三
離宮に坦が戻ると、外の景色を見ながら、日当たりの良い部屋で夢が絨毯へ横座りに座り、食べていいと言っていたお菓子の月餅(饅頭)をもっちもっちと食べていた。
「ただいま」
「みゃ~」
声を聞いた夢は、玄関の方に振り向いてニコッと笑った。坦はこの光景を見て、涙がこぼれそうになった。
普通に『ただいま』といって帰れる場所があることは、坦の長年切望した世界だった。そして、その『ただいま』に答えてくれたのが、出会ってからずっと追い求めていた女性だった。これ以上の幸せはないと思った。
それをこれから自分の手で崩さなくてはならない。それが苦しくて仕方なかった。
坦は、自分を押し殺して任務に徹底することにした。だから、必要のない会話は押さえなければならない。必要のない感情は押し込めなければならない。これは今まで他の土地で情報を聞き出すために使った女性たちと同じだ、そう、何度も、祈るように自分に言い聞かせた。
そして、無理矢理笑顔を作って夢に尋ねた。
「月餅美味しい?」
「みゃ~」
「アハハ! 笑ってるから、『美味しい』ってことなのかな? 俺も游さんみたいに分かればいいのに…それか、紫瑛みたいに、手で話せたらいいのになぁ……」
坦がそう言って夢の隣りに片膝を立てて座ると、夢は残りの月餅を口にくわえて坦のすぐ傍まで這い寄って来た。
ドキリとした。
猫が寄って来ているのではない。自分の求めていた女性がコビを売るような格好で寄って来ているのだ。これを喜ばない男はいない。しかも、服の仕様で夢の大きな胸の谷間が見えていた。坦は燃え上がろうとする心に、父親からの命令だ、と冷や水に匹敵する言葉を浴びせて鼓動の高鳴りを抑えた。
夢はそうして坦のすぐ前まで近寄ると、片手で月餅を食べ終えながら、片方の指で坦の胸に文字を書いた。
『オイシイ!』
「そっか。良かった」
『坦ちゃん、何くれるの? 游がイイモノくれるって言った!』
「物理的には…何もないかな…」
『物理的には』という言葉は、本心から出してしまった言葉だった。自分には、王位も財産も職もない。帰る故郷もない。あるのは音と情熱だけだった。これしかあげられない、と周りのライバルを見る度、悲しんだ。
そこでまた、坦は自身を取り戻した。
いつの間にか国家を忘れ父を忘れて恋に溺れかける自分を、これまでの経験から、何とかすくいあげた。
「え、あ、いや。何でもない」
『オイシイものじゃないの?』
次の坦の言葉を待って、目を輝かせて見つめる夢に、坦はもう、ここで仕掛けようと決意した。これ以上引き延ばすと、個人的感情が入る。
間に合わなかった紫瑛を少し恨みつつ、お前が姉のように慕う人を汚してしまう、すまない、と謝った。そして…
「俺的にはオイシイかな。でも…ちょっと、いや、すごく苦いかもしれない」
そう言って、坦は夢の両手をつかむと、床にゆっくり押し倒した。夢は少し怯えた様子を見せたが、すぐに無表情に変わった。
坦はそれを見て、あぁ、いつも通りだな、と思った。
坦が自身の気持ちを押し殺し、国家のためや父親のためを思って夢に声をかけたり触れたりするときは何故か、彼女は無表情になる。逆に、坦が彼女のことだけを想ってすること…例えば、言葉も振れ合いもないがただ好きな気持ちを一杯にして見つめていたり、目が合ったときに微笑んだりしていると、向こうも感情のある反応を返してくれた。
流石、龍の子と言われるだけある、人の心を鏡のように反射するみたいだな…と、そう坦は常常思っていた。しかし、心を読める人間なんているものか、夢ーちゃんはちょっと他のコと違った普通のコだ、と、思い直していた。
だから今回も、こういう表情でこういう反応をすることは、予想できていた。
そうだから、容赦もしないし、こちらも無感情だからといって引くことはしない、と決めていた。
坦は自分の編んだ髪を束ねていた紐を片手でほどいた。
長い髪はまだ絡みが残ったまま、夢の緑から青へと変化する不思議な髪の上へバサリと落ちた。坦は自身の髪と夢の髪をまとめて片手ですくい、そっと混ぜ落とした。
「…ねぇ、見て。夢ーちゃん。
俺の髪と君の髪が混ざった所。
緑と青の地に黒が綺麗に映えて…まるで、北の国で見られるとかいう、オーロラみたいだね。
ねぇ。
髪だけでもこんなに綺麗なんだもの。
もっと他の所、混ぜてみたいな、俺…」
そう言って、夢の顔に自身の顔を近付けた。
今までそうやって来たように、坦は紅潮しトロンとした優し気な表情を「作り」、切なげな声を「表現した」。
(…フッ……どうや! 俺の顔も声も最高の物を用意したった!
