六
私は、2つの紙袋を小脇に抱えて多少動かし辛くなった姫の手と口元を良く見ながら能へ伝えた。だから姫の手話中は基本、能の方を見ていないから、彼の表情を観察できなかった。今から思えば少し、残念だったね。
『私が勘違いした上にその場の雰囲気に飲まれて、イケナイ方向に進もうとしたのを止めてくれたんでしょ? 歌陰ちゃんと歌陽ちゃんから聞いたの。ありがとう』
「…………はぁ。………まぁ………自国の王族を守ることも丞相の務めですから。何も感謝されることではありません」
そこまで言うと、能は今度は叱るように言葉を続けた。
「…今後はお気を付けください。異性を刺激するような行為は慎まれるべきです。…異性というのは時折頭と体が離れてしまって、どれだけ頭で理性的に静止しようと考えても体が言うことを効かない場合という状況があるんです。…游さんが教えてこられなかったのかもしれませんが、女性的な振る舞いや王族らしい行動も視野に入れて行動してください。足が出るほどの動きをするのはあまりよろしくありませんし、そう誰の懐にでも入っていくのもよろしくありません。姫はご自身が思っておられる以上に……あの………」
途中まではスラスラと説教をしていた能だったが、最後近くで言葉が途切れた。どうやら最適な単語を選んでいるようだった。本当はきっと『綺麗だ』とでも言いたかったんだろうね。だけども、彼はそこで丞相たるプライドでもってその言葉を選ばなかった。
「ひ、……惹きつける力をお持ちです」
『分かった。まだちょっとよく分からないけど、気を付けるようにする。でもね、今はその話がしたいんじゃないの』
「……何です?」
『お礼をしようと思って。2種類買ったんだけど、どっちが好きか分からないの。今決めて。1コは能ちゃんのね。で、1コは紫ーちゃんの。紫ーちゃんは前買ったとき、どっちもオイシイって言ってくれたからいいけど、貴方は初めてだから分からないの。試食して』
私が「わぁい」と声を上げると姫は私の頭をフワリとなでられた。そうしてから姫は1つの紙袋を開かれ、中に入っていた、綺麗に1つ1つ包装されている丸い菓子を手に取られた。そしてそれを丁寧に剥がし始められた。以降の会話はしばらく、紙を剥がしながらの、ある時は片手で器用に表現しながらの、ちょっと大変なものになる。
「………は? ………いや、それ以前に。私のことを何と?」
『游が「能ちゃん」って呼んでた。「能ちゃん」でしょ?』
「………は?」
『游だけじゃないよ、村でも町でもみんな「能ちゃん」て呼んでるよ? ……だめなの? 私だけ、だめなの?』
…姫は能の反応に気が付くと動かしていた手をしばし止め、悲しそうな顔で能を見つめられた。泣き出しそうに瞳が潤んできていらっしゃったので、流石に真面目を貫く能も断り切れなかったらしい。
「………い、……い、いい……です……お好きなように」
『嬉しい! ありがとう! 「能ちゃん」』フフッ!
