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5.侵入

 最初のハプニングが嘘のように、それ以後の予定は順調だった。


 城の内部は、裏口から入ったからかすぐに狭い廊下になっていた。両脇に小部屋がいくつも連なっている。

 床にはやや褪せた色のじゅうたんが敷かれている。色は落ちているものの、かつてはさぞかしいいものだったのだろうという高級感がある。毛足が長くて均一なのだ。

 人目につくところで使われていたものが劣化して、ここに回されたのかもしれない。


 壁や天井は外壁と同じく石造りで、ところどころに蝋燭が灯されている。夜の学校の廊下のようだ。非常口の灯かりや外の街灯が反射して、よそよそしく仄暗ほのぐらい空間を思い出す。


 ギィは音もなく歩き出す。狩りに出る黒豹のようだった。一片いっぺんの迷いもなく廊下を進んでいく。


 私は彼のうなじのあたりを見つめながら、ただひたすら足音に気をつけてついていく。

 ギィは内部の様子を知っているし、シュミレーションを入念にしていないはずがない。手持ちの札でぎりぎりまで確実に手の内にするタイプなので、現代にいたら投資とか株とかで手堅く部類かもしれない。


 私はギィの背中だけを見て、どんどん城の奥深くへ進んでいった。


 ときどき見回りの兵のようなものもいたが、あくまで一個人の住宅だ。それほど警戒もしていなければ緊張感もない。

 工事現場のやる気のない誘導員のような印象だ。

 もちろん何かあればどこかから本格的な兵士は駆けつけてくるのだろうけど。


 うっかり見回りと鉢合わせしそうになると、ギィは手近な部屋へ身を潜めてやり過ごした。背中に隠れながらその横顔を後ろから見る。時おり動くのど仏を見て、彼も少なからず緊張しているのだとようやく知る。


 時間の感覚が鈍くなってきたころ、ようやく地下へと続く階段が前方に見えてきた。


 ギィは振り向いて私を見ると、わずかにうなずく。

 彼のその目に浮かんでいるのは、よく訓練された狩猟犬のような静かな闘志だったかもしれない。私はつばを飲み込んでうなずき返す。

 先ほどからずっとつばを飲んでいる気がする。うまく呼吸ができないのだ。

 見ると手が小刻みに震えている。驚いて両手を包むようにさすってみると、氷のような冷たい。


 ギィはそれを見て瞬いた。一瞬の間のあとで私の手を取る。

 不思議に思う間もなく、そのまま口元へ運ばれる。私の目を覗き込みながら、あろうことか右手の親指を口に含んだ。

 驚くほどの熱さと、他人の粘膜のやわらかさに反射的に手を引こうとする。

 手首を強く掴まれ、それを戒められる。かすかな音を立てながら今度は手首を舐め上げる。その間も私から目を離そうとしない。


 なん、なにが、どうなって、と思ったとき、腕輪のたまが急に熱を発した。

 一瞬のかすかな光だ。ギィは思わぬ反撃を受けたように手を離す。たまが、まだだ、とそう呟いた気がした。たまはここのところずっと眠っているようだったので、久々の能動的な動きにちょっと驚く。それにもまして「まだ」という言葉はどういう意味だろう。


 とにかく私は我に返った。こんなときにからかうなんてとギィをにらみあげたが、ギィは笑ってはいなかった。

 出会ったときと同じような、この世のすべてに興味がないような渇いた瞳で私を見ていた。

 違うのはその奥にある仄暗い光だ。そこには矛盾に似たものがある。私をどこかへ追いやりたいようにも見えるし、閉じ込めたいようにも見える。なんにしろその視線の意味は、私にはわからないかった。

 まがりなりにも社会人生活をしてきた中で、色めいた視線や言葉には対応できる。大人たちの恋愛ゲームにはついていけるほどではないが、鈍感な女なんて結局のところいないのだ。しかしギィのそれが男女の秋波かと言われれば、違うと断言できる。もっと苛烈な何か。

 