これでここまで言われて、何も感じんオンナはおらんやろ!
…頼む! 頼むわ!
これでもう、落ちてくれ!
反応を見せてくれ!
これ以上は、俺…自分が入ってまうんや!)
しかし…
坦の願いは、夢の、何の感情もなく虚空を見つめる稲妻のような瞳に引き裂かれた。
…坦は、つかんでいた腕を放しゆっくり顔を夢から遠ざけると、瞳を閉じて静かに細く長い息を吐いた。
(……ハァー………
そーかァ、コレでもアカンかー…
無理矢理は嫌いやけど、こんまま流れでいくかー……
あー…嫌われるんやろなー……
…それとも、意外と、夢ーちゃんは壊れてしまうんやろか…
游さんのこと好きやのに、無理矢理諦めさせたことになるもんな…
はー……
これで俺の一生、終わりや…
…
……
………
…………まだドキドキ、するんやなー……
あんなに自分を殺しまくったのになー……
ハァッ……
俺が……もっと、ええ男やったら!
俺にもっと、才能も地位もあったら!
親父の意図も国も入らんで、正面切って…純粋な気持ちで『好きや』『結婚してくれ』って言えたのに…
…ハァ……
最後や、俺!
今、全部、ありったけの俺を出し切って、すぐ切り刻むんや。それで親父の命令を遂行するんや。
……
………
……好き、だったよ。
好きだった、好きだった!
もう、俺の人生で君以上の女性は現れない!
どんなに他の女性で君を忘れようとしても、無理だった!
俺が君の笑顔を作りたかった!
俺を、游さんみたいに愛してもらいたかった!
游さんみたいに見つけたらすぐ駆け寄って抱きしめてほしかった!
心の底から抱き締め合える、そんな仲の夫婦になりたかった!
好きだった!
好きだった!
守ってあげたかった!
俺の全てをあげたかった!
俺の心も、頭の中で鳴ってる音楽も、持っている物全て、君にあげたかった!
好きだった!
愛したかった!
愛されたかった!
好きだった!
好きだった!
好きだった!
……
さっきの『ただいま』って言ったときの、あの光景…一生忘れずに生きていくよ。
さよなら…
もう、戻れないね……
…俺は、南境国が差し向けた、君への刺客さ。
君の心を刺し貫く。君の未来を粉々にしてあげる。
俺は、南境国の王子。
父の命令は絶対。
…だけど。
君1人の心を壊させない。
俺の心も砕いてあげる。
君を任務でモノにしたら、俺はきっと、もう、笑えない。
音楽もきっともうダメになる。
全てを無くすよ。
廃人同然になる。
だから、許して。
ゴメン、許して…
愛してる…
……
…よしゃ!
いこか!)
ところが。
そう固く誓って目を開けた坦は、予想していなかった光景に、体を引いてしまう。
「えっ……」
坦は「作って」紅潮させていた頬を、自然な紅潮に変えてしまった。
……目を閉じるまであんなに無表情で冷たい瞳をし、自分を見上げていた女性が、今は…
見たことのないような、真っ赤な顔をして、自身と坦の髪の混ざった所へ顔も目線も背け、坦がしていたように髪を混ぜて遊んでいた。
パサッ、パサッという髪を落とす音が静かな部屋に響く。
チラッと坦と目を合わせたこともあったが、自身の口に空いている片手をパッと持って行き、髪の毛をつかんだ手の方へまた目を向けると、口元にある人差し指の付け根を噛んで何かに耐えるように、身を固くした。顔はそれまでよりもっと紅潮していて、瞳も涙で潤んでいた。
(えぇえ!?
マジか!?
えぇえぇぇぇぇぇぇ…え、え、え………
ちょ…っと、これはっ…カワイッ…俺っ、どうしよう……
こんな……
何?
俺、えっ?
こんなんじゃ、命令っ……進めていけない……
えっ?
ちょっと待って! 待って!
俺っ……期待していいの……?
これ、据え膳状態?
え?
ちょっと、ねぇ?
えぇえ、どういう状態?
食えって?
食えってか?
いや、ウソだろ…でも、えっ?
うわぁぁぁ…判断できないっ!)
坦が今までにないほど全身真っ赤になり混乱している間も、夢は坦と自身の髪を紅い顔をして混ぜて遊んでいた。




