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 王都サンクチュアリは、今や「死の都」と化していた。

 空はどんよりとした鉛色に染まり、太陽の光さえも地上に届かない。かつて民衆の活気に溢れていた大通りには、ドロドロとした黒い泥のような「瘴気」が川のように流れ、建物は見る影もなく腐り果てている。


「助けて……体が、重い……」

「息が……できない……っ」


 街の至る所で、民衆が力なく倒れていた。

 彼らを襲っているのは病ではない。エルナという「浄化の防波堤」を失ったことで、王国そのものが持つ「劣化しようとする呪いの力」が、行き場を失い、人々の生命力そのものを奪い去ろうとしているのだ。


 そこへ、一筋の真っ白な閃光が走った。


 ――キィィィィン、という、耳に響く金属音。


 王都の北門が、内側から爆発したのではない。

 門を覆っていた「錆」と「腐敗」という概念が、一瞬にして拭い去られ、門が「新品の状態」へと巻き戻されたのだ。


「――お掃除の時間ですよ、皆さん」


 澄み渡る声と共に、純白のドレスを翻してエルナが現れた。

 彼女が一歩足を踏み出すごとに、周囲の瘴気が霧散していく。彼女の靴が触れた石畳は、まるで宝石のように磨き上げられ、腐っていた溝からは清らかな水が溢れ出す。


「お、おぉ……! 聖女エルナ様だ!」


「エルナ様が戻ってきてくださったぞ!」


 倒れていた人々が、エルナの放つ「清潔な魔力」に触れた瞬間、嘘のように身軽になり、立ち上がる。

 エルナは一人一人に微笑みかけながら、その手に持ったクロスを軸に、光輝魔法を大きく振り撒いていく。


「【概念清掃・――『権天使の怒り(アルカイ・フューリー)』】!」


 エルナを中心に、目も眩むような白い光の輪が広がっていく。

 その光が通過した場所では、腐った家屋が新築のように蘇り、枯れ果てた並木道には青々と葉が茂り、汚染された大気は一瞬で澄み切った。

 

 それは力による制圧ではない。

 「世界を正しい状態に整える」という、究極の慈愛による救済魔法だった。


「……ふん。君は相変わらず、他者に甘すぎる。だがそれすら、愛おしい。」


 エルナの隣に、漆黒の軍服を纏ったアルフレートが降り立つ。

 彼の周囲には、抜刀したノルトエンデの騎士たちが整列していた。彼らの鎧はエルナの加護を受け、瘴気を一切通さない。


「閣下、彼らは無実な人々。王都を去ってくれるよう願っていましたが……。それに、こんなに汚れたままじゃ、お掃除のしがいがありすぎるんですもの。……さあ、一番大きな『ゴミ』を片付けに行きましょう」


 エルナの視線の先には、どす黒い粘液に包まれ、今にも崩落しそうな王宮がそびえ立っていた。


────


 王宮の謁見の間。

 そこは、もはや人間が住めるような場所ではなかった。

 壁は脈打つ肉腫のようなカビに覆われ、天井からは腐ったシャンデリアが今にも落ちそうに揺れている。


「あ、あああ……光を……私に光を……」


 玉座に座るジュリアン王子は、見る影もなく変わり果てていた。

 かつての端正な顔立ちは、過剰な魔力逆流によって土色に沈み、肌には鱗のような汚れがこびりついている。


 バン!!


 謁見の間の大扉が、エルナの「清掃波動」によって粉砕……もとい、不純物を取り除かれて消滅した。


「――お久しぶりです、ジュリアン様。随分と……散らかしてしまいましたね」


 エルナが静かに入場する。

 彼女の周囲だけは、この地獄のような王宮の中でも、完全な「無菌室」のように清浄なままだった。


「エ……エルナ……!?」


 ジュリアンが、血走った目でエルナを睨みつける。

 

「貴様、ようやく戻ったか! しかしよく戻った! 掃除するのなら許してやろう。さあ、今すぐその薄汚い雑用スキルで、この王宮を元に戻せ! 私の肌を、私の美しさを、権威を、すべてを取り戻せ! これは命令だ、さっさとやれ! 掃除女!!」


 絶叫するジュリアンの声は、もはや人間のそれではなく、悪魔の咆哮に近かった。

 しかし、エルナは一歩も引かず、冷ややかな、どこか悲しげな瞳で彼を見つめた。


「命令……ですか。ジュリアン様、あなたはまだ、掃除というものを勘違いなさっているようですね」


「何だと!?」


「掃除とは、大切なものを守るために行うもの。……あなたはこの国も、民も、そして私の献身も、大切に扱わなかった。ただの『当然の権利』として使い潰した。……そんな方のための清掃は、私の仕事には含まれていません」


