十
さぁ、時刻は巳時、正三刻(約、午前10時45分)。
祭の舞台で奉納踊りを見るように、人は山の裾野にある開けた場所に扇状に集まり、ざわめき合っていた。『集まった』と言っても、游さんの指示でこの場の舞台となる場所から大分離れていたけれども。
観衆が注視する視線の先には、藤で編んだ円柱形の椅子に座って馬頭琴の…彼の国の言語では『モリンホール』と呼ばれる擦弦楽器(弦をこすって音を出す楽器)の最終調節をしている、異国南境国の王子、坦の姿があった。
彼の楽器は祖国から持って来た物で、母親の形見だと言っていた。今では珍しい、馬の皮で作ってある逸品だった。
慣れた手付きで楽器を調節すると楽器を持ったまま立ち上がり、目の前に転がっていた竹と革で作ったボールを、自身の椅子に接するように足で転がし持って来た。
そうして、ボールの位置を決めると、椅子の上に馬頭琴を置き、自身の首辺りを触り、何かを首から外した。それは、首にさげる用の紐の付いた、筒状の容器だった。筒の蓋を開け、中の物を坦が振って出すと、それは太めの線香のように見えた。彼はそれを自身の椅子から少し離れた左右の場所に細かく折って山にし、山の中央に折らずに持っていた線香を立て、懐から出したマッチで火を点けた。因みに、『マッチ』はこの当時、誰もが持っている程流通していたが、『ライター』は一部にしか流通していなかったよ。そうして火が点くと、すぐに火を吹き消して、煙の出ている状態にした。
しばらく煙を見つめた後、筒を首に掛け直し、彼は椅子に静かに座った。そして見守る観衆に向かって手を上げ、ニコリと優しく微笑んだ。
察した観衆は自然にシィンと静まり返った。
それを確かめた後、坦は馬頭琴を両足で挟み、弓をあてがった。
何とも優しく美しい、ゆっくりとした音色が周囲を包んだ。時折入る、翻るようなメロディーと和音に、まるで坦の周りだけ温かで安らげる空間が広がっているようだった。それに加えて、虎の子どもが母親を捜して鳴くような、びゃーびゃーと聞こえる音や、母親に甘えて鳴く甘ったるく甲高いみゃあーと聞こえる音を、弦で上手く表現して出していた。そこに時折、低く優しく唸る母虎の声と聞こえる音を、絶妙なタイミングで入れていた。坦の奏でる曲が聞こえる範囲では、虎の親子が幸せ気に音楽を聴きながら戯れ、転がるようにして遊ぶ姿が、見えた。
離れた我が子を思い出して泣く者、亡くした親を思って泣く者、多数。
嗚咽をもらし、しゃがみ込む者、数名。隣りにいる、大切な家族の手を握り合う者、数名。
それぞれが家族を思って、坦の創り出す世界に酔っていた。
と。
酔いを覚ます物モノ、1頭。
準主役の登場だ。
皆、覚醒し、それまで潤んでいた目を見張った。
熊とも思える、大きな白虎が1頭。坦の背後の山から飛び出て、柔らかく薄い布が舞い落ちるように、見事な滑らかな動きで坦の目の前に着地した。瞳は寒空に浮かぶ凍えた蒼い月のよう。虎に浮き上がるシマは灰色に近い黒であり、このような彫刻がある、といえば信じる程の美しさだった。
白い虎は驚いた様子で首を高く上げ、周りを見回した。それから耳を動かしながら、首を高く上げた姿勢のまま、左へ数歩進んでウーォーンと1声鳴き、右へ数歩進んでウーォーンと1声鳴いた。
つまり、坦は虎自身まで騙す程、親子の虎が仲良く遊んでいる様子を生み出したのだ。
不思議がる白虎はそれでもしばらくボーッとしていたが、急にハッとして後ろを振り返った。そして初めて、敵意をむき出しにして、いつでも飛び掛かれるような前傾姿勢を取った。
ウヴォォォォォォォ、ォ、ォ、ォ、ン、ン、ン…
私を含め、西境国の人々は生で虎の威嚇した声を聴いたのはほとんど初めてだったので、その迫力に驚いて多くの人がビクリとなり半歩下がった。
それでも…游さんは動じず、坦の方を見つめていた。姫も游さんの後ろで坦を見つめていた。能は目を見開いてはいるものの、動いてはいない様子だった。とても強い人たちだった。
そして、坦は。何と、怯えも揺れもせず、演奏を続けていた。それどころか、虎の目をジッと見つめ、優しく微笑んで見せた。
白虎は前傾姿勢を変えず坦をにらんで、グルルルルルル…という恐ろしい、低い唸り声を上げた。ゆっくりと坦の周りを、坦を観察しながら回る。
グルルルルルルル……ヴォォッッ!
