菱沼浩之の場合12
ラッコの話。なかなか興味深いと思った。しかもディスカバリーチャンネルとかでやっている『ラッコの生態』みたいなものとはまるで違いそうだ。
「聞かせてください」
少し考えてから僕はそう応えた。ラッコさんは「じゃあ……」と言って話し始めた。自身の生い立ち、そしてこの小さな貯水池に流れ着いた訳について――。
ライト文芸作家のラッコ『潮田楽尾』の話
あれはたしか西暦二〇〇〇年より前だったと思う。正確な時期はわからない。当時の僕にはカレンダーなんてなかったし、まだ言葉を持っていなかった。持っていたのは貝を割るための石と岩礁に囲まれた縄張りだけだ。
その岩礁はとても豊かな場所で潜れば様々な海の幸を手に入れることができた。ホタテにミル貝、ウニにアワビ。そんなふうによりどりみどりだ。特にホタテはお気に入りですいすい逃げるように泳ぐホタテを追いかけて捕まえることが僕のライフワークだった。まぁ、小難しく言ったけれど、ようは普通のラッコとして生活していたわけだ。人間諸兄が思うラッコのイメージでだいたい合っていると思う。
そんな普通のラッコライフを送っていたある日、僕はラッコライフ最大の危機に見舞われた。極端に大きくて黒い身体、背びれに入った三日月型の傷。口を開ければ大量の尖った歯が覗く。そんな海獣――。君たちの世界の分類で言うところのシャチと出会ったのだ。
シャチは僕たちの天敵だ。実を言うと当時の友達を何人も食われている。奴らはすごいスピードでやってきてあっという間にラッコを食べてしまうのだ。
人間諸兄は僕らがただプカプカ浮いているだけかと思うかも知れない。でもその実情はかなりリスキーだ。空からはワシに狙われ、陸に上がればキツネに襲われる。海は言わずもがな。僕は会ったことがないけれどホオジロザメはシャチ以上に危険な存在らしい……。
だからあのヒレ三日月のシャチに出会ってしまったときは死を覚悟した。そして同時に何が何でも生き残りたいと思った――。
ラッコさんはそこまで話すと深いため息を吐いた。そして怖いものでも見たみたいに身震いする。
「あれは本当に怖かった。菱沼さんはシャチをみたことあるかい?」
そう問われてふとシャチについての記憶を思い返した。シャチに対する記憶をダイレクトに探るのは生まれて初めてだ。
「たしか……。千葉の水族館で一回だけ」
「ああ、鴨川シーワルドだね。奴らの姿を見たことあるなら話は早い。あいつらはすごく大きくて素早いんだ。そしてそれだけじゃない。とんでもなく頭が切れるんだ。菱沼さん、もし自分よりずっと頭も運動神経も体格も優れた奴に命を狙われたらどんな気持ちになると思う? あれは……。もう二度と経験したくない。……。と僕は思う」
ラッコさんはまくし立てるように言うと「ふはぁ」と風船から空気が抜けるように笑い声を上げた。表情から察するにおそらく苦笑いしているのだと思う。
「ともかく、僕はそのとき死にかけたんだ。でだ。そこから僕の災難が始まった」
そう言うとラッコさんは難しそうな顔で目を閉じた――。




