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9.魔獣と暗器使い

 ギィの主人がいるという町、ビエチアマンまであと数日になった。


 天候が良ければ夜通し走り、明日着けるかもしれないとギィは言う。思えば彼に拾ってもらってから、一週間以上は経っていた。たしかにそろそろ着いてもいいころだ。

 朝食を取りながらギィは空を見上げた。今はからっと晴れ渡り、いやになるほど透き通った青空が広がっている。

 しかし油断はできない。いい天気だなあと呟いて伸びをした後には、前方の山には雲ができていたりするのだ。緩やかな山越えはしてきたが、今日が最後の大きな山越えだ。天候の変わりやすさは、今までの比ではないだろう。


 朝食を作った火をそのままに、私は手早く携帯食も用意する。ジャガイモの芽をくり貫いて茹で、乾燥させた肉も湯で戻す。塩をほんのすこし振って、凍り付いてしまわないようにやわらかい麻布で幾重にも包む。

 それから、籐のような植物で編まれた籠へ入れておく。こうすれば、籠ごとギィに手渡せる。ギィはトナカイを操縦しながら、膝の上の籠から食べることができるのだ。

 私用のジャガイモには、塩だけでなく胡椒もふりかける。生肉の保存のために携帯はしているものの、ギィは胡椒が苦手なのだ。

 

「できれば、今夜は休まず走って、明日には着きたい」


 ギィがそんなふうに内心を言うのは珍しい。何か気になることでもあるのだろうか。

 一刻もはやく、ビエチアマンに着きたいという彼の気持ちが、ここ数日でさらに強まっている気がする。

 晴れるといいが、と彼が呟いたので、私は胸を張る。


「てるてる坊主なら、お任せを」


 ギィにもたまにも無視されることが増えてきたが、私はめげない。





 布で作られたリサイクル可能なてるてる坊主をぶら下げて、吹雪の中をそりは進む。役目を果たせなかったてるてる坊主は、いくぶんばつが悪そうに見える。


 時刻はすでに、真夜中をすぎただろうか。

 最後の山越え、というだけあって、道なき道を進んでいく。私のよく知る「山」とは、それこそ木々がみっちり生えているものだが、ここでは違う。いわゆる、ヒマラヤとかああいう、本物の山岳といったところか。ぽつぽつ生えていた木々も、育つことを諦めたようにその姿を消している。スキー場から林を取り去った風景みたいだ。

 さすがのギィも、何度も通ったことがあるとはいえ、車三台分先はまっしろという状況ではどうにもできない。

 

 夜なのに眩しい。これは人生で体験したことがない、不思議な状態だ。

 月明かりに照らされた雪が白い光を反射して、吹きすさぶ雪がちかちかと羽虫のように行きかうのだ。もっと穏やかでピンク色だったら、夜桜とも思えたかもしれないが。


 ギィが諦めたように、手綱を下ろしたとき、たまが鋭く叫んだ。


(小娘。何か来る――善くないものだ。注意しろ!)


 よくないもの? と思ったとき、目の前に銀色の刀のようなものが見えて、反射的に身を縮めた。

 なに、と思い顔を上げると、そこに浮かんでいたのは。


 山手線の電車、一両ぶんはあろうかという大きさの、巨大なトンボだった。


 ビックライトでこれでもかと大きくしただけではない。その複眼はおぞましいほどの数が張り出していて、のっぺりとした緑色だ。羽の部分は私のよく知る、薄い透明な形状ではなく、黒っぽい皮が張られている。まるでこうもりのよう。腹部は黄色、蛇のように蛇腹に割れ、その末端、お尻のあたりにはムカデのような、もう一つの口もある。

 顔には顔で口がついている。カマキリのように鋭い牙があり、口周りからは茶色い、バッタが出すような色の液を吹いている。触覚らしきものは綱引きの綱よりもなお太い。それが絶え間なくうごめき、まるでそこで何かを感知しようとしているかのようだ。とにかく、大きい。


