転/第百十二話:(タイトル未定)
「……ところで、ドクさん」
もう、いっそ、下剤を服用して、お便所にこもってしまおうか。“便所の主”と呼ばれるくらいに――なんていう“先送り案”を、ふと考えてしまった自分を、どうにかこうにかなだめすかして。今現在、ドクさんとレンくんを加えた面々とテーブルを囲んでいた。
会話するための席には、どうにか着けた。
「“あれ”って、調理用として製作したモノなんですか?」
けれども、するっと口から出てきたのは、そんな“真に迫らない”問いかけだった。視界にたまたま、“あれ”が映り込んだからかもしれない。
まま、昨日、お訊ねしようと思っていたことのひとつには違いないが。
「ん? ああ、“あれ”か」
我が視線を見やってからドクさんは、
「“あれ”は、ただの“刃物”だよ。まあ当然、形状で“性格/性質”は異なってくるだろうが、しかし“使い方”はとくに定めてはいない」
温もりある微笑みを浮かべて、教えてくれる。
「“こちら”に来たとき、生活資金を得るために製作したのさ。たとえ右も左もわからなくとも、生活に金が必要なことはわかるからな」
「それで、“刃物”を?」
「“刃物”というモノは、ヒトがいれば、だいたいどの文化でも“受け入れられる/求められる”からな。ただ、どう使うかは、その“ヒト/文化”それぞれだが」
「なるほど」
「ははっ、しかし懐かしいな。最初に“あれ”を手に取ってくれた“ふたり”は、肉を加工するのに最適だと言ってたか。定めていないとはいえ、“武器として”という意だと思っていたから、“正しく調理道具”としてと教えられたときは、さすがに少々驚いたものだよ。“ふたり”は“ふたり”で、私のリアクションに笑っていた」
ドクさんは、同席しているツミさんとバツへ視線をやって思い出すように言った。
たぶん、その“ふたり”というのは、いま同席している“ふたり”のご両親なのだろう。
「ところで、刀くん。話は少し変わるが、ひとつ訊いてもいいかな?」
ドクさんの言葉に、心の臓がドクリと大きく脈打った。
「はい、なんでしょう」
この場から立ち去りたい息苦しさを覚えつつ、どうにか応じる。
「キミは、“こちら”へ来る直前のことは憶えているかな?」
「直前の?」
「そうだ。キミがどのような過程を経て“こちら”へ来たのか、興味があるんだ。ちなみに私は、“とある実験”をおこなった結果だよ。気がついたら、この通り。異世界で市民権を得ていた。はっはっはっ」
「……ドクさんは、怖くないんですか」
表情というか態度というか雰囲気を近くで改めて見たらば、話の流れとか一切を脇にやって、そう訊ねずにはいられなかった。
「ん? なにがかな」
「“異世界でこうしている、いま”、です」
「ほう、刀くんは怖い――不安があるわけか。現状に」
いきなり見知らぬ土地に放り出されて、平静であれるほうが、どうかしている。
「ふむ。まあ、いまのところ私は、未知への不安より、未知への好奇心のほうが強いからなあ。“ここ”のすべてを知り尽くすまでは、どうにか平気さ。たぶんな」
ドクさんは困ったふうに微苦笑を浮かべて、己が頭をひとなでしてから、
「というわけで、だ」
やや身を乗り出すカタチで、テーブルに肘をつき、
「私の平静を保つためにも、先ほどの問いの答えを聞かせてもらえると嬉しいのだが?」
話の流れを戻す言葉を、こちらへ柔らかく投げてきた。
「“だんぷ”がどうのとおっしゃっていましたよね、刀さん。出逢ったときに」
不意と、お隣からも音声が飛んできた。
いままでドクさんご自慢の“アイス・ティー”を、提供された焼き菓子と一緒に楽しんでいた壱さんである。
「直前の出来事と関連していたりするのですか?」
焼き菓子を「うむうむ」と食しながら、
「“だんぷ”」
と、なんとも素朴なお顔で小首を傾げなさる。
そんな、こちらの心情などお構いなしな“表情/雰囲気”に。我が胸の内から手先に足先、顔面筋にまで張り詰めていたモノは、うっかり「ふふっ」と笑って弛緩していた。