どれだけ白虎に威嚇されようとも、坦は演奏をやめず、優しく微笑み続けた。
と。
ヴォォォォォォォォォォ!!!
白虎はいきなり坦の左肩すれすれを跳び越え、背後に着地した。そして、また、背後から…
ヴォォォォォォォォ……
と低い音を出した。
すると坦は、振り向くことなく、これまでの優しい音色とは少し違った、速度の速い音を出し始めた。
グルルル……ヴォォォッ、ヴォォォッ……
静かに演奏する、坦。
微笑みは絶やしていない。
グルルルルル…
白虎は坦の右肩に顔を近付け、低く唸っている。
坦はそれでも、屈せず微笑んでいた。
そうかと思うと白虎は、今度はその坦の右肩を軽々と跳び越え、すぐに坦と向き合った。
また前傾姿勢を取り、ヴォォッ、ヴォォッ…と吠えたてた。
坦は前に跳んで来た白虎とまた対峙すると、微笑んだままの表情を崩さず、目を見つめた。
そこで。
白虎に少し変化が現れた。
時折、頭をブンブンと、憑き物を振るい落とすように振っている。
そして、頭を振っている間は、声色も微妙にク、ク、ク…と優しくなるのだ。
しかしてそれは今のところ、一瞬を繰り返すのみ。
またすぐにグォォォ、グルルルル…と恐ろしい声を上げ始めるのだ。
坦はそれを見ると、少し前かがみになった。
その瞬間。
白虎は片方の前足で、坦の弦を押さえる左手を狙ってひっかくような動きをみせた。
坦はその瞬間を見逃さず、左手を上げることでその攻撃を避けたが、その際に、何と、馬頭琴の弦を1本、白虎の爪によって切られてしまった。バツッという不気味な音が響いた。馬頭琴自身にも、虎の鋭い、三日月のような爪痕が、かすかだがスッと入った。この傷は後々も残り、この武勇伝から、坦の持つ馬頭琴は名器『虎爪』と呼ばれることになった。
白虎の攻撃を受けた坦は体勢を崩し、椅子から落ちた。ドサリという音と共に地面へ仰向けに落ちていった。椅子も傾きに耐えかねるように、坦が落ちた後、ゆっくりパタリと倒れた。
馬頭琴という楽器は、弦が2本のみで構成されている。つまり、彼は出せる音を半分失ってしまった。残された弦は、1本。しかも、坦は今、体勢を崩し、奏でやすい状況ではない。
そこへ、白虎は飛び乗るように坦の体をまたいで、顔を坦の顔まで近付けた。
グルルルルルル……グォォォォォォッッヴォォォオオンンッッ!!