 ギィはゆっくりとそういう色消す。すっかり落ち着いた私の目を検分するように一瞥して、地下を眼で示した。

 私は大きく深呼吸をして、しっかりとうなずく。たまはすでに沈黙の中に潜っている。


 ギィは腰から小石を取り出した。それから子ねずみも。その存在にぎょっとしたが、ねずみは魔法でもかけられたように、じっとしてギィに従っている。

 彼は左手に握った小石を思い切り廊下の壁に投げつけた。


「何だ?」


 地下から呟きが響いて上まで届く。それから足音。こちらへ来て音の出所を確かめようとしている。

 私は階段からは見えない廊下に身を隠す。ギィは反対に階段を上ってきたらすぐに目のつく廊下へと歩いていく。


「なんだ、貴様か」

「なんだとはずいぶんだ。たったいま仕事を終えて帰城した男に向かって」

「畜生以下の仕事だろう。貴様には似合いだ」


 せせら笑う看守とギィは顔見知りのようだった。もちろん友好的とは程遠い。

 私は壁に顔をこすり付けて、見えないようにしながらも耳をそばだてる。


「ところで音がした。常ではない変な音だった」

「俺には関係ないな」

「まあ、そうだが……おい、あそこにいるのはまさかケチュアか?」


 急にあわてたような声音になる。鼠いっぴきにどうしてそんなに焦るのだろう。


「ああ、一匹見たら百匹いるというケチュアだな」

「ふざけるな、どうして城にいる。アブドロ様に見つかったら勤務時間もへったくれもなく城中を駆除にあてさせられるんだぞ」

「さっきも言ったが、俺には関係ない」


 唾棄すべき烙印奴隷スティグマートめ! と言って看守は鼠を捕獲しようと走っていく。

 なんだろう。城の主人が毛嫌いしているって話なの? だとしたらずいぶんかわいらしい話だとも思ったが、備蓄しているものを百匹単位で食い荒らされるとなると、管理者からすればすさまじい害獣ではあるのかもしれない。


 とにかくこれで一人は追っ払えた。


 あとは地下にもう一人いるはずだ。


 私は打ち合わせどおり、ギィに与えられた薬を取り出す。


 効果はおよそ240秒。つまり四分ほど。


 不思議の国の少女のように、いっちょ小さくなってみましょうか。







 私の警戒心と不安感はまったく無意味だった。もう一人の看守は鉄の檻の前で気持ちよさそうに眠っていた。


 私はいま、携帯電話くらいの大きさに縮んでいる。檻を通過するためだ。

 檻の鍵は常に主人であるアブドロが常に携帯していて、どうやっても手に入れることはできないのだ。


 大いびきをかいているおかげで、特に緊張もせずに檻に入ることができた。このサイズだと檻の一本いっぽんがまるで黒々とした電柱のように思える。石造りの床のでこぼこが思った以上に大きく、とても歩きづらい。


 窓もなく光もない。地下牢の入り口にひとつ蝋燭が灯っているだけで、慣れないとどこに何があるかわからない。

 きっと昼間でも本なんて読めないような暗さだ。


 こんなところに、年端もいかない少女を閉じ込め続けるなんて。


 私は一歩ずつ足元を確かめるようにして進んだ。今の私の歩幅はせいぜい消しゴム一個ぶんだ。ぜんぜん進んでいる気がしない。


 それでも、暗がりの奥には少女がいるはずだった。

 私が来るなんてことはまったく知らない少女。兄ともずっと会えていない少女。私に驚いて声でも上げられたら一巻の終わりだ。


 ギィに教わった言葉を、私は慎重に口にのせる。


毛長牛けながうし夜渡花よわたりばなを食べるだろうか?」


 私にとっては、ちんぷんかんぷんの言葉の羅列。しかし暗闇の奥、静寂に身を潜めながら歓喜に震える呼吸を、確かに聞いた。


「――答えは、いいえ。なぜなら牛は、花に恋した」


 笛の楽器のように美しく細い声が、嗚咽をこらえるように震えて答えた。

 場違いにも久々の女の子のかわいらしい声を聞いて、私は心に清涼剤を散布された気がした。


 やはり野郎どもより女子がいい。それは誰だって同じなのである。


 そうか? というたまの声に大きくうなずく。そうなのだ。






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