転/第百十四話:(タイトル未定)
「これは、よろしくないな……」
「そろそろ、気がついてくれんかの」
額から頭頂部にかけてを優しくなでられた触感と一緒に、
「さすがに私も、脚がしびれてきたぞ」
そんな“温もり/柔らかさ”ある溜め息の混じった音声が、耳に届いた。
いまの言葉と、後頭部の触感からして、どうやら膝枕をしてもらっているようだ。
ゆっくりと目を開く。ほぼすぱっとさえぎるモノなく、こちらを様子をうかがう知っているお顔を発見した。くりくりの蒼眼に、いまは少々困ったというふうに尻の下がった太めの眉。ぱっつんの艶やかな黒の前髪が、さらりとそよ風に流れる。
「キチさんの膝枕が快適なもので、つい」
目が合ったところで、挨拶の代わりに事実を述べてみた。
「起きたらもったいないかなって」
「はははっ。“いっちゃん”がそれを耳にしたら、末永く寝っぱなしになるぞ。お前さん」
キチさんはこちらの額をペチペチと打ち鳴らしながら愉快そうに笑い、
「ま、“ここ”から帰らないと、本当にそうなってしまうのだがの」
最後にペチンとひとつ大きく打ち鳴らして、そう言うてきた。
冗談を口にしているふうだが。どうしてだろう、そこはかとなく深刻さが感ぜられる。
あるいは、キチさんのお顔、その後方に広がる空が、晴れそうにない不気味な曇天だったから、その演出効果でそんなふうに受け取ってしまったのかもしれない。
……というか、なぜに空?
「“ここ”は……」
上体を起こして、周囲を見回し
「…………どこですか、”ここ”」
理解が追いつかず、わけがわからなくなった。
「うーん、お前さんの故郷で言うところの……」
キチさんは腕を組み、思い出すというより、翻訳に悩むヒトの表情を浮かべること少し、
「あ、あれだ。いわゆる“三途の川”ぞ」
ぽんっと柏手をひとつ打ち鳴らして、じつにあっさりとそんなことをおっしゃった。
「……いや、んぬー、その川辺だから、“賽の河原”と言うたほうが正しいのかのう」
その、“さいの/賽の”なんたらは、いまいちピンと来ないけれども、
「マジですか」
さすがに、とてつもなく有名な“その川”のことは知っている。
「てことは、オレ……」
「うぬっ、ほぼ死んどるのっ」
「そんな、はつらつと言わないでくださいよ」
普通なら当たり前のように冗談と受け取る“お知らせ”だけれども、周囲に広がる“光景/風景”が圧倒的な説得力を静かに発揮しており、もう真に受けるしかなかった。
「“ほぼ”と言うたろうよ、お前さん。だから、悲嘆することはないのだぞっ」
「ないのだぞっ、と言われましても……」
「単純なことだろう、起きればよいだけなのだからな。ま、お前さんが、“起きたらもったいない”と言うのなら、ちと“話/事情”は変わってくるがのう」
「“三途の”じゃない河原で膝枕をしてもらったらに限定しよう――って、決心していたところです。“もったいない”って思うの」
「ほう、それはよかった。なら、あとは起きるだけだぞっ」
「うーん、これでも、ばっちり起きてるつもりなんですけどね。……そんなに寝てるふうですか、オレ? うっかり、いつの間にか、“寝言で会話する技術”を会得しちゃっていなければですけど」
「ぬ、なかなか、的を射たことを言う。ま、射られた的は、お前さんのほうだったがの」
「え、射られた?」
「ん、なんぞ、その反応。……んん? もしかしてお前さん、忘れとるのか」
「なにをですか」
「矢を受けたことぞ。“いっちゃん”をかばって左肩にもらっておったろうよ」
キチさんは、自身の左肩をトントンと指差しておっしゃった。
それを耳にしたとたん、妙な息苦しさに襲われた。根拠のない確信めいたモノが頭の片隅で諸手を上げて「その通り」と自己主張していたが、気づかなかったことにして、
「ひだり……」
話題の部位に、確かめるための意を向ける。
そこには“突き立つ棒”が――
「あれ?」
――なかった。“そのモノ”どころか、あったという“痕跡/形跡”もない。
