菱沼浩之の場合13
ヒレ三日月のシャチは死そのものだった。海の死神。そんな名前がぴったりだ。きっと彼らはそんな肩書き欲しくないと思う。でも僕らラッコにとって……。いや、おそらく海に住む多くの生き物にとって彼らはそういう存在だった。彼らとの出会い。それ自体が死へと直結するのだから。
僕がヒレ三日月のシャチの背びれを認めたときにはすでに他のラッコたちは岩礁の上やら陸上やらに逃げていた。おそらく僕以外のラッコたちは防衛本能が高いのだと思う。(もしかしたらそれが普通のラッコの防衛本能なのかもしれないけれど)
だからヒレ三日月のシャチは僕目がけてやってきた。一直線に。何の迷いもなく。
きっとヒレ三日月のシャチは「あの馬鹿でのろまなラッコ野郎を昼飯にしてやろう」と思っていたはずだ。そこはある種の嘲笑があったと思う。
「恨むなら自分の間抜けさを恨め」そんな嘲笑。
僕はその空気を感じると同時に岩礁へ向かって泳いだ。決して間に合わない。それぐらいは分かった。この距離とシャチのスピードを考えれば数秒後に僕の身体は彼の口の中に収まっているはずだ。もしかしたら上半身と下半身に分かれているかもしれない。でも逃げないわけにはいかなかった。生き残りたい。僕の遺伝子を引き継いだ種を残したい。まだ言葉を持たなかった僕はそんなことを感覚的に考えていた――。
そこから記憶が飛んだ。意識が飛んだと言った方が正しいかも知れない。必死に泳いでいる間に意識がプツリと途絶えたのだ。認識出来なかったけどそれは『死』に限りなく近い感覚だったと思う。いきなり自我が途絶える。さっきまであった道が消える。そんな感覚だ。
でも幸か不幸か、僕は意識を取りも出した。取り戻した場所は僕の知る場所ではなかったけれど……。




