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エルナが差し出した古い革装本を受け取り、アルフレートは目を見開いた。
指先に触れる革の質感。それは魔法で作られた偽物ではなく、紛れもない「本物」の瑞々しさだった。
そして何より――。
「……呪いが、ない。この部屋から、あの忌々しい圧迫感が完全に消えている」
アルフレートは自らの胸に手を当てた。
彼の一族が背負う『蝕の呪い』
それは国の負債を肩代わりする宿命であり、この城はその「ゴミ捨て場」でもあった。
彼は生まれてから一度も、「清浄な空気」を吸ったことがなかったのだ。
「閣下、まだ驚くのは早いですよ。次は、閣下の居室を掃除させてください。あそこ、今のままじゃ安眠なんて到底無理ですから」
「私の部屋だと……? あそこは呪いの収束地だぞ。私以外の人間が入れば、精神が崩壊する」
「大丈夫です。私、汚れには強いんです。……それに」
エルナは、アルフレートの目の前まで歩み寄ると、少しだけ背伸びをして彼の顔を覗き込んだ。
アルフレートが思わず息を呑むほど、近く。
「……閣下の瞳、本当はとても綺麗な色をしているのに、澱みのせいで曇ってしまっています。それ、私が放っておけませんから」
そう言って、彼女はアルフレートの頬を、魔法を込めた指先でそっと拭った。
チリッ、とした微かな刺激。
次の瞬間、アルフレートの視界から「霧」が晴れた。
今まで灰色のフィルター越しに見ていたような世界が、一気に色彩を取り戻す。
目の前にいる少女の、透き通るような肌の色。
窓から差し込む、冷たくも美しい月光。
そして、自分自身の心が、驚くほど静かになっていることに気づく。
「……あぁ……」
アルフレートの喉から、掠れた声が漏れた。
二十数年、一度も止むことのなかった「痛み」という名のノイズが、彼女が触れた場所から順に消えていく。
「さあ、閣下。今夜はぐっすり眠れるように、寝室を『最高』に仕上げておきますね!」
鼻歌を歌いながら去っていくエルナの背中を、アルフレートはただ呆然と見送ることしかできなかった。
彼の胸の内で、今まで感じたことのない激しい感情が渦巻いていた。
それは恐怖でもなければ、単なる感謝でもない。
――この女を、離してはならない。
――もし彼女がいなくなれば、私は今度こそ、本当の地獄に落ちるだろう。
それは、生存本能に直結した、狂気にも似た「執着」の芽生えだった。
────
その夜、アルフレートは自分の寝室の前に立ち、絶句していた。
まず、ドアを開けた瞬間に香る、ひんやりとした、けれど、どこか温かみのある「無」の香り。
呪いの黒い霧に包まれていたはずの天蓋付きベッドは、まるで新雪のように真っ白で、見るからに柔らかそうな質感を取り戻している。
部屋の隅々まで「最適化」された空間。
エルナは物理的な掃除だけでなく、この部屋の「因果」すらも磨き上げていた。
「閣下、お疲れ様です。パジャマも『概念清掃』しておきましたから、肌触りが全然違いますよ」
隅で誇らしげに立っているエルナに、アルフレートは震える声で尋ねた。
「……エルナ。貴様、王都で何をされていた」
「え? ですから、聖女としてお掃除を。……でも、ジュリアン様には『雑用係』だと笑われてしまいましたけれど」
アルフレートの中で、ジュリアン王子に対する強烈な殺意……もとい、底知れない軽蔑が湧き上がった。
これほどの至宝を、あんな無能な王子が「掃除婦」として扱っていたというのか。
この空気。この安らぎ。
これ一つで、国に至宝の価値があるというのに。
「……そうか。ならば、もう王都のことなど忘れるがいい」
アルフレートは歩み寄り、エルナの細い手首を掴んだ。
いつもの彼なら、他人に触れることすら呪いの伝染を恐れて避けていたはずなのに。今は逆に、彼女に触れていないと不安で仕方がなかった。
「閣下……?」
「お前はもう、私のものだ。……いや、訂正しよう。この城の、ノルトエンデの宝だ。二度と、あんなゴミのような奴らの元へは返さない」
アルフレートの氷晶のような瞳が、熱を帯びてエルナを射抜く。
エルナは少し驚いたように瞬きをしたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しいです。こんなにやりがいのある職場、初めてですから。私、閣下を世界一『清潔』で『快適』な旦那様にして差し上げますね!」
彼女の言う「快適」の意味が、アルフレートにとっては別の意味――「誰にも触れさせたくない独占欲」――に聞こえていることなど、今のエルナは知る由もなかった。
────
一方、その頃。
王都の王宮では、ついに「第一の崩壊」が始まっていた。
王族達が愛用していた「永久不壊」と言われる魔法の泉が、一晩にしてドロドロの泥水へと変わり、そこから発生した瘴気が、マリアベルの寝室を直撃したのである。
「嫌ぁぁぁぁ! 私の顔が! ドレスが汚れるじゃないの!!」
マリアベルの悲鳴が夜の王宮に響き渡る。
だが、彼女がいくら光を放っても、その汚れは落ちない。
なぜなら、彼女自身の心が放つ「傲慢」という名の汚れが、今や国を蝕む呪いの種火となっていたからだ。
王宮の者たちはまだ気が付いていない。自分たちの病んだ心こそが、呪いの一部になってしまっている事を……。