自己主張していた“確信めいたモノ”に、違ってたじゃあないかと迫ろうとしたらば、
「うっぐ……あ、れ?」
急に、左肩のあたりがズキズキとジンジンと内側から痛くなりだした。
大声を上げるほどの強烈さはないが、これだと仮に“もったいない”と思っても、すんなりと寝付くことは極めて困難だろう。そんな、地味だが、とてもイヤな苦痛である。
しかし、痛みは確かにあるのに、痛む部分にはそれらしい傷などは見られず。覚悟を決めて右の手で触れてみたが、やはりそれらしい触感はなかった。
ただ、苦痛だけがそこにある。
「むん? あ、すまぬ。“意識/認識”させたせいで、いまはいらぬ痛みまで呼び戻してしまったようだの」
「いえ、おかげで、いろいろ思い出しました」
強がりでもなんでもなく。左肩の痛みから芋づる式に、記憶に鮮明さが戻ってきた。というか、なんでキチさんに言われるまで、記憶がぼやっとしていたのだろう……。
いや、まま、それはそれとして。
「まさか、肩に矢を受けて、あの世に逝くとは思っていませんでした」
「そりゃあ、お前さん。切っ先に、即効性のある猛毒が塗られてあったのだ。そうそう耐えられるものじゃあないさ。――あ、あと、訂正させてもらうぞっ。ほぼ逝きかけているだけで、まだ逝ってはいないからのっ。ここ、重要ぞっ」
「猛毒ですか……」
「うん。だが、安心してよいぞ。場を収めたあとで、シノが解毒剤をゆずってくれたからの。それと“いっちゃん”の適切な処置もあって、お前さんの“身体は”しっかりと生命活動をしておるよ」
「あ、壱さん、無事なんです――よね?」
「お前さんと襲ってきた野郎共、以外は皆、ピンピンしとるよ」
「よかった。……あとはオレが起きるだけ、ですか」
「うぬ、そうだぞっ」
なるほど。じゃあ、とっとと起きよう。
「……起きるのが、こんなに難しいことだとは思いませんでしたよ。ははっ……どうしたら起きられるのか、さっぱりです」
「だからの、お前さんよ。私がこうして、“ここ”におるんだろうさ」
「ありがとうございま……キチさん、どうして“ここ”にいるんですか。そういえば」
「お前さんの耳は、えっらく風通しがよいのう。反対側の耳の穴をふさいで、ちゃんと聞いとくれよ。まったく。私はのっ、お前さんを起こすため“ここ”におるのだ」
「それは、本当に、ありがとうございます――ただ、あの、お訊ねしたいのは、そこではなくてですね」
「ぬん? なんぞう。私の艶やかな魅力が溢るる“ぼでー”のことかのっ?」
「オレが“ここ”にいるのは、ほぼ死んでいるからなわけで。……まさか、キチさんも」
「ふーん、そうか、そっちか」
キチさんは尖らせた口をもにょもにょと動かしてから、チラリとこちらを見やり、
「そんな顔をしないでおくれよ、お前さん」
困ったふうな微笑みを浮かべて、そう口にした――と思った転瞬、
「安心せいっ」
振り抜いた手で、我が背をべチッと打ち鳴らし、
「お前さんを追って死に急ぐほど、私はロマンチストじゃあないからのっ」
まるで愉快な小話を語り聞かせるように、呵々とおっしゃった。
「そうですか、よかった。……でも、だとしたら、どうやって“ここ”に」
「気にするな――と言うても、お前さんは気にしちゃうよのう」
軽く腕を組み、むむむと眉根を寄せ、「ぬーんむ」と唸ってからキチさんは、
「あれだ、あー、うー、そのう……、魔法的なあれそれじゃあダメかのっ?」
ふわっとした説明を、ふわっと投げてきなさった。
「え、いや、べつに、ダメってことはないですけど……」
いまの言い回しだと、他に正しいのがあるように聞こえてしまう。
「なんぞう、納得いっとらんと言いたげな顔だの」
「いえ、そういうつもりはないですけど。実際、どうなのかなぁ――って興味はあります」
「ぬー、好奇心旺盛なのは、ヒトの子として悪くはない。――が、めんどいのう」
キチさんは自らの後頭部をなでつつ、困ったふうに微笑み、言うた。
「……もしかして、最後のが本音ですか」
