秋川千鶴の場合42
店内から徐々に人が減っていった。雨は相変わらず降っているけれど、皆雨宿りを諦めたようだ。それぐらい強い雨なのだ。風がないだけにその雨の重さが余計のし掛かる。
雨の新宿。それは私にとってあまりも冷たい場所だった。雨は新宿を金属的な。無機物的な温度しかない街にする。
すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲む干す。マグカップの底にはコーヒーの跡が細い三日月のようにうっすらと残っていた。雨空の上にあるであろう。消えてしまいそうな三日月のように――。
それから私はスターバックスで持ち帰り用のコーヒーを買うと駅に向かった。右手には傘、左手にはコーヒー。肩にはバッグ。これじゃあ襲われても対処できそうにないな。そんなことを思った。まぁ、こんな年増女を襲う物好きなんて居ないとは思うけれど。
大粒の雨が休むことなく傘を叩いた。防ぎきれない水しぶきが顔に当たった。もういっそのこと傘など手放した方が良いのではないか? そう思わせるぐらいには本降りだ。左手に伝わるコーヒーの温度と右手に握る傘の柄の温度差が身体に堪える。
それでも私は歩を進めた。新宿駅に行く。そして山手線に乗って帰る。そんな習慣的な感覚だけが私を歩かせている気がする。
新宿駅に着くとやはりそこはあの嫌な匂いで満ちていた。吐き気がする。早く通り過ぎたい。そして電車でさっさと自宅の最寄り駅に着きたい。そして家に着いたら熱いシャワーを浴びたい。そんな生理的欲求を詰め込んだ思考だけが頭の中を回る。
ああ嫌だ。どこで間違ってしまったのだろう。私は再びその思考の迷路に迷い込んだ。両親との確執。就職してからの十数年。目の敵にしていた水原雪乃……。忘れようにも忘れられない記憶が波のように寄せては返していく。それは今こうして降りしきる雨のように私の心に重くのし掛かった。残念なくらい重く。そして責めるように。
考えてみればヒロの言っていたことは当たっていたな。今更そのことに気づいた。ただ……。私が受け入れられなかっただけ。今はそう思う。水原雪乃の件はあくまできっかけに過ぎないのだ。問題があったのは私自身。他の誰でもないのだと思う。
きっと私はそう気づくさだめだったのだ。どうしても逃れることのできない。そんな宿命じみた何かに支配されていた――。
山手線のホームに着くと私はベンチに腰掛けた。そしてすっかりぬるくなってしまったコーヒーを口に含む。
さて――。これから私はどこに向かおうか? ふと、そんなことを思った。
もうあの会社には戻りたくないし、いっそのこと行く当てもなく旅に出ようか?
――そうだ。旅が良い。当てなどなくていい。自由にどこかに向かおう。そして美味しいものをたくさん食べて綺麗な景色をいっぱい見よう。それだけを目的にしよう……。
空を見上げると雲間から星が顔を覗かせていた。どうやら雨は上がったらしい。
私は目を細めて雲の切れ間を注意深く覗いた。夜空には今にも折れてしまいそうな三日月が浮かんでいた――。
秋川千鶴の場合 終