「むうん? なんですかぁ」
我が反応に、壱さんは冗談めかして眉根を寄せた。焼き菓子のカスでも付着していると思ったのか、口元に探るための手をささっとやったりする。
「いえ、その、壱さんと一緒でよかったなって。そう、思いましてね」
「かはっ――う、ううん。こほん。どうしたのですか、急に」
壱さんは慌てたふうに返してきた。食していた焼き菓子が変なところに入っちゃったのか、むせてからお顔が赤い。
「壱さん。お茶、飲んでください。お茶」
壱さんの分の“アイス・ティー”はほぼ飲み干されてあったので、まだ半分ほど残ってあった自分の分を手渡し、うながした。
壱さんはうつむき気味になってコップに口をつけ、ちびちびと喉を潤す。
いぜんとしてお顔は赤いが、どうやら問題はなさそうなので、
「――べつに、急ってことはないんですよ」
いちおう、けれどもウソ偽りない“心/意”を伝えさせていただく。
「“あのとき”最初に壱さんと出逢えていたから、いまのオレがあるわけですから――」
本当に、何度でも改めて思う。壱さんと出逢っていなかったら、オレの“心/精神”はヒドイことになっていただろう。
「その、えっと、これでも、感謝しているわけでして……」
けれども、どうしてだろう。脳ミソの意に反して、言ってて途中から急に、胸の内からむずむずと恥ずかしくなってきてしまった。
「あ、そうだった。それで、その壱さんと出逢う直前のことですが――」
ふとそらした視界にドクさんのニヤニヤ顔が映り、お話しの途中だったことを思い出した。決して、自らの胸の内のむずむずに負けて話題を変えたわけではない。
かくかくしかじかザックリと経緯を話したらば、
「刀くん、もう少し詳しく教えてくれるかな」
ドクさんは転じて真面目な表情になって、
「年月、日時、地域、天候、乗ったバスの路線――なんでも、些細なことでもいい」
と、さらなる情報を求めてきた。
「え、ええっとですね――」
いまのドクさんの雰囲気には、どうしてと口を挟む隙が一切なく。気圧されるようにして、脳内を探った。朝起きてから“あとのき”へ至るまでの記憶を。“ながら見”していたはずのテレビのニュースや天気、“いつも”のバスの時刻、交通状況。いつも通っている、“事が起きたあの場所”は、いったいどの辺りだったか。
「最後に改めて確認したいのだが、刀くん。キミが“こちら”へ来たのは、最近のことで間違いないのかな」
「はい」
「すうっ!」
我が返事を耳にしてドクさんは、椅子を蹴る勢いで起立し、
「ばらすぅいっ!」
両の手をぐっと握りしめ、歓喜と唾液をそこらへ飛び散らしながら音声を発した。
「やったぞ、マーティー! やはり私は間違っていなかったっ!」
「ヒトの名前は間違うけどなっ」
慣れた所作で焼き菓子やお茶を、ドクさんの歓喜と諸々の飛来から守りつつ、
「――で、ドク、やったって“なに”をさ」
レンくんは、あきれが二割、興味が八割の表情をして応じた。
いままでレンくんとお話しをしていたツミさんとバツの意も、自然とドクさんへ向く。
「“タイムトラベル”を、さ」
「たいむとら――なんだって?」
「“タイムトラベル”――“時間の旅行”と言えばわかるだろうか。まあ、移動をしたのが時間だけではないから、理想とする完璧なそれとは言えないが」
「えっと……あの、オレの話から、どうして“タイムトラベル”の話になるんですか?」
喜ばしそうに興奮気味なドクさんには申し訳ないが、我が脳内では話と話が正しくつなげられず、その喜びと興奮についていけなかった。
「ん、そうか。すまない。――この場合は、もうひとつに関しても、私は刀くんに謝らなければならないな。申し訳ない」
「もうひとつ、ですか?」
「ああ。私、なのだよ」
「……なにかですか?」
「刀くんが、“こちら/異世界”へ来ることになった原因だよ」
「――は?」