坦の目の前で白虎は吠えた。
駆け寄ろうとする者や、念のため来ていた猟師が弓矢をつがえようとするのを、游さんは両手を広げて止めさせた。
まだ、坦に任せよう、というのだ。
そう。
見ると。
坦は、弦が1本になろうと、椅子から落とされようと、奏で続けていた。そして、微笑みもまだたたえたままだった。
ウ…ウウウウ……グルルルル……
白虎は相変わらず唸っていた。
ところが…
白虎は、ここにきて初めて、後ろへ下がった。
相変わらず、唸り続けてはいたが。
坦は白虎が下がるのを見ると、ゆっくり体勢を起き上がらせ、自身も立ち上がった。そして、片方の腿の上に馬頭琴を乗せ、器用に奏でつつ、しかし白虎からは視線を外さずに片足で移動し、転がった椅子を蹴って元の位置まで戻し、つま先で、倒れた状態から起こし、座り直した。ここまで、彼の演奏は刹那も途切れていない。
白虎はまだ唸っていたが、耳をたたんでいた。
そして、唸りはだんだんと小さく、短くなっていった。
それにつれて、白虎の前傾姿勢もだんだんと通常、猫が歩くような姿勢に変化していった。
しばらくすると、白虎はクルル、クルルル…と今までとは違った鳴き方をし、頭を下げ、耳をたたんで坦を上目使いで見つめつつ、彼の左側へ歩き、止まり、頭を坦の背中にこすりつけ、離れると、元来た道をたどり坦の右側へ歩き、止まり、頭を坦の背中へこすりつけた。
そして、今度は坦の真正面まで来ると、静かに座り、そのままゴテンッと横になった。
見ていた人々はオォ…と誰もが小さく感嘆の声を上げた。
しばらく横になった虎と坦は見つめ合ったままで、坦は早い調子の曲ばかりを弾いていたが、そこからまた曲調を変えた。
早い調子の曲は少し攻撃性があったが、今度はリズム感のある明るい曲想のものを奏でていた。
坦がいきなり、白虎に向かって、曲の合間に「みゃーお」と言うと、白虎も目を細めるようにしてウーォォ…と鳴いた。
白虎がウーオォ…と鳴くと、坦も「みゃーお」と返した。
そうしてしばらく2人で鳴きまねを繰り返したあと、坦は椅子の横に置いておいた、竹と革でできたボールの上に片足を置き、白虎がそのボールに注目していることを確認してから、白虎の方へボールを蹴り転がした。
すると白虎はやにわに起き上がり、ボールを追い駆け、捕まえると片手で遊び出した。
そのうち腹を見せるように上を向き、両手でボールを抱えるようにして回しつつ、噛んだり舐めたりするようになった。
私も観衆も、その頃には、白虎がただの大きな猫に見えていた。
白虎がボールでじゃれ遊んでいると、坦は急に、椅子の上に片足を置き、その上に馬頭琴を乗せて演奏をしつつ、片足で立ち上がった。そして、椅子の上で足のつま先をトントンッ! と鳴らすと、白虎はボールを放り出し跳ね上がって起きて坦の前に走り寄ると、目の前できちんと座った。
坦は椅子を、載せている片足で倒した。
必然、浮いた片足に、白虎は自身の背中をスッとあてがった。
白虎はそのまま坦の片足を乗せて、ゴロンと腹を見せて寝転がった。
坦の足は白虎の腹の上にあり、白虎の両の前足は軽く、優しく、坦の足をはさんでいた。
そこで、坦は演奏をゆっくりと止めた。
演奏を止めても、白虎は腹を見せたまま坦の足をつかんで転がっている。
坦は、我々の方を見た。
そうして、まるで演奏会に出演した音楽家のように、大袈裟な動きで、片手で馬頭琴を胸に抱え、片手は手の平を天に向けて横へ伸ばし、頭を下げた。
ワァァァァァァァァッ!
パチパチパチパチパチ…!
センセェー!
ヤッタァー!
スゲェゼ センセェー!
ほぼ全員が涙を流しながらこの勇気ある音楽家に大喝采と大声援をささげた。
游さんが動き出すまで、この大きな声と音の感動の波は、しばらく続いた。
…さぁ!
どうだったかね!?
君らの知っている物語と、違う所はあるかね!?
……そうだろう、そうだろう!
やはり私が語る方が迫力があるだろう!
ハァッハッハッハ!
…そうだ、私にも、教えてくれるかね?
最近は学校で馬頭琴を必ず習うそうだね。
それで、自身の使う馬頭琴には、この物語にのっとって、オマジナイをするそうだね。
なんでも、坦の馬頭琴にあやかって、上手くなるために楽器にワザと細い三日月のような傷を入れるんだとか。
それは、坦の名器の名前から、『虎爪痕』と呼ばれるそうだね。
あるいは、彼の名前から、『坦線』とも呼ばれて。
そして、彼がこの事件の後、美しい雌の白虎に与えた名前から…
『ライラ』
とも、いうそうだね。
それは、どこに傷を付けるものなんだね?
坦にも知らせてやりたいから、是非、詳しく教えてほしい。
名誉なことに、きっと彼も喜ぶだろうから。