「…………」
そうして姫はまた手を動かし始められた。能は眉間に皺を刻んで顔を少し横へ反らしていたが…それは、たぶん、嬉しかったのだろうと思う。怒っているような表情に比して、彼は耳まで紅潮していたからね。フフッ。
透明の紙と銀の紙の二重にくるんである菓子は、綺麗に紙を取るのに少し時間がかかるご様子だった。姫は紙に苦戦し、視線を手元から外すことなく能へ言葉を続けられた。
『私のことも名前で呼んでね』
「………」
『…能ちゃん?』
「…………」
姫はここでまた顔を上げられた。
『……だめなの…?』
「……………もうっ……何だって…私がこんなっ………いつか呼びます!」
姫は能が更に紅くなりながら横を向いて言い放った言葉を聞くとにこりと笑われ、全部剥がした紙を懐から出した手の平サイズのゴミ袋にお入れになった。それからまたそのゴミ袋を懐へしまうと、能の方へ菓子を持った片手を突き出した。
『はい、マロングラッセ! 最近東境国から来たお菓子職人さんが色々新しいの売ってるの! 仕上げが白いお砂糖のと黒いお砂糖のとがあるの。白い方はサラサラしてて、黒い方はちょっとカタマリが残ってるの』
能は驚いたように姫の指とその先にある菓子を見詰めた後、また視線を反らして怒ったような声を上げた。
「い、要りません。私は職務を全うしただけで、賞(成果を上げた臣下、武勲を上げた臣下へ王が褒美として渡す物品など)を受け取る程のことでは……」
それを聞くと姫はクスクスッとお笑いになった。姫は昔から、声を出してお笑いになるとき、いつも人の声であられたなぁ…
『これはショウとかいう物じゃないよ。お菓子だよ。西洋のお菓子らしいよ。ハイ! 「あ~ん」して』
「…要りません! そんな…王族にっ……」
首を横に向けて真っ赤になり言い放つ能に、姫は少し悲しそうな表情をした。
…と、ここで、游さんが幸せそうな微笑みをたたえ、優しい声で能へ語り掛けた。
「能ちゃん。そう頑なにならなくても良いから。俺たちは王族とかそんなの、気にしたこと、ないからね。…勇気が出ないなら王命出そうか? …んー…『笑味あれ、丞相。我が娘ごと』。…フフッ、これでいい? 破ったら大変だよー」
パチリとウィンクを姫へ送る游さんに、姫はとても嬉しそうに微笑まれた。しかし…能は納得がいかない様子で。
「…『王族とか気にしてない』って言ってたじゃないですかっ! なのになぜそこで『王命』を出して来るんですかっ! 卑怯なっっ…!」
「ままま。いいから。食べてあげて」
「………」
能はもうこれ以上にくらい、首まで真っ赤になっていたが、『王命』と言われてはもう、どうしようもないと悟ったのだろう。真っ赤になったまま姫の方へ1歩近付くと、カシリと1口、お菓子をかじった。ところが…
『違うの! それじゃ周りの味しか分からないの!
游も言ったでしょ、私ごと…私の指ごとお口に入れて。
指、かんじゃってもいいから。
「あ~ん」して』
「うぅ……」
能がそれでも躊躇していると、姫は1度目を閉じた後、ゆっくりと開かれた。そうして何とも妖艶で美しい切なげな表情をして微笑まれ、一言。
『来て…?』
そう、手でおっしゃられた。
能は瞳をこれでもかといわんばかりに見開いた。その後、紅潮した頬に、少しトロンとした瞳をして。静かに、ゆっくりと、これまでで1番姫へ近付き…まるで吸い寄せられたかのように、姫の指ごと、菓子を口に含み、恍惚とした表情で目を閉じた。
…君は、『食虫植物』を見たことがあるかね?
私は、あるよ。
私がまだ東境国で東境王にお仕えしていた頃だ。東境王が珍しい物を見せてくれると言うので、後を付いて行って…そして、まるで宮殿の様な、王の持ち物たる植物園で。王が箸で置いた、羽をむしられた蠅。それをパクリと口を閉じるように包んだ、あの植物…その横で、自ら、ぽっかりと開いた葉の口の中へ落ちていくアリ、花を見ながら茎に溶かされていく小さいガ……とても恐ろしかった。怯える私を、王は無表情で一瞥して、食われた虫は花や葉の抗えぬ魅力に惹きつけられ、幸せの絶頂の中、ジワリジワリと目を見開いたまま溶かされていくのだと説明した。そして、虫もそれで本望だと感じているから何も苦しいことはないとも、言った。