「“あの日”、私は“試作四〇〇一号:タイプ・デロリアン”と名付けたタイムマシンの実験をおこなったのだよ。刀くんが“飛ばされた/事故にあった”場所とつながる、実験に好条件な道路で」
「え……」
「ちなみに、“試作四〇〇一号:タイプ・デロリアン”の見てくれは、理想とする“タイムマシン/デロリアン”とは似ても似つかぬただの“ダンプカー”だ。“次元転移装置”やそれを動かす“発電装置”やらを積載するには、いまのところそれしかなくてな」
「…………」
あまりにも唐突で、あまりにもあっさりと、どえらく重大なことを知らされた。
対する言葉が、口からも脳ミソからも出てこなかった。
「代わりに“ひとつ”、喰らわせておきましょうか? 刀さん」
袖をちょいと引っ張られてやっと、過負荷で固まりかかっていた脳ミソが微動作した。
「えっ? んっ? そんな不敵な微笑みを浮かべて、どうしたんですか、壱さん」
焼き菓子を握ってある拳で、しゅしゅっとパンチをかますマネまでおこないなさる。
「聞こえてきたお話から察するに、刀さんが困った状況になったのは、ドクさんがおこなったことが原因なのでしょう?」
「そ、う、らしいですね……」
いきなりが過ぎて、確証も実感もまったく持てないけれども。
「でしょう。ですから、私が代わりに“ひとつ”喰らわせちゃおうかしらと、そういうわけなのです。よくも私の夫を困らせてくれましたねっ、と」
壱さんの口調も態度もぷんすかと冗談めいていたが、どこか硬質なモノもかんぜられた。
「そのお気持ちは、とてもありがとうございます。でも、壱さんのその手は、どうか焼き菓子とか美味しいモノを楽しむのに使ってください」
あと、いったい、いつまで、夫婦な設定はいかしておくつもりなのでしょうか。
「それに」
実感が薄いからなのか、自分でも意外なほどに攻撃的な感情は懐いていなかった。
「“不幸中の幸い”というか“ケガの功名”というか、いまこうして壱さんと一緒にお茶と焼き菓子を楽しめているのは――」
「ドクさんのおこなったことのおかげ、ですか?」
「そう受け取っておいたほうが、カリカリしないでよいかなぁと思いまして。いらだちで頭の毛根とさようならしたくはないですからね」
「そうですか。刀さんがそれでよいのでしたら、私はこの手を“刀さんが望んだ通り”に使うとしましょう。このように」
「だからって、オレの分の焼き菓子を――いえ、まあ、よいですけど」
あるいは我が心情が沸点に到達するまえに、壱さんがあえて拳で語るぞアピールをしてくれたから、“そのこと”に対して戸惑い以外の感情をさして懐かずにいられるのかもしれない。だから、手前に置かれた小皿の上から、バツがわざわざ取り分けておいてくれた焼き菓子たちが姿を消していっても、対価としてはとても安いと言えるだろう。うん。
「あ、やっぱり、ひとつくら――」
「ふへ?」
「――いえ、大丈夫です」
手遅れだったので、気持ちを切り替えていこう。
閑話休題。
「それで、あの、ドクさん。お訊ねしたいのですが」
「なにかな」
「本当に、ドクさんが原因なのでしょうか?」
「確かに、物証がないから、これと証明はできないが。しかし、それは、我々の“我々たらしめる記憶”に疑を懐くことでもある。“あの日”の“あの場所”に関して、なにか記憶に食い違いがあったかな」
「いえ、“あの日”の“あの場所”に関しては共通の認識です」
改めてお互いの記憶を口にして確認したから、そこは違わない。
「でも、“こちら/異世界”に来た――日時というか、それがドクさんとオレとで、かなり異なっているように思うのですが」
少なくともドクさんは、ツミさんとバツの“昔”を知っている。証拠となりえる写真もあった。つまりは、それほどに以前から、ドクさんは“こちら/異世界”にいるということになる。“これ/滞在時間”に関しては確実に、オレと似ていない。
「うむ、確かに。しかし、入り口で一緒だったからといって、出口でも一緒になるとは限らないだろう? 私が開発したモノからすれば、なおのこと」
