第二話
地上が近い。
着地する場所を見定めながら、リュート・ラグレスは竜の背を軽く叩いた。
灰色の竜は羽の動きを変えると、ゆっくり降下する。
その姿に気づいた人々が、何か叫びながら駆け寄ってきた。
いつものことだ。
この世に竜が存在することを知っていても、直に目にすることは少ない。ましてこんな辺境の村であれば、おとぎ話に近い存在だろう。
リュートは自分たちが「同胞」と呼んでいる空の住人の背から降りると、風除けの眼鏡を額に押し上げた。革の手袋を外しながら、遠巻きに見ている人々をざっと見まわす。さすがに北に近いだけあって、人種的な違和感はない。自分の黒髪も黒い瞳も珍しくないのだと納得する。
と、
「本物の竜?」
おずおずとした声が近くで聞こえた。
振り返ると、小さな男の子が少し離れたところから不安そうに自分と竜とを見比べている。
「ああ。本物の竜だよ。」
「じゃあお兄さん、竜騎士?」
『竜騎士』と言う古い言い回しに苦笑しながら頷くと、男の子は「すげー!」と目を丸くする。
それを合図に同じ年頃の子供が集まってきた。
みな好奇の瞳を輝かせながら、恐る恐る、羽を持つ灰色の大きな生き物を見上げる。
「襲ったりしない?」
「乱暴なことをしなければ大丈夫だ。叩かれるのは君らだって嫌だろう?」
一人の子供が「あっ!」と声を上げた。
「先生!」
「先生!見てみて!本物の竜!」
「コリル、そんなに引っ張らないで!」
不安げに取り巻く大人たちをかき分けて、女の子に手を引かれた男が輪の中に飛び込んできた。
年の頃は三十をいくつか越えたくらい。寝癖の残る茶色の髪に灰色の瞳が柔和な印象を与える。その眼鏡の奥の瞳がリュートの姿を認めて驚いた表情をした。
「おっきぃ……」
男の手を掴んだまま、女の子は竜を見上げる。
「ええ、立派な竜ですね。でもね、」と、彼はそこにいる子供達に微笑んだ。
「竜はこれだけじゃないんですよ。」
その言葉に驚いた子供達が辺りをきょろきょろ見回す。
リュートが空に向かって手を差し出した。
見上げる子供達の視界に、太陽の光を受けて白く輝くものが映った。それはゆっくり近づいて、そのままリュートの手に着地する。そのまま腕を子供の目線まで下ろすと、一斉に息を呑むのがわかった。
白い鱗で覆われているが、長い尾も指先に生える尖った爪も、何より金色の瞳と背中に生える翼は竜に他ならない。
ただし、手に乗るほど小さい姿形だが。
それに背後に控える竜と違い、全身が真っ白なのでむしろ神々しさを感じる。
「綺麗でしょう。これが銀竜です。」男は眼鏡を押し上げながら嬉しそうに言った。
子供達が顔を見合わせる。
「ぎんりゅう?」
「本で読んだことある!」
「大昔の生き物だよ!」
「でも……これ、生きてるの?」
「もちろん。今では数が少ない貴重な生き物ですが、こうして共に暮らしている一族もいるんです。ちなみにこの子の名前はフェス。」
小さな白い竜が「ぎゃう!」と鳴いて舞い上がる。
頭上を旋回するその姿に、子供達の歓声が上がった。
男がリュートに歩み寄る。
「いつ見ても綺麗な銀竜ですね、リュート。」
「お久しぶりです。トラン・カゥイ先生。」
「一年半くらい……ですね。」
トランの言葉にリュートは頷いた。
「それに名前、わかってしまいましたね。」
「父に聞いたら即答でした。そんなことを言うのはあなたしかいない、と。」
「カズトさんに会ったのですか?」
「話すと長くなるんですが、今はラグレスの家と父のところを行ったり来たりで……」
「そうですか。」
リュートが彼と出会ったのは、この村の近くの湖の岸辺だった。
湿原を擁するその辺りは夕景が綺麗なことで有名だが、いかんせん人里から離れているので訪れる人は少ない。リュートがその地を好むようになったのは偶然で、ようやく取れた休暇に口うるさい親族から逃げるにはもってこいの場所だった。そうして竜を繰り、一息ついたところで出会ったのが彼だったのである。
「おや。こんなところで人に会うとは珍しい。」
背の高い草をかき分け現れたのは、厚い上着をまとった男だった。足元も頑丈な靴で固めているのを見ると、ずっと歩いてきたのだろう。
