表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/9

5

 エルナが差し出した古い革装本を受け取り、アルフレートは目を見開いた。

 指先に触れる革の質感。それは魔法で作られた偽物ではなく、紛れもない「本物」の瑞々しさだった。

 そして何より――。


「……呪いが、ない。この部屋から、あの忌々しい圧迫感が完全に消えている」


 アルフレートは自らの胸に手を当てた。

 彼の一族が背負う『蝕の呪い』

それは国の負債を肩代わりする宿命であり、この城はその「ゴミ捨て場」でもあった。

 彼は生まれてから一度も、「清浄な空気」を吸ったことがなかったのだ。


「閣下、まだ驚くのは早いですよ。次は、閣下の居室を掃除させてください。あそこ、今のままじゃ安眠なんて到底無理ですから」

「私の部屋だと……? あそこは呪いの収束地だぞ。私以外の人間が入れば、精神が崩壊する」

「大丈夫です。私、汚れには強いんです。……それに」


 エルナは、アルフレートの目の前まで歩み寄ると、少しだけ背伸びをして彼の顔を覗き込んだ。

 アルフレートが思わず息を呑むほど、近く。

 

「……閣下の瞳、本当はとても綺麗な色をしているのに、澱みのせいで曇ってしまっています。それ、私が放っておけませんから」


 そう言って、彼女はアルフレートの頬を、魔法を込めた指先でそっと拭った。

 チリッ、とした微かな刺激。

 次の瞬間、アルフレートの視界から「霧」が晴れた。

 

 今まで灰色のフィルター越しに見ていたような世界が、一気に色彩を取り戻す。

 目の前にいる少女の、透き通るような肌の色。

 窓から差し込む、冷たくも美しい月光。

 そして、自分自身の心が、驚くほど静かになっていることに気づく。


「……あぁ……」


 アルフレートの喉から、掠れた声が漏れた。

 二十数年、一度も止むことのなかった「痛み」という名のノイズが、彼女が触れた場所から順に消えていく。


「さあ、閣下。今夜はぐっすり眠れるように、寝室を『最高』に仕上げておきますね!」


 鼻歌を歌いながら去っていくエルナの背中を、アルフレートはただ呆然と見送ることしかできなかった。

 彼の胸の内で、今まで感じたことのない激しい感情が渦巻いていた。

 それは恐怖でもなければ、単なる感謝でもない。


 ――この女を、離してはならない。

 ――もし彼女がいなくなれば、私は今度こそ、本当の地獄に落ちるだろう。


 それは、生存本能に直結した、狂気にも似た「執着」の芽生えだった。


────


 その夜、アルフレートは自分の寝室の前に立ち、絶句していた。

 

 まず、ドアを開けた瞬間に香る、ひんやりとした、けれど、どこか温かみのある「無」の香り。

 呪いの黒い霧に包まれていたはずの天蓋付きベッドは、まるで新雪のように真っ白で、見るからに柔らかそうな質感を取り戻している。

 

 部屋の隅々まで「最適化」された空間。

 エルナは物理的な掃除だけでなく、この部屋の「因果」すらも磨き上げていた。


「閣下、お疲れ様です。パジャマも『概念清掃』しておきましたから、肌触りが全然違いますよ」


 隅で誇らしげに立っているエルナに、アルフレートは震える声で尋ねた。


「……エルナ。貴様、王都で何をされていた」


「え? ですから、聖女としてお掃除を。……でも、ジュリアン様には『雑用係』だと笑われてしまいましたけれど」


 アルフレートの中で、ジュリアン王子に対する強烈な殺意……もとい、底知れない軽蔑が湧き上がった。

 これほどの至宝を、あんな無能な王子が「掃除婦」として扱っていたというのか。

 この空気。この安らぎ。

 これ一つで、国に至宝の価値があるというのに。


「……そうか。ならば、もう王都のことなど忘れるがいい」


 アルフレートは歩み寄り、エルナの細い手首を掴んだ。

 いつもの彼なら、他人に触れることすら呪いの伝染を恐れて避けていたはずなのに。今は逆に、彼女に触れていないと不安で仕方がなかった。


「閣下……?」


「お前はもう、私のものだ。……いや、訂正しよう。この城の、ノルトエンデの宝だ。二度と、あんなゴミのような奴らの元へは返さない」


 アルフレートの氷晶のような瞳が、熱を帯びてエルナを射抜く。

 エルナは少し驚いたように瞬きをしたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。


「嬉しいです。こんなにやりがいのある職場、初めてですから。私、閣下を世界一『清潔』で『快適』な旦那様にして差し上げますね!」


 彼女の言う「快適」の意味が、アルフレートにとっては別の意味――「誰にも触れさせたくない独占欲」――に聞こえていることなど、今のエルナは知る由もなかった。


────


 一方、その頃。

 王都の王宮では、ついに「第一の崩壊」が始まっていた。

 王族達が愛用していた「永久不壊」と言われる魔法の泉が、一晩にしてドロドロの泥水へと変わり、そこから発生した瘴気が、マリアベルの寝室を直撃したのである。


「嫌ぁぁぁぁ! 私の顔が! ドレスが汚れるじゃないの!!」


 マリアベルの悲鳴が夜の王宮に響き渡る。

 だが、彼女がいくら光を放っても、その汚れは落ちない。

 なぜなら、彼女自身の心が放つ「傲慢」という名の汚れが、今や国を蝕む呪いの種火となっていたからだ。


 王宮の者たちはまだ気が付いていない。自分たちの病んだ心こそが、呪いの一部になってしまっている事を……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