「……どういうことですか?」
「私は――」
ドクさんは努めて真面目な顔で、けれども隠せぬ“嬉しさ/得意気”をにじみ出させて、
「“タイムマシン”を開発したのだ」
そう、告げてきなさった。
「時間どころか、世界を飛び越えちゃいましたけどね」
「ああ、しかし私は、ほぼ設定した通りに時間も跳躍できていたようだ。“こちら/異世界”へ訪れた“キミとの時差”が、設定したモノとほぼ一致する。まあ、跳躍できたのは脳内の“記憶情報”だけ。どうやら、跳躍が可能な情報の容量には制限があるようだな」
「“タイムトラベル”というより、“タイムリープ”っぽいですね。記憶だけだと。世界を飛び越えちゃっているから、それともまた違う気がしますけど」
マンガとか小説とかアニメとか映画とかの創作物語から知った程度なので、実際にはどう受け取るのが正しいのか、さっぱりわからないけれども。
「おお、確かにそうだな。……“異世界へ跳躍するタイムリープ”、か」
「なんか、すごいですね」
「ああ、すごい失敗だ。長年の悲願たる“タイムトラベル”を不完全とはいえ、ほぼおこなえたと誤認して、すっかり浮かれてしまった。これでは、手の込んだ現実逃避でしかない。いま、頭が冷えてきたよ。――改めて、刀くん。巻き込んでしまって、申し訳ない」
いままでの喜色はどこへやら。ドクさんはうなだれるように、手元へ寄せた“アイス・ティー”に視線を落とす。飲む気はないのか、解けた氷が残り少ない“ティー”要素を薄めてかさ増していくのを凝視している。
「なあ、割り込んでごめんだけどさ」
レンくんが控えめに挙手して、
「訊いてもいいか」
言葉を投げてきた。
「なんだ、マーティー」
ドクさんは一点を凝視したまま、応じた。
「聞いたかんじだと、ふたりは“記憶だけ”で“ここ”に来たことになるけどさ」
「そうだな、“すべて”を跳躍させるには、エネルギーが不足していたのかもしれん」
「えねる――そういうのは、よくわかんないけどさ。“記憶だけ”以外の、いまここにいる“ふたり”は“誰”なの?」
意図せずして避けていた気がする話題に、まさかのレンくんがズバリ切り込んできた。
「さあな。いまとなっては“これ”が“私”だから、なんとも言えん。当初は、記憶にない衣服をまとった、限りなく“記憶にある自分”に近い特徴を有した――しかし、どこか違和感を覚える身体だったな。ただ、ひとつ、根拠なく断言できるのは、“この身体”がいままで慣れ親しんだ“自分自身”ではないということだけだ」
「オレも、そうでした。いまは、なるべく考えないようにしてますけど」
「異なる世界で、似た“意”を有する“存在”なのかもしれないな。あるいは、仕様外の挙動で世界間を跳躍してしまった我々の受け皿として、“世界”が“サービスして/与えて”くれたのかもしれない」
「そうだとしたら案外、気前がいいですね、“世界”って」
「仕様外のことで不安定になるのを回避するための、苦肉の対策かもしれないな」
「すげぇ、なに言ってんのか、さっぱりわかんない」
レンくんは背伸びをするように両の手を掲げ、明朗快活に言った。
「はははっ。まあ、つまりはそういうことだ。いろいろ仮定したところで、我々の身に起こったことを正しく説明する言葉は、最初から決まっていたわけだよ」
「え、そうなの?」
「“よくわからん”――と、いうことさ。マーティー」
「なんだー」
レンくんは、さしてガッカリ感なく応じた。
個人的にはもう、“よくわからない”ということは“よくわかっていた”ので、
「あの、その、ところで、ドクさん」
ふたりのやり取りをほぼ聞き流して、
「素人考えなのは重々承知のうえなんですが――」
どうしても訊いておきたかったことを、口にさせていただく。
来るのに使ったモノを開発したヒトが、ここにいるのである。だから、また同じようなモノを製作できたらと思っていたのだ。
