6.身代わりの私と奴隷の主人と
ようやく慣れてきた目に見えたのは、まだ成人してはいないであろう、美しい少女だった。
こんな環境のせいだろう。輪郭はやや丸みが足りないが、繊細な鼻筋とややぽってりとした唇が、バランスよく収まっている。もっとも印象的なのは、完全な対称の双眸だろう。アーモンドの形の瞳と、その虹彩は内側の生命の輝きを反射して、見惚れるほどに美しい。太陽のような、というよりは、日本の月のような冴え冴えとした美貌。どこか、ギィに似ている。
いや、彼の妹なのだ。似ていて当たり前だったか。
「……あなたは」
泣き出す寸前のような声で、ニグラさんが声を押し殺して聞いてくる。悪いが、話をしている時間はない。
ギィは、先ほどの言葉を言えば、すべてに従うだろうと言っていた。私が口を開こうとしたとき、ちょうど身体が膨らみ出す。四分が経ったのだ。
飲んだときとは逆の、細胞のひとつひとつに内側から空気を詰められるような。自転車のタイヤはこういう気持ちかもしれない。空気入れで無理やり膨らまされるという感覚が全身を覆う。不思議なのは見につけている衣服や、たままで一緒に伸縮することだ。細胞というよりも、原子レベルで作用しているのだろうか。とにかく謎だ。
そして普通の大きさに戻った私は、驚いて声を失っているニグラさんに、ちょっと微笑んでみる。
はじめましてなのに、あまり照れはない。ずっとジウォマさんから、彼女の話を聞いていたからだろう。素敵な彼女を自慢したいべた惚れの彼から、この二日の間で、ふたりのなれそめや喧嘩話まで、私は知ってしまっているのだ。可憐な花のようでいて、一本通った筋はけして曲げないのだとも。
だからだろうか、友達の妹に会ったときのような、親愛にも似た気持ち。
私はすばやくローブを脱ぐ。それをニグラさんにすっぽりかぶせ、腰に着けていた巾着から空の小瓶と、用意していた薬を取り出す。
薬を飲むようなしぐさをしてから手渡せば、彼女は心得たようにそれを干した。虜囚とはいえ、鎖などにつながれてはいないことが、せめてもの救いだった。
そのとき、彼女の足の動かし方に違和感を覚えて、スカートのひざ下へ視線を動かす。私は息を呑む。
両方のふくらはぎからひざ裏にかけて、まるで腱を断ち切るかのような大きな傷跡がある。
足が悪い、とは聞いていた。
けれど彼女のそれは、明らかに先天性のものではなかった。
私の視線に気づいたニグラさんは、ちょっと困ったように微笑んだ。やわらかくたわんだ瞳と目が合うと同時に、魔法が効きはじめたとみえて、彼女の身体が縮みだす。
その笑い方に、私は脳天を叩かれたような心地になる。ニグラさんは笑いたくて笑ったのではない。それは、私のための微笑みだった。こんな、この状況で、自分以外の誰かのために微笑めるのか。
そのとき初めて、私はギィがちっとも卑屈ではなかった理由を知る。
ひとは、誰かひとりでいい。その誰かに、きちんと愛されていれば、それで生きていけるのだ。ギィはニグラさんを慈しみ、ニグラさんはギィを慈しんだ。だからふたりとも、こんなに健全な心を持っている。
拓斗と、あの四人が、頭をよぎる。みんなを、抱きしめたいし、抱きしめられたいと、そう思った。
すっかりクリップくらいの大きさにまで縮んだ彼女を、小瓶にそっと入れる。しっかりとふたをして、壁わきの排水溝に、しずかに浮かべる。空気はじゅうぶん、もつはずだ。心配そうに私を見上げる様子に、私も意志の力で微笑んでみる。
すぐに視界から消えた瓶は、やがて城の外に流れ着くだろう。
ジウォマさんが、その小瓶を手にすることを、一日千秋の想いで待ちわびている。
私はひとりきりになった牢獄の中で、静かに大きく、息を吐く。
ひとつ、大きな目的を果たすことはできた。肩の荷もおりるというものだ。
首や肩をぐるぐる回しながら、思い出したようにあたりを見てみる。
思ったよりは広い、六畳くらいの場所である。壁にくっつけるようにして、診察台のような素っ気無い寝台が置かれている。
毛布はすでにほつれていて、寒さを凌ぐことに期待はできそうになかった。せいぜい、くるまって姿をごまかすのに使えるくらいだ。
トイレ代わりだろうか、隅には小さな壷が置かれているが、口のところに木の板と重石が乗っけてあるので、においはない。
こんなところに、ひとりで、十年ちかくも。
私はニグラさんの過去を手探りしそうになったが、こらえる。それは誰も望まないことだろうし、彼女はもうすぐ、自由になる。
さて、あとの私の役割は。と、私はつとめて、明るく考えるように努力した。
あと二日ほど、ばれないようにやり過ごすことではあるが。
今のところは夜の点呼に備えて、毛布にくるまって寝ていることくらいだろうなあ。
看守は相変わらずご就寝。鼠取りの看守は、どうやら苦戦しているようだ。まだ戻ってくる気配はない。
急に、空腹を覚える。きっと、緊張の糸が切れてしまったのだろう。侵入してからどれくらい時間が経ったか、見当もつかないが、人生でもっとも張り詰めていたことには違いない。
大学入試の試験日よりもくたくたである。リラックスモードだ。
スマホがあれば、無料まんがでもチェックするのだが。きっとあったとしても、充電切れだろうなあ。
たまに、しりとりしよう、と言ったが、無視された。私の扱い、どんどんなおざりになっているの、気のせい?