 意味がわからない、と硬直する私は、次の瞬間思い切り蹴飛ばされた。その勢いのままそりから転がる。雪に埋もれながらも顔を上げれば、私が座っていた部分の木材が、おおきく抉り取られている様子が見えた。ギィが蹴飛ばしてくれなかったら、と思うと、一瞬で血の気が引いた。


(小娘、そのまま身を低くして雪にもぐっていろ! 可能な限り、動くな。あいつは視認もするが、基本的には熱に反応する)


 というか、動けと言われても動けないに違いなかった。喰われる、という、根源的な動物としての恐怖に支配され、私はどこの筋肉も動かせない。


「ギィは」


 ようやく呟けた声は、まるで他人のもののように聞こえる。


烙印奴隷スティグマートだろう。暗器あんき使いの腕前でも、拝見しようじゃないか)


 そんな余裕ぶったことを言って、と思うが、私にはなすすべはない。

 ギィはそりの向こう側で、私に背を向けるようなかたちで立っていた。その背中も、吹雪のせいでけっこうかすんで見える。

 やや腰を落として巨大トンボと対峙しているが、相手はその胴体部分だけでも一車両ほどの大きさだ。牙だけでも、サーフボードくらいの長さがあるし、複眼に至っては、大人が大の字に広げたくらいはある。どう考えても無茶だ。


 ただただ静観するしかなかった。すると、ギィはゆっくりと左手を動かすのが見えた。懐へ、その手を差し込んだようだった。(ちなみに、彼は左利きだ)

 巨大トンボは液を噴きながら、いつでも襲いかかれるように上下運動をしている。まるでヘリコプターのホバリングだ。

 そして一気にその口を開き、ギィがに向かって喰らいついていった。ギィは左側へ跳んで回避する。一瞬前まで彼が立っていた足場が、土ごとショベルカーでほじくったようにえぐられた。白銀一色の世界に、久々にほかの色を見た。大地の土色。

 巨大トンボの側面が視界に写る。横から見ても、やはりそうとうの長さがある。

 頭部から生える触角は執念深く蠢き、今にも私の存在に気づきそうだ。


 ギィはその巨体に遮られ、まったく見ることができない。無事だといいが――と思ったとき、急に目の前に灰色の煙が立ち込めた。

 まるでドライアイスがあふれるような速さで、そりや私を包み込み、ついには巨大なトンボの身体に至り、視界は灰一色。文字通りなにも見ることができない。

 目に染みたりはしないが、とにかく視覚を奪われた状態で、私はただただ縮こまってむせ込んだ。


 そのときだ。身の毛もよだつようなおたけびが、あたりに響き渡った。


 反射的に耳をふさぐ。灰色の煙を追い払うように、巨大トンボは雪の上に落下した。


 何が起こったのかわからないままの私は、ただ呆然と巨大トンボの姿を眺めるしかなかった。

 吹雪がほんのすこし、弱まって、その巨大トンボの背中が見えたとき、私は理解した。


 その羽の付け根が、ぐちゃぐちゃになり緑色の粘液が流れ出ている。完膚なきまでに破壊されているのだ。包丁か何かで、ただただその破壊を目的としてえぐられ続けたのだろう。

 これではとうてい、飛ぶことはできない。

 私はおそるおそる上体を起こし、そりに身を寄せる。巨大トンボの奥に立っているだろうギィを覗き込んだ。


 左手に、何か光るものを持っている。目を凝らしてしばらくして、ようやく、それが鋭利な針のようなものだとわかった。


「うかつに近づくな。この図体だ。毒がまわりきるまでは、まだしばらくかかる」


 ギィが、渇いた声で忠告した。

 暗器使いとは、言いえて妙ではないか。


 彼はその懐に、煙玉から短刀、そして毒針にいたるまであらゆる武器を忍ばせていたのだ。 





(ポチュニトスという寒冷地に棲息する魔獣の、亜種だな。本家は、もう一回り身体が大きい)