「き、貴様……っ、助けろ! この私を今すぐ助けろ!!」


 ジュリアンが床を這いつくばり、がエルナの足元に縋り付こうと迫ってくる。

 だが、ジュリアンの手がエルナのドレスに触れる直前、見えない壁に弾かれた。


「近寄るな、不浄な奴め」


 アルフレートが冷酷に言い放つ。

 彼の放つ凄まじい圧に、ジュリアンは悲鳴を上げて床を転がった。


「閣下、私がやります。……これは、私の十年の『清算』ですから」


 エルナはアルフレートを制し、ジュリアンの前まで歩み寄った。

 エルナは、王宮の維持装置の核となっていた「空の守護石」を手に取る。それは今や、どす黒く変色した石塊に過ぎなかった。


「ジュリアン様。あなたは私を『雑用係』と呼び、私の掃除を『価値のない作業』だと仰いました」


「当たり前だ! 貴様が、貴様が毎日ちまちまと布を振っていたから、この国は軟弱になってしまったのだ! 私の光こそが……っ」


「いいえ。あなたが誇るその光は、汚れの上から塗っただけの塗料でした。……私は、その塗料を剥がしに来たんです」


 エルナが、その手に持った白いクロスを、ジュリアンの顔の前にかざした。


「最後に、一つだけお教えします。……『本当の掃除』において、最も大切な工程は何だかご存知ですか?」


「な、なんだ……そんなもの!!」


 エルナの唇が、美しく、そして残酷な弧を描いた。


「――それは、『ゴミを捨てること』です」


 瞬間。

 エルナの全身から、これまでの比ではない規模の、純白の光が放射された。


 それは、世界から「不要な穢れ」を完全に抹消する魔法。

 王宮を覆っていた黒い粘液が、ジュリアンの体から溢れ出していた瘴気が、そして彼らが縋り付いていた「偽りの権威」という名の淀みが。

 

 シュゥゥゥ……と、雪が熱湯に溶けるような音を立てて、消滅していく。


「あ、ああ……力が……私の力が消える……っ!?」


 ジュリアンの中から、王族としての膨大な魔力と「若さ」という名の加護が剥ぎ取られていく。

 もともと、彼らがその地位を保てていたのは、エルナが「老い」や「衰退」から彼らを無意識に守っていたからに過ぎない。

 その清掃を解除され、さらに「汚れ」として判定された彼は、一瞬にしてただの「老いた、力なき凡人」へと戻された。


「ひ、ひぃぃ……顔が、私の顔がシワだらけに……っ!」

「嫌だ、ダメだ!! 私は王子だ! この国の主だぁぁ!!」


 もがき苦しむ彼らの声は、エルナが磨き上げた「沈黙」の中に吸い込まれていった。

 

 気づけば、王宮は以前よりも遥かに美しく、壮麗な姿を取り戻していた。

 だが、そこにはもう、腐った王族たちの姿はなかった。

 彼らは、自分達が使い古したボロ雑巾のように、王座から転げ落ち、床を這いつくばるだけの存在に成り果てていた。


────


 数時間後。

 王宮のバルコニーに、エルナとアルフレートの姿があった。

 眼下には、瘴気が晴れ、数十年ぶりの青空を見上げて歓喜に沸く王都の民衆たちがいた。


「……終わりましたね、閣下」


「ああ。実に見事な掃除だった。……ゴミの始末も含めてな」


 アルフレートは、エルナを背後から優しく抱きすくめた。

 ジュリアンとマリアベル、エルナを蔑み、使い捨てようとしていた王族達は、生き恥を晒しながら北の地の「鉱山清掃」へと送られることが決まった。死ぬまで、自分たちが汚した大地を磨き続ける……それが、エルナが最後に与えた慈悲であり、報いだった。


「エルナ。これで、お前を縛るものは何もなくなった」


 アルフレートの声が、エルナの耳元で熱く響く。

 

「王都の者たちは、君を新しい女王に、と騒いでいるが……。私はそんなこと、許すつもりはない。」


「ふふ、わかっています。閣下……いえ、アルフレート様」


「だが、君が望むと言うのなら別だ。私は全力で君を支えよう」


 エルナは、愛おしそうにアルフレートの胸に身を預けた。


「私は、女王なんてガラじゃありません。……私はただ、あなたの城と、あなたの心を、いつまでも綺麗に磨いていたいだけなんです。でも……民も見捨てることはできません」


「……ならば、約束しよう。一生、私は君のそばを離れないと。君を守るために、私は剣を振るうと」


 アルフレートは、エルナの薬指に、凍てつくほど冷たく、しかし情熱的な青いダイヤの魔法の指輪を嵌めた。

 それは、彼女を自分の「世界」の中に閉じ込め、二度と誰にも渡さないという、最強の独占欲の証のようでもあった。


「はい。……喜んで、お受けします」


 二人の影が、黄金色の夕日に照らされ、美しく重なった。

 

 王国は、一度死に、そしてエルナの手によって「磨き直された」。

 これから始まるのは、完璧にメンテナンスされた、王国という名の「楽園」で、終わりのない、そしてとびきり甘い溺愛の日々。


 ――お掃除のついでに、私は最高の幸せを掴んだようです。

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