年のころは三十がらみ。眼鏡の奥の灰色の瞳はたおやかな笑みをたたえている。
リュートは座ったまま目礼した。
その傍らに小さな白い生き物がいることに気付いて、男は首をかしげる。
「銀竜とは珍しい。そういえば先ほど竜が飛んでいきましたね。ひょっとして君は一族の方ですか?」
「そうですが……」
答えながら、通りすがりの男がなぜ銀竜を知っているのだろうといぶかる。
確かに竜と同じくらい古い時代から存在するがその数は減り、今や竜を繰る一族でも保有している者は少なく、まして普通の人となれば目にする機会さえ稀なはず。なのに彼は躊躇なくリュートの銀竜を「触ってもいいか?」と訊ねたのだ。
「綺麗な銀竜ですね。主人に大切にされているのがわかります。」
彼の手つきは銀竜に触れた経験のある者のそれだった。
「名前は?」
「フェス。」
「フェス。」
男の声に呼応するようにフェスがぎゃう、と鳴く。
「ぼくは竜の研究をしているんです。」男が言った。
「研究……ですか?」
「と、いっても自主的なものです。普段は子供達に勉強を教えてます。」
「ああ、先生。」
そう言われてみれば、違和感なく子供たちに勉強を教えている姿が思い浮かぶ。
何よりフェスが彼を拒否しないことが、リュートを安心させた。もし邪な気持ちがあれば、まず銀竜がそれを看破するはずである。
「よろしければ、お茶でもいかがですか?」
「ありがたく頂戴します。この時間になって冷え込んできましたからね。ぼくは近くの村に住んでるんですが、雪が溶けてようやくここまで来られるのが嬉しくて、つい歩きすぎてしまいました。」
「散歩にしては遠いですね。」
草むらに放り出した荷物から木のコップを引っ張り出し、即席の竃で沸かした湯が残っているのを確かめる。
「ええ、でも半日歩くくらいは散歩のうちだと思ってます。」
男はリュートの差し出したコップを「ありがとう」と受け取った。
湯気をそっと吸い込み、首をかしげる。
「このお茶……どこかで……」
少し考えて「ああ」と思い出し、微笑む。
「そういえば竜と共に空を飛ぶ一族でしたね。ラグレス家になんらか縁のある方いてもおかしくありません。」
今度はリュートが首をかしげる番だった。
「どうしてラグレスの名を?」
「以前にもいただいたことがあります。」火傷をしないように少し口をつけると、満足そうに頷いた。
「そうそう。このお茶です。カズトさんがいつも淹れていたのは。」
男の口からカズトの名が出てきて、リュートは驚く。
「カズト・ハヤセ……父を知ってるんですか?」
男が目を丸くする。
「カズトさんの息子……では君はリュート・ラグレス?」
ええ、と頷くのを、男は信じられない面持ちで上から下までじっくり眺める。
「あの……」
「ああ、そうですよね。」
すみませんと言って男は頭をかく。
「その……カズトさんから君の事を聞いたのがもう随分と昔で、どうしてもその感覚で子供だと思い込んでいたんです。」
「はぁ……」
「けれどあれから時間が経ってしまいました。君が大人になっているのも当然ですね。」
「一体、父とは……」
「同じ分野の研究仲間です。」
「あの時は本当に驚きました。ぼく自身、年を取ったのだと自覚しましたよ。」
部屋の明りをつけながら、トランはリュートに空いている椅子を勧めた。
と、いってもこの部屋に椅子はあと一つしかない。トランは物書き机の前にあったもう一脚の椅子を引っ張ってくると、テーブルを挟んでリュートに向かいに置いた。
トランの住まいは学校のある集落から少し離れた川のほとりにあった。
以前は川の番をしていた一家が住んでいたという建物は古く小さいが、中に入れば雨風をしのぐには充分快適なことがわかる。
トランいわく、
「川の水量も昔ほど多くありません。春の氾濫を心配する必要がなくなったのでずっと空き家だったんです。もちろん家族で住むにはいささか狭いでしょうが、一人で住むには充分ですからね。」
その言葉どおり、部屋には必要最低限の生活道具と山のような本しかなかった。
フェスが本の山を物色するように、ひらりひらりと部屋の中を飛び回る。
「好奇心旺盛なのはどの銀竜も一緒なんですねぇ。それで、今日はゆっくりできるんですよね。」