「ぐ、うー、わかった、わかった。語ってやるさ。しかし、なんと言おうかの。うーんむ、“ここ/三途の川”でお前さんを相手にするときも、“あちら/現世”でお前さんを相手にするときも、私の存在位置は変わっておらんのだ。“次元/世界”の規模で俯瞰できる位置に存在しておる、とでも言おうかの。だから、“ここ/三途の川”も、“あちら/現世”も、お前さんらにとっては途方もなく離れたところにあるモノだろうが、私にとっては“意/視点”を“向ける/動かす”程度の位置関係――」
キチさんは右の手の人差し指と中指を立ててピースにして、
「――この人差し指から中指に“意/視点”を“向ける/動かす”程度のことでしかないなくわけさ。なおかつ――」
左の手で、右の人差し指と中指にそれぞれ触れ、
「――こんなかんじでの、干渉するのも容易いことなんぞい。私にとってはな」
と、己が指をにぎにぎしながら、諸々のことを教えてくださった。
「どうかの。少しはわかったかいの、お前さんよ」
「…………なるほどっ。魔法的なあれそれということですね」
「うぬ、まあ、そういうことだの」
なんとも言えない清々しい笑みを浮かべてキチさんは、グーパンチをトンッと我が肩に打ってきた。ちなみに、打たれたのは、苦痛がないほうの肩である。
教えていただいたことは、いまいち正しくのみ込めなかったけれども。そんなことより、そんなことをペロッと教えてくださる目の前のお方が、いっそう謎で、より気になった。
「なんぞう、じとりと見つめたりして。……そんなに痛かったか? いまの」
「え、いえ、とくには。まあ、“地味なの”が反対で自己主張してはいますけどね。はは」
「そうか。……無理しとらんかいの?」
キチさんはどこか申し訳なさそうに、チラリとこちらをうかがってきなさった。
「しとらんですよ」
しゅんとしてしまった表情を「わはっ」と華やがせられるような、そんな愉快で巧みな話術は心得ていない、オレである。なので、
「さって! それはそれとしてっ!」
パンッと柏手をひとつ大きく打ち鳴らして、勢いで話題を変更することにした。
「お、おおうっ?」
キチさんは肩をビクッと震わせ、
「なんぞう。どした」
猫だましを喰らったヒトの表情でお目々をパチクリさせて、訊いてきた。
「いや、そろそろ、起きるために行動しようかと思いまして」
「ぬ、そうか」
「キチさんとお話しを楽しむなら、“ここ/三途の川”より宿屋のほうがいいですからね」
「お茶とお菓子も用意できるの」
「お、いいですね。ようかんと日本茶が恋しいです」
「んー、確か、似たようなモノがあったと思うぞ。お前さんと出逢うまえの……いつだったか、旅の道中で“いっちゃん”が味わっていた。“それっぱいモノ”を」
「そうなんですか? じゃあ、起きたら開口一番、壱さんにお訪ねするとしますか。食べ物のことなら、憶えていらっしゃるでしょうし」
「うん、そうしてあげておくれよ。気分転換になるだろうからさ」
「――で、そうするためにオレは、これからどうしたらよいのでしょう。やっぱり、川から離れるように、“あっちのほう”へ進んで行ったほうがよいんですかね?」
川の反対側、どうしてか果てが認識できない陸地のほうを指差して訊いてみた。
「うん? いんやあ、“そっちのほう”へ進むと本格的に“逝ってしまう”ぞ。お前さんは一度、成仏して、来世で起きるつもりなのか」
「まさか、そんなに気長じゃあないですよ。ただ、川を渡っちゃったらダメかなと思ったので、だったら“あっち”かなぁ、と」
「ぬん? どうやら、お前さんは現状を誤って認識しているようだな」
「……と、申しますと?」
「川は渡っちゃっておるんだな、これが。もう、とっくに」
「…………うんっ? ――と、申しますと?」
「“ここ”は“入り口”や“境界”ではなく、いわゆる“あの世”だ。さっき、そう言うたろうよ。ぬん? もしかして、“認識/意味”の翻訳を違えちゃったかの」
「いえ、たぶん、きっと、オレが物事を知らないだけです」