※
それから、浅い眠りと覚醒とを繰り返した。
徹夜してしまったときのような、変なテンションと寒さのせいで、ちっとも深く眠れない。
時間が経つにつれ、じわじわと不安が募っていく。携帯を忘れて、誰かと待ち合わせをしたときのように。
二日後って、どう判断するんだっけ。小さくなる薬、ちゃんとあるかな。私が脱出するとき用の小瓶のふた、漏れはないかな。点呼のとき、ばれないかな。
さっきまでちっとも気にならなかったのに、人間って不思議。今はつばを飲み込む音だけでも、身代わりだとばれてしまうような心地になっている。
それでも、できることなど何もないので、仕方なしに硬く狭い寝台の上で、毛布に包まり続けた。
――どれだけ、時間が経っただろう。
ただひたすらに薄暗く狭いところ。こんなところで、十年以上を過ごして、どうしてニグラさんは微笑むことができたのだろう。
私は、考えないようにしていたことに加速していく思考を、止められないでいる。あの四人には、きちんとブレーキをかけれていたけど、この極限の状況だからだろうか、自分を制御できない。
微笑んだ、ニグラさん。家族の愛が、あったからだろうか。そうだとしたら、私の知る家族とはまったくの別物だ。
私の家は裕福でも貧乏でもない、ほんとうに普通の家庭だ。父も母も、最低限のことを私にしてくれたが、とりわけ深く愛した、ということは、なかったように思う。
高校生のとき、急性胃腸炎で入院をした。そのときも、自己管理を徹底しなさいと説教をくれた。
つまり、手間をかけさせるな、ということが大前提にあるのだ。
行きたい高校、大学へも行かせてくれた。一人暮らしも。けど、そこには完全な意味での自立が求められた。迷惑をかけることは、何よりも許されないことのひとつだった。
そこに悲しみや怒りはなかった。家族というのはそれぞれ形が異なり、自分で選べるものではない。それが我が家の決まりならば、そのルールを飲み込んでやっていくしかないのだから。
言いたいことを言い、泣き言を吐けるのは、拓斗がはじめてだった。
たま、と呼びかける。たまには家族はいるのだろうか?
しかし何度呼んでも、たまからの返事はない。
私は不思議に思って、呼びかけ続ける。だんだん、様子がおかしいことに気づく。こんなに呼びかけてひとつも返事がないことなど、いままでなかった。
たまも、病気になるのかな。どうしよう。どうして普段、たまのことをもっと聞いておかなかったのだろう。
たま、たま――そう呼びかけたとき、入り口のほうに高い靴音が響く。
まるでヒールで歩くようなその音は、規則正しく階段を下りてくる。
私は左腕のたまを右手でぎゅっと握り、毛布を被りなおして身を縮める。看守の交代だろうか? いや、看守はのっぺりとした底のブーツだ。こんな音が、するはずがない。
まさか。いや、ありえない。そう思っていると、最悪の状況が近づいていることに気づく。
「これは、アブドロ様。いったいどうして、こんなところへ」
足音が、とうとう檻の前まで来た。見張りの看守が直立不動になった音。
「なに。たまには主人の顔を拝ませてやろうと思ったまで」
なあ、ニグラ。
悪魔のように美しい声が、私の心臓を凍らせた。
これって、万事休すってやつ?




