秋川千鶴の場合35
「嵐は過ぎたみたいだ」
と光の人間は独り言のように呟いた。
「ありがとう。君の話はすごく面白かったよ。特にヒレ三日月のシャチと水族館脱走の話は良かった」
「そう……。喜んでくれたなら良かった」
どうやら僕はここから出られるらしい。まぁ、光の人間が勝手に言っているだけでクジラが僕を逃がすかは疑問だけれど。
「うん。まぁ色々大変だろうけど頑張って」
そう言うと光の人間は名残惜しそうに自身の胸に手を当てた。そしてその手は少しずつ彼の胸の中に沈んでいく。ゆっくりと。だが確実にその両手は胸の中に潜っていった。
僕はその様子を黙って眺めた。痛くないのだろうか? いったい何をしているのだろう? そんな疑問が浮かんだ。
でもその行為に対して「何してるの?」とは聞かなかった。巨大な白鯨の腹の中にいる得体の知れない人型のナニカ――。それだけで十二分に意味不明な存在だ。今更何が起こったって不思議じゃない。
「お礼に君に渡したいものがあるんだ」
胸を弄りながら光の人間はそんなことを言った。そして埋めていた両手をゆっくりと胸から引き抜く。
「これを……」
そう言って差し出された彼の両手には金色の木の実が握られていた。大きめのハマグリぐらいの大きさ。形は林檎やサクランボに似ている。
「これは……?」
僕はその果実を眺めながらそんな答えのなさそうな質問をした。
「これはね。特別な木の実なんだ。これを食べると良いことと悪いことの違いが分かるようになる」
「良いことと悪いこと?」
「そう! 言うなれば……。そうだね。君は人間に極めて近い存在になるんだ。善悪を自分で決めて行動できる……。そんな存在になるかな。ま、心配いらないよ。君はもう既にそれに限りなく近くなってるみたいだから」
善悪の知識の木の実。かなり胡散臭い代物だ。そんな話聞いたことがない。
「じゃあ元気でね。君の健闘を祈るよ」
光の人間はそう言うと僕の手にその果物を握らせた――。次の瞬間。クジラの体内は激しく揺れ始めた。そこで再び意識が途切れた――。
気がついたとき。僕は長い海岸線に打ち上げられていた。幸いなことに人間や他の天敵は居ない。
「ふぅ。酷い目に遭った」
僕は独り言のように呟いた。そしてある違和感に気づく。
僕の口から出たその言葉は獣のそれではなかった。明らかに人間のソレ。言語学的に言えば日本語だった。
『君は人間に極めて近い存在になるんだ。善悪を自分で決めて行動できる……。そんな存在に』
光の人間は確かそんなことを言っていた。
ああ、どうやら僕はラッコもどき。人間もどきになってしまったらしい――。