お話の流れからして、“賽の河原”が“そういう意”だったのだろう。
「そんなことより、キチさん」
「うん?」
「“あの世”と“この世”の境を越えちゃっているのに、起きられるんでしょうか、オレ」
世界の理からして、もうなんかダメじゃあなかろうか。
「どうして私が“ここ”におるよ、お前さん」
「……オレを、起こしてくれようとして」
「そうだぞっ。だから、お前さんは起きられる。そも、わざわざウソを言いに、“こんなところ”まで出向くわけなかろうて」
「その、すみません。べつに、キチさんを疑っているとかじゃないんです。ただ――」
「怖くなってきちゃった、かの?」
「……はい」
現在位置が“あの世”と聞いて、うっかり自分の“死”をより意識してしまった。
「ま、それが普通ぞ。取り乱さず、己を保っているだけ、お前さんはすごいよ」
取り乱さなかったのは、キチさんがいてくれたからだ。ひとりだったら、わからない。
「ただ、ひとつ言わせてもらうとな。お前さんが自らの“死”を意識して恐れを懐いたように、お前さんの“死”を意識して恐れを懐いた子がおってな。その子は、いまもお前さんの隣で、どうにか己を保って、お前さんが起きるのを待っているんだよ。だから――」
「まごまごしてないで、とっとと起きなきゃ――ですね」
キチさんに言われて、どうしてか当たり前のように“ひとり”の姿が心に浮かんだ。そうしたら、これまたどうしてだか、“こんなところ”でのんびりしている場合じゃあないと、胸の内から湧いてきた“なにか”が背中を強烈に押してきた。
帰らなきゃ、と。
述べておいて自分でも、この突如として湧いた“やる気/行動意思”について説明できない。そもそも、よくわかっていない。けれども、そんなことはどうでもいい。
「帰りましょうっ」
「ん、おおう、そだな」
「――で、キチさん。具体的にオレは、どうすればよいのでしょうか」
「なあに簡単なこと――ではないが、お前さんならどうにかかるだろう。まずは、そこな川辺に、水面に触れない程度の近さで立っとくれ。川のほうを向いてな」
「はい」
言われた通りに、陸地と水面の境目を気にしつつ川辺に立つ。
川の水はなかなか透明度が高く、わりとくっきり川の底が見えた。少なくともこの辺りは、足首が浸かるほどの深さしかないようだ。
それから改めて、というか初めて、“三途の川”の全容へまともに意をやった。よく知る“いわゆる川”なら、それなりに川幅があっても対岸は見えるものだ。けれども、いま目の前にある“三途の川”は、当然のように“いわゆる川”とは異なっており、対岸を見ることがまったくできなかった。感覚としては、大海を眺めているときのそれである。潮のにおいがしないところにやっと、川っぽさを懐ける――気がする。
「じゃあ、お前さんよ」
キチさんの気さくさある音声が耳に届き、
「また、な」
背中が、優しく、けれども力強く押された。
「えっ?」
まったくの不意打ちで、なおかつ水面に触れるなと言われていたこともあり、踏ん張るための足を前方にやるのをためらってしまい――結果、驚き振り返る間もなく、つんのめるようにして水面のほうへ倒れてしまった。
反射的に突き出した両の手は、しかしなかなかどうして“すぐそこにある川の底”にぶつからず。手の先から腕、ついには顔面が水面にのまれ――
転瞬、浮遊感が、落下するような感覚が身体を包んだ。
内蔵が持ち上げられる不快感に襲われ、お股の間がひゅわんと怖気立ち、全身が粟立つ。
けれども、数拍を過ぎて、むしろ“この体感”を歓迎している自分が現れた。“これ”は“夢から醒めるときにままあるやつ”だと、確信を持って気がついたのである。
この確信に、これといった根拠はない。
だが、そうでなかったら。
夢から醒める前兆でなかったら。
落下の浮遊感のあとにあるのは――
潰す勢いある強烈な衝撃が、尻から背中、全身を打った。
強打の痛みから一拍の間を置いて、寒さが身を襲う。
流動的な轟音が耳をなぶってくる。
堪らず苦悶の声を発しようとした口には、冷たい液体が闖入してきた。