 これより大きいっていうの? というか、これが魔獣。はじめてみた。

 ククルージャにいたとき、四人は魔獣から街を守るのが仕事だったけど、実物を見たことはもちろんない。

 しかも、いろんな種類の魔獣がいるのだろう。こんな危険な仕事を、いつも文句ひとつ言わずにまっとうしていたというのか。


 私は四人のことを考えて、ふと心が熱くなった。

 人としての尊厳を何度となく踏みにじられながらも、彼らは彼らにできることを丁寧に完遂していた。その尊さと、いまだ傷つき続けている心のやわらかさを思って、私は叶うことなら今すぐ、抱きつきたい気持ちになった。


 そりにつかまりながら、立ち上がろうとした。そのとき、雪のきしむ音がした。


 馬鹿、と叫ばれたとき、私は再び雪の上に転がっていた。

 目を開けるとそこには誰かのうなじと、それから夜空とが見えた。


 ギィに抱き込まれている。目だけを動かしてまわりを見ると、巨大トンボがその腹の先を鞭のようにしならせて、最後の攻撃をしたことがわかった。


「――あんた、いったいどう生きてきた? くたばりかけの獣の前で不用意に動くとは」


 苦々しさと、怒りと苛立ち。ギィは本気で怒っていた。

 私は謝るべきかお礼を言うべきかわからなくなって、そして何も言えない自分がいやになった。

 きっと、この世界では常識なのだろう。でも私は、本当に何も知らないのだ。私のせいではない。だから、落ち込んだり恥じることではないのだけれど、そのせいでギィに迷惑をかけてしまったのだと思うと、やりきれなくなった。それに、たまだって、熱以外にも反応すると忠告してくれていたのに。


「ごめんなさい。ごめんなさい、ギィ」


 悔しさからか、目の奥がじんと熱くなってしまう。泣くもんか。私は絶対に、泣かない。

 まっすぐギィの瞳を見て、謝罪する。しばらくそのまま見詰め合うと、ギィの苛立った表情は、しだいに困惑へと変わっていった。


(小娘、身体に触れさせるな)


 たまの声で、我に返る。

 そうだ、見かけと声は男にしてくれているが、触られたらごまかせない。


「本当に! ごめんなさい。ものを知らなくて、自分でもいやになるんだけど」


 そう言いながら、ぐいぐいとギィの身体を押しのける。細く見えるが、その腕は鋼のように力強い。そのまま、さらに力を込めて抱きしめられる。ともすると恋人への抱擁のようにも感じられ、私は慌てて身をよじる。ギィの身体の下からずりずりと這い出てみる。立ち上がろうとしたところで、足払いをかけられて再度すっころんだ。

 何をする、と抗議しようとしたところで、今までにない真剣な表情のギィと向かい合う。


「な、何ですか」

「確かめたくてな」

「と言いますと」

「あんたの身体」

「こっ、この前ひん剥いてその目で見てたじゃないですか!」

「そうだったな。もう一回」

「いやです」

「拒絶する権利があるとでも?」


 たしかに、命を何度も救われている。


「――じゃあ! 触らないなら、いいですよ。しかも、ちょっと離れて見るなら」

「男のくせに、いやにもったいぶるな」

「慎み深い民族なもので――ほら、男!」


 私はいそいそと距離を取り、ちびっこがワンピースをめくりあげるような要領で、ぐわっと上衣をめくって見せた。わりとやけっぱちである。

 男に見えているとはいえ、これってまるで痴女のようでは? 女としての慎みとはなんだったか。しかも、さっ、寒い!

 震えながらギィの様子を伺うと、苦虫を噛み潰したような表情で、ゆっくりとうなずいた。


「見れば見るほど貧弱だ。悪かったな」


 いいけどね。いいんだけど!

 腑に落ちない!!

 



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