「私も当初は、帰還を試みていた。これほどの発見があったわけだからな。さらなる調査をおこなうためにも一度、あちらへ帰る必要があると考えたのだ。いま、こうして、“これ”を楽しんでいるのも、そうした数々の困難な試みの賜物なのだよ」
「“アイス・ティー”が――というか、“製氷機”が、ですか。帰ることに関連が?」
「ああ、現状でどうにか開発できる限界点が知れた。“自分の知っていること”が“どの程度”、“こちら”に通用するのか理解しておくのは、とても重要なことだからな」
「そうですか……」
つまり、来たときの“あの状況”を再現することは――
「不可能か……」
それとなく、多大な希望を懐いていたりしたのだが。やっぱり、“バック・トゥー・ザ・フューチャー”のようにはいかないか。
かの映画の三作目では、ハイテクな機器が発明される以前の時代へと“飛ばされた/飛んだ”主人公のふたりたるドクとマーティーが、元の時代へ帰るために、いろいろあって壊れてしまった“デロリアン/タイムマシン”を、“その時代にあるモノ”でどうにかこうにかして使えるようにしていたのだけれども。
「不可能――とは少し違いが」
我がテンションの下がりっぷりが思っている以上にアレだったのか、たぶん気遣ってくれたのだろうドクさんが、「そういえば」と思い出したふうに言ってくれた。
「“こちら/異世界”には、なんでも“不可思議を起こす技術”があるそうだ。“こちら/異世界”を正確に認識するため、いろいろと調べる過程で知ったのだがね」
「不可思議を起こす? それは……どういう?」
「実際のところ、詳しくは私も知らない。ただ、“こちら/異世界”を調べる過程で、必ずと言っていいほど、旅人や旅の商人、冒険者から聞こえてくる話でな。最初は当然、こちらをからかう作り話だと思ったよ。しかし、聞いても聞いても、語る口は異なっても、内容はほとんど同じでな。“存在すること”は、多少なりとも信憑性があるとかんぜられる。少なくとも、自分の境遇よりはな。――それで、だ。どうやら、それは“東のほうにある島国”の“伝統技術”とでも言おうか、そういう部類の技術であるようだ」
「……技術は技術でも、“そういう意”が“こめられた技術”。“能/狂言/歌舞伎”とか、そういう“技芸/芸能”ではないんですか?」
「あるいは、両方かもしれん」
「え?」
「“こちら/異世界”は、“我々の常識/我々の概念”とは異なる“常識/概念”で確かに動いているということだよ」
ドクさんの言い回しはざっくりしていたが、その音声にはドシリとした実感がこもってあるように聞こえた。到底、認められないようなことを、けれども事実としてそこにあるから認めざるおえない。犯していない罪を巧みになすりつけられてしまったヒトのそれに似た、困惑と苦々しさが滲み出てあったのである。
「あ、えっとう」
どうにも声をかけづらい空気をまとってしまわれたこともあり、
「壱さんは旅の道中――」
助け船を求めるがごとく、自然とそちらへ向かって口を動かしていた。
「“不可思議を起こす技術”、って耳にしたことありますか?」
ドクさんに“その話”を届けたのは、旅人や旅の商人、冒険者とのことだったので。現在、もっとも我が身近にいらっしゃる旅人さんに、詳細をご存じないかおうかがいしてみたのだ。これで現状が一歩前進できたらという期待が少し、音声に混じったかもしれない。
「うん? 耳にするもなにも――おや?」
壱さんが返答するために口を動かしてくれたと同時、“異なる口”が動き出す音が聞こえてきた。「えいほっ、えいほっ」という、おっさん特有のむさ苦しい音声をともなって。
「また、喧しくなるな」
ドクさんはさして深刻さない表情でぼやきつつ、様子をうかがいに席を立った。
それを目で追っていたらば、お隣からも動きを感じた。
意を向けると、壱さんが起立していらっしゃった。
「さて、私もご挨拶をしてくるとしょうかね。“私の客人”に」