やや遅れて鼻にも闖入があり、不快感がツンとした痛みとなって脳天へ抜ける。
冷たい闖入者を追い出そうとするも、既に息は切れており。条件反射的に息を回復させんと呼吸しようとしたらば、さらなる冷たい闖入者が大挙してやってきた。
生存本能が、これはヤバイと焦る。
どうにかしようと身体を動かそうとするも、どうしてか四肢の反応が鈍く。
苦しくて。けれど、なんか、もうどうでもよくなってきて……。
ただ、とても寒くて――
「まったく、場をわきまえてほしいものぞ」
あきれたふうにぼやき声が聞こえ、“大きくて温かく優しい安心感”に全身全霊が抱かれていた。ついに幻聴が聞こえてしまったと思ったが、おかしくなったかと不安を懐くよりも、温もりに抱かれるほうを選んで――
「これっ、なあにを、気持ちよさそうに寝入ろうとしておるんだっ」
左の頬への衝撃とともに、パンッという爽快な音が鳴った。
意に反して鈍い動作のまぶたを開くと、そこには、
「ああ……どうも、キチさん」
いまさっきぶりのお顔が、むむっと眉根を寄せて怪訝そうにこちらを見ていた。
「ぬん? どうしてその呼び名を――」
キチさんは驚きある表情を浮かべて、そこまで口にしすると、継ぐ言葉を選んでいるような沈黙の間を数泊ほど置き、
「――なるほど。そうか」
なにか自己解決したふうに言い、けれども、
「……これは、私がやったことだったな」
転じて、眉尻の下がった申し訳なさそうな表情になってしまう。
「すまんな。老体に鞭打つようなことになってしまって」
「そんな、キチさんが気にするほど老いてないですよ。むしろ、ピチピチです。まあ、いきなり“三途の川”へ落とすのは、もうご勘弁願いたいところですけどね」
「んおっ? いま、“三途の川”と言うたか」
「え、はい、言いましたけど。いまのさっきですし。それが?」
「……もしかして、お前さん。“ここ”で“起きる”まで、“賽の河原/三途の川”におったお前さんかいの?」
「はい、そうですけど。むしろ、他があるんですか?」
「んんっ、まあ……そのう、時と場合によるかの」
「よるんですか?」
「う、うむ。いや、なに、それはそれとして、だ。お前さんよ、そこな水面をのぞき込もうと思うたりするなよ。絶対だぞっ」
「……はい?」
言われてから初めて、周囲のことが気になり、上体を起こして意をやってみた。そうしてやっと、すぐ側に“滝つぼ”があったことを知る。
「もしかして、“あそこ/滝つぼ”で溺れてたんですかね。オレ」
改めて“ついさっき”を思い返すと、それ以外に考えられなかった。身体、というか衣服も、なんかびちゃびちゃに湿っているし。
まま、幸い、日の光の暖かさのおかげで、それほど寒いとは感じないけれども。
「うん。というか、滝つぼに落ちたら、お前さんに限らずほぼほぼああなるさ」
キチさんの微苦笑ある言葉を耳にしつつ、滝つぼを見やる。やや離れた位置からでも澄んでいるとわかる水質だが、滝の終着点は轟々と白濁し、波紋を広げていた。
離れたところから眺めるだけなら美しい風景だが、あの轟々白濁に身がのまれたかと思うと、背筋がぞぞぞっとする。
「……キチさん、本当にありがとうございます。助けてくれて」
ひとりだったら今頃、滝つぼの底で寒さに抱かれていただろう。
「なんか、助けてもらってばかりですよね……。とくに、壱さんとキチさんには」
「ぬ、うんむ……。いや、なに、手違いに想定外が重なったからの……。どちらかと言えば、まきこんだ私の……」
キチさんは眉尻の下がったお顔をうつむきがちにそむけ、もにょもにょと口を動かす。
「はい?」
手がどうの、重なったがどうの、という断片的な音声しか聞き取れなかった。
「……むんっ!」
キチさんは勢いよく顔を上げ、なんでか胸を張り、
「気にするな、と言うたのだ。お前さんには後々、いろいろとやってもらうからのっ」
ニヤリと不敵さある笑みを浮かべて、言うてきなさった。