…表現が悪いかもしれないがね。
姫の指ごと菓子を咥えた能は、まるで…そこに踏み込めば戻れなくなることは分かり切っているのに、抗えない魅力に惹きつけられ、それで死んでも本望だと思いながら、自身を苦しめる原因となる花にとまったか弱い蝶のようだったよ。
そして姫は、相手を苦しめることになることを知らない、無邪気な花のようだった。悪気がないんだろうことは、分かっているんだけどね。
姫は能の口の中に菓子が1コまるごと収まったのを確認すると指を能の口から戻された。能が目を閉じて味わっているのをご覧になると、嬉しそうに微笑まれ、能の口に振れた手とは反対の手でもう一方の紙袋から1つ、また包装された菓子を取り出され、包装してある紙を剥がし始められた。1度剥がすことで手慣れられたのか、今度は前よりも少し楽に菓子の包み紙を剥がすことができておられた。
その間、能は静かに咀嚼していた。しばらくすると少し目を開けて、少しうつむき加減で、少し…この世の物を食したとは思えないような至福の表情で…飲み込んだよ。自分の運命を覚悟して飲み込むようにね。
私はその時『幼かった』から。
――なぜお菓子を食べさせてもらっただけでそんなに幸せそうな表情をするんだろう――と不思議に思っていたよ。
能の方をじっと見ていたら、姫が紙を剥がし終わった菓子を持った手の甲で、私の肩をトンッと軽くお触れになった。
慌ててまた、姫の翻訳に戻ったよ。
姫は菓子を能の目の前に先程と同じように突き出した。
『もう1コ』
「………」
『さっきのは、黒いの。こっちは、白いの』
「…………」
『大丈夫? 来て』
そう姫がそう、頷きながら手話でおっしゃると、また能は姫の指ごと、菓子を口に含んだ。今度は何の躊躇もなく、いきなり咥えた様子だった。姫は嬉しそうだったが…能は、姫の指が離れる瞬間、もう1度、姫の指に食いついたかのように見えた。果たして、能がその時味わっていたのは、菓子だったんだろうかね?
『どっちがおいしい?』
姫が楽しそうに聞くと、また、目を閉じて味わっていた能はゴクリと飲み込み、しばし無言になった後、目を開いて、紅潮した頬を維持したままゆっくりと…これまでとは違った、優しく落ち着いた声で、柔らかい微笑みをたたえながら答えを出した。
「…………どちらも………甘いです。苦しい程に。……………私にとってはとても……とても、重いです。しかし。……ぜひ、………もっと底まで味わってみたいです」
『そっか、甘すぎたの。ごめんね、今日はコレしかないから…でも嫌いじゃないんだね、良かった! 今度もうちょっと控えた甘さのを買って来てあげる! じゃあ、今日はどっちでもいいんだよね。能ちゃん、いつも黒い服だから黒い方あげる! 白いのは紫ーちゃんね』
姫は能の懐へ1つの紙袋を押し込んだ。
私といえば、また「わーい」と喜んで、今度は姫へ向かって両手を差し出した。姫は嬉しそうに白いマロングラッセの入った紙袋をくださった。私は大喜びで抱えたよ。
すると、そこで游さんがその場にいた皆に声を掛けた。
「フフッ! これで王命は遂げたね、能ちゃん。
じゃあ、そろそろ再開しようか。
小夢、ありがとう、もう、部屋に行って? 俺は今日そっちに戻らないから、しっかり戸締りしといてね」
姫は游さんに抱き着いてギュッと力を込めておられたが、しばらくすると手を我々に振って、それから走って雯月殿を出て行かれた。
シャンシャンと良い音が外で遠ざかっていくのが聞こえたよ。
「ごめんねぇ。みんな。邪魔しちゃって。でも良い休憩になったでしょ。話、再開しよっか。えーっと…どこまでいったっけ…?」
游さんの再開の声が広い雯月殿に響いた。
私はお菓子を抱き締めて、その時游さんが大きな紙袋を置きつつ座っていた、王座に続く階段の2段目に腰を下ろし、游さんの顔を見詰めて次の指示を待っていた。
チラリと見てしまった、坦と能の姿。
坦は能に対して笑顔を向けていたが目は笑っていなくてまるでにらんでいるようで。能は坦に向けていつもの冷静な表情を向けていたが、口元はわずかに、笑っていて。
一触即発の状態に、幼い私は――事件の話を游さんが進めようとしているのに!――と怒りを覚えていたよ。
いやはや。




