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 極北の地、ノルトエンデ領の朝は早い。

 本来であれば、窓を開けた瞬間に肺が凍りつくような冷気と、魔獣の吐息が混じった禍々しい風が吹き込むはずの時刻だ。しかし、今の城内に漂っているのは、まるで高山に咲く名もなき花々が放つような、清冽でどこか甘やかな空気だった。


「……ふう。やっぱり、空気フィルターを掃除すると気持ちがいいわね」


 エルナは、城のバルコニーから広大な領地を見下ろしていた。

 彼女の手には、銀色の糸で刺繍された、新しい「清掃用クロス」がある。アルフレートが「君の魔力に適したものを使ってくれ」と、領内の宝物庫からわざわざ取り寄せた、古代の魔法銀を用いた一級品だ。


 エルナはこの数日間、城内の主要な場所をすべて「概念清掃」して回った。

 それは単に埃を取り除くことではない。

 壁に染み付いた歴代の住人の「苦悶」、床に溜まった「絶望の記憶」、そしてこの土地特有の「呪いの残滓」という名のエネルギーの澱み。それらを「汚れ」と見なし、本来の純粋な物質の状態へと研磨し直したのだ。


 その効果は、劇的な形で現れていた。

 漆黒だった城の壁面は、まるで磨かれた黒真珠のような上品な輝きを放ち始め、庭園の枯れ木には、数十年ぶりに小さな芽が吹き始めている。


「エルナ様、おはようございます! 今日も素晴らしいお目覚めです!」


 廊下ですれ違う騎士たちが、皆、一様にツヤツヤとした顔で敬礼してくる。

 以前の彼らは、常に死を覚悟したような険しい表情を浮かべ、鎧は錆びつき、肌は荒れ果てていた。だが今はどうだ。

 エルナが「ついでに」磨き上げた彼らの鎧は、魔法の加護が常に最大限に発動し、どんな魔獣の爪も弾き返すような鏡面仕上げとなっている。さらに、エルナが「概念清掃」した城で眠ることで、彼らの精神的な疲労(澱み)は毎晩リセットされ、部隊全体の士気はかつてないほど高まっていた。


「みんな、元気そうでよかったわ。お掃除のやりがいがあるわね」


 エルナが微笑むと、屈強な騎士たちが「ああ……女神様だ……」と、頬を染めて立ち尽くす。

 今のノルトエンデ城において、エルナは「追放された令嬢」ではなく、文字通り「救世の女神」として崇められ始めていた。


────


 しかし、その「女神」への信仰を、あまり快く思っていない人物が一人いた。

 城主、アルフレート・ノルトエンデである。


「……エルナ。また朝から外に出ていたのか」


 背後から響く、低く心地よい声。

 振り返ると、そこには以前の「死神」のような風貌が嘘のように、凛とした美しさを取り戻したアルフレートが立っていた。

 顔を覆っていた呪いの痣は今やほとんど消失し、透き通るような白い肌と、鋭いながらも慈愛を湛えた氷晶の瞳が、エルナを真っ直ぐに見つめている。


「あ、閣下。おはようございます。空気が少し淀んでいたので、外気清掃エア・クリーニングをしていたんです」


「その必要はないと言ったはずだ。お前のその力は、もっと自分自身のために使うか……あるいは……私のためだけに使えばいい」


 アルフレートが歩み寄り、当然のようにエルナの腰を引き寄せた。

 その手は驚くほど熱く、そして強い。

 彼はあの日以来、エルナが視界から消えることを極端に嫌うようになっていた。

 「痛み」を知っていた彼だからこそ、その痛みを消し去ってくれる彼女という存在は、もはや生存に欠かせない酸素と同じだった。そして、心の一部として。


「閣下、近いですよ……」


「近くなくては困る。お前が離れると、またあの『汚れ』が寄ってくる気がするのだ。……エルナ、お前は自覚がないようだが、この地の騎士達は皆、虎視眈々とお前の心を狙っている」


「えっ、まさか。みんな、掃除のコツを聞きに来るだけですよ?」


「それを世間では『誘っている』と言うのだ。……いいか、お前を救い出したのは……わ、私だ。お前をこの地に繋ぎ止める権利があるのも、私だけなんだ」


 アルフレートの瞳に、仄暗い独占欲が揺らめく。

 彼はエルナの指先を取り、その甲に深く、刻印を残すように口づけた。

 エルナは、公爵令嬢として多くの教育を受けてきたが、このような「生存そのものを肯定され、同時に縛り付けられるような」烈しい愛を向けられたことはなかった。


(王都にいた頃は、私がどれだけ尽くしても『当たり前』だと思われていたのに……)


 自分が必要とされている。

 ただの雑用係ではなく、代わりのきかない唯一無二の存在として。

 その事実は、エルナの心をこれ以上ないほど温かく満たしていた。たとえ、この麗しい辺境伯の愛が、少しばかり重すぎるものだとしても。


────

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