けれども、その眼差しからは勢いも不敵さもあまりかんぜられず。どうしてだろう、斜め下を見つめていた。
「わかりましたっ」
応じる言葉と一緒に、斜め下を見る視線の先へ、ぐっと親指を立てた拳を突き出す。
キチさんは小さく驚き、こちらに視線を向ける。
その目の動きに合わせるように、親指を立てた拳を己が顔の前へ移動させてオレは、
「でも、できれば」
立てた親指はそのままに、他の指がピシッと整列するよう拳を開き、
「どうぞ、お手柔らかに」
冗談半分、切実さ半分の語気で、“応じる言葉”に言い足させていただく。
「うん、頼んだよ」
キチさんは眉尻の下がった申し訳なさそうな微笑を浮かべ、柔らかくもどこか儚い音声で、そう伝えてきなさった。
なんだろう。おっしゃる雰囲気から想像するに、えっらくキツイことでもやるように求めてくるおつもりなのだろうか。……いや、さすがに、うがち過ぎかな。
「……それでな、お前さんよ」
「はい」
「その……ぬうん。なにか、気になることはないかいのっ?」
「え? んー、キチさんの髪の毛に、なんか虫っぽいのがくっついている――とか、ですかね。そこ、毛先のほうに」
言いつつ、なにぞ“もぞもぞうごめく影”を指差す。
「いやあ、気にしてほしいのは、そこじゃあないのだが……」
キチさんは残念そうにしつつも、こちらが指差すほうを見やり、
「ぬおうっ!」
驚きはするも嫌っているふうはなく、
「なかなかの大物だな」
迷いない動きで“もぞもぞうごめく影”を優しくつかみ、
「しかし、くっつく相手が違うぞいっ」
と、勢いをつけて投げた。
しばし弧を描いて宙を舞った“もぞもぞうごめく影”は、カサリと音を発したのを最後に、茂る草木の向こう側へ姿を消す。
「……あれ?」
ついさっきまでの景色に、こんな明るく暖かで豊かな緑はあったっけ……。
疑念を懐きつつ、周囲へ意を向けてみる。どうして気づかなかったのか、滝つぼから少し離れたところに、木造の平屋が静かに建ってあった。
「洗濯物を取り込んで、そうしたらキチさんが――うんっ? 違う。違う、なんだ、洗濯物って。ええっと、そう……ええっと、んんーと、そういえばっ! なんでオレ、滝つぼで溺れてたんでしょう? そうだ、そうですよっ。さっき“三途の川”に落ちたはずなのに、どうして。“ここ”は――」
もしかして、“三途の川”の終着点かなにかなのだろうか。
いろいろがいろいろ過ぎて、頭がパンクしそうだ。滝で頭を冷却する――のは、さすがに危ないので、滝つぼある池の水で顔を洗うことにした。
水面に近づくなと言うてきたキチさんはしかし、こちらに意を向けていなかった。なにやら渋い顔をして、難しい考えごとをしているふうである。
これ幸いと、なにか言われるまえに、さささっと水辺へ移動。さあ、さっぱりしようと膝をつき、身をかがめるようにして、水を汲むための手を伸ばし――
「……うん?」
光の加減か、澄んだ水面に、薄っすらと水を汲まんとする姿が映った。
ただ、その姿が、どういうわけか、やたらとふけて――
「お前さん」
キチさんの音声が、
「――許せよ」
耳をなでた。
えっ、と声を発する間もなく。
むんずと首根っこを押え込まれ、顔面が水面に触れ、沈んだ。
「急がんと、“お前さんら”の区別がなくなってしまうでの」
水没したのは本当に顔面だけで、耳は水面の上にあり、キチさんの申し訳なさそうな音声はちゃんと聞き取れた。――が、水没したらダメな顔面の部位が完全に水に浸かってしまって、全身全霊でそれどころではなかった。
「荒いが、“いまのお前さん”を引き剥がす手っ取り早い方法が“これ”なんだよ」
あなたのためだから的な言い回しでキチさん、なにを突然やらかしてるのっ! ――という抗議の言葉を投げたいが、どうやっても押さえ込む力に勝てず、顔面を浮上させることができず、それどころではなかった。
呼吸できる“当たり前/空気”を渇望する苦しさは即、極まり、
「夢から覚める方法と似てな」
ハッキリと聞こえるキチさんの音声とは裏腹に、意識は急激にぼやけてゆき――