恐れをなして逃げ出したのだろう。
じっさいクレオパトラも裸足で顔を覆いながら逃げ出す美しさなのだ。
「だからこいつはおれのものだ。ゾエ、おまえが指図できると思うな」
ゾエというのがこの奥女中の名前なのだろう。ぴくりと眉を動かしたが、彼女は黙って目礼をした。私に一瞥もくれずに、母屋でもなくこの邸でもなく、さらにその奥――どうやら瀟洒な東屋ともうひとつの別邸がある――のほうへ足音もなく去っていった。
彼女をやり込めて嬉しかったのか、ユーリオットさんは満足げに鼻を鳴らす。
「聞いていたな。おまえはおれが拾ったんだからおれのものて、おれの言うことには従わねばならない。身の回りのことすべておまえに任せるぞ」
「はあ。食事とベッドを与えてくれるならやりますが」
「この邸でおれの世話をしながら暮らせ。部屋は今朝逃げ出した女のところを使えばいい」
「なるほど。炊事洗濯はできますよ」
「は? 裁縫は」
「裁縫」
「なんだ、その情けない声は」
「苦手でして」
「では慣れろ」
命令しなれている。ひとつ間違えば尊大とも取れるのにあまりに堂々としているため、自然と頭を垂れてしまいそうになる。
いい家のお坊ちゃまだったのだろうか。それにしても、あふせんてぃす? じょす・あぶ……? 耳慣れない言葉が多くて混乱する。
ついてこいと言われ、私たちが住む邸を簡単に説明された。放置しないあたりユーリオットさんの真面目さと責任感を感じる。
玄関、リビング、書斎に寝室。どの部屋も、置かれた調度品は重厚で安価なものではないと知れる。
それから台所に、厠、風呂まである!
おっ、お風呂!!
私はお風呂を見て大興奮した。どうやらここでは水が豊富らしい。それも美しい白い石を滑らかに削ったバスタブだ。
風呂場の外を覗き込めば、そこには大きな釜と薪割り小屋のようなものもあった。どうやらお湯を沸かして移し変えるシステムだ。追い炊き式ではない。そういえば古代ローマって追い炊き式の風呂釜まであったんだっけ。ああああどうにかして入りたい。温かいお風呂とかこの世界に来てからこのかた縁がないよ。
さらにこの邸の裏手には、小ぶりながらも井戸があった。ククルージャと同じくアナログに手で汲み上げるようだが、なんとこの邸専用のものだという。井戸ひとつ個人宅に設置するのっていくらかかるんだろう。ブルジョワジー!
鼻息荒くなった私を不気味そうに見て、最後に小間使い用の(つまり私の)部屋を見せてくれた。
六畳ほどの部屋に寝台と机、燭台に椅子。下宿のようなスタイルだが、屋根があって寝れるなら文句はない。
私のその部屋の窓から、木々のすきまの奥に小さな家を見つけた。先ほどゾイさんが向かっていった瀟洒な別邸だろう。
「ユーリオットさん、あの邸はなんですか」
私が指をさした瞬間ユーリオットさんの顔色が確かに変わった。不意に紙で手を切ったときのような渋面が浮かぶ。しかしそれは一瞬のことで、すぐに元どおりの不機嫌そうな顔になった。
「おまえには関係ない。近寄るな」
おまえはこの邸のことだけ回せばいいと言われたので無言でうなずく。
ユーリオットさんはまるで何かの痛みをやり過ごそうとするかのように、じっとその場に立っている。
その沈黙を利用して、私は横目で様子を伺う。
大人だったユーリオットさんと、表情の動かし方はそっくりだ。だいたいいつも不機嫌そうに口は結ばれて眉根も険しい。ただそんな中でも、四人といるときの彼はいくぶん穏やかに見えていた。仕方ないなあというように、あるいは呆れたようにその口もとが緩むときがあった。
けれどいま、この目の前にいる少年はひとりだ。
未来の彼の寛いだ面立ちを知っているだけにやるせないものがあって、私は歯がゆさを覚える。不意に彼がこちらへ顔を向ける。
「どうしておれを見ている」
「み、見る」
「目をそらさないのか」
「そらす?」
「無理をしているのか。気など遣うな、その方が不愉快だ」
「不愉快」
急な話題に私はほとんどおうむ返しだ。いつだったか以前にもこんなことがあったような。
「哀れんでいるのか? テクナトディアボルを」
私は返す言葉を持たない。その意味がわからないのだ。
ユーリオットさんは私の目を見ている。心の底を浚う目だ。隠し事はないか恐怖はないか哀れみはないか。
しかしその分析するかのような瞳は徐々に困惑へと変わっていく。
調理の仕方のわからない野菜でも見たかのように、なげやりに視線を逸らされた。
「奇怪な女め。おかしな拾い物をした」
奇怪! 花も恥らう美少年から言われるとやや悲しいものがある。
ただ本心からというよりは、戸惑いのために出てきた言葉にも思えたので、私は首を傾けてあいまいにうなずいておいた。
ユーリオットさんはそれからリビングへ移動して、私への支払いなども要点を話してくれた。
子どもなのにどうして自由に使えるお金まであるのかとか親御さんはとか別邸のことだとか、気になることはいろいろあったけど、とりあえず話の途中で頭を抱えた。
「なんだ、まさか算術を知らないのか」
「いや……それはまあ、いいんですが」
日本円からアメリカドルにようやく慣れたと思ったら、中国元の登場! といったところか。
ククルージャともビエチアマンとも異なるお金のシステムに私はあえなく撃沈する。
苦痛でしかないその説明の合間に、情けなく鳴る胃の悲鳴が響き渡る。ユーリオットさんは納得がいったようにおもむろにうなずいた。説明を中断し、台所からオレンジや葡萄を持ってきて差し出してくれた。
つやつやと光るみずみずしい果物。私がつばを飲み込む音は、部屋中にこだました。
恥知らずにもがっついた。
衣食足りてなんとやらだ。