「ご迷惑でなければ。」
「迷惑だなんて。わざわざぼくを訪ねて来てくれたんですから。それにあのとき、約束しましたからね。」
トランは二つの杯と共に、古そうな瓶を持ってくる。
湖での別れ際、名前を尋ねたリュートに彼は「リラント」と答えたのだ。それが伝説の聖竜の名前であることは子供とて知っている。そう言うリュートに、彼はにこやかに言ったのだ。
「ではこうしましょう。ぼくの本当の名前がわかったら、取って置きのお酒をご馳走します。それまでの宿題です。」
リュートに辞令が下されたのはその直後だった。
その辞令に従い、それまでの十年ほとんど顔を合わせることのなかった父親の元で暮らし始めて、何の拍子にか飛び出したのが「トラン・カゥイ」という名前だった。もしやと思いリュートが湖で出会った人物の話をすると、父親は「なるほどなぁ」と呟いたのだ。
「伝説の竜の名前を持ち出したか。トランらしいといえばトランらしい。」
その時の様子を伝えると、トランは嬉しそうに微笑んだ。
「そういう言い方、カズトさんらしいですね。さて、と、ビキュ酒の三十年物です。」
「それは凄い。」
「子供達に竜を見せてくれたお礼も兼ねて。」
トランは注意深く栓を開けると、鼻を近づけて香りを確かめる。頷くと、ゆっくりと二つの杯に注いだ。
「こんな田舎では竜も一族も絵空事に過ぎません。だけど本物の竜と竜騎士、それに銀竜を見たことで、きっとこの先の人生が変わる子もいるはずです。」
「そこまで持ち上げられるとくすぐったいな。」
「何より、再会できたことに感謝しましょう。」
二人は杯を軽く重ねる。
年月を経て黒々と変色した蒸留酒は口に含むとアルコールの強さが薄れ、まろやかな甘みと上品な花の香りが鼻腔に抜ける。その後に訪れる緑を含んだ香りは、酒を仕込んだ土地の森に由来するものだろうか。
「十年物は何度か飲んだことがありますが……」
「ええ。飲むのを忘れていただけですが、時間を経た甲斐はあったようですね。」
トランは思いついたように抱えてきた包みをテーブルの上に広げた。水分の抜けた肉を薄くそいでリュートに勧める。
塩漬けし、乾燥熟成させた肉は塩味がきついが旨みが増し、酒との相性は抜群に良い。それにリュートが手土産に持参した、ラグレス家の料理人自慢の酢漬けもトランを大いに喜ばせた。
「カズトさんはお元気ですか?」
「相変わらず、あの調子です。」
「君は少し印象が変わりましたね。」
「髪を切ったからかな。」首筋を覆う黒髪をかき上げる。
少し伸びてきているが、以前は背中に達するほどだったと思い出せばとても短い。
トランはたった今気付いたように「そういえば、」と呟く。
「短いですね。でもそういうのではなく……なんというか……カズトさんに似てきた。」
「え?」
「もしかして好きな女性がいるのではないですか?」
は?と目を剥く。
「どうして……」
「どうやら図星のようですね。」くくっとトランは笑いをこらえる。
「今言ったでしょう。印象が変わったと。あのときの君は親戚に縁談を持ち込まれたり断られたりで、少々ふてくされていましたよね。」
「そういえばそうでしたね。」
「でも今日会った君は、むしろ余裕があるように感じました。だから精神的な支えになる大切な何かを得たんじゃないかと。その先はあてずっぽうです。もしかしたらフェスとは別の銀竜かもしれないし、役職を得たのかもしれない……とも思いましたけどね。」
はぁ、と息を吐き出してリュートは椅子の背に身体を委ねる。
「父があなたのことを優秀だと言ってたが、まさかこういうことまで当てられるとは……」
「一族の方ですか?」
「いえ。ですが契約が成立したので……」
「それは…」とトランの瞳が大きく見開かれる。
「おめでとうございます。でもラグレスの子息が結婚したという話は聞こえてきませんでしたが……」
「それはまだ。彼女がまだ学生なので正式な儀式は……」
トランは首をかしげた。
市井の人間ではあるが竜の研究をしている以上、一族のことは普通の人より詳しい。順番もだが、一族でない人と契約が成立する珍しさに気付いているのだろう。
リュートは苦笑する。
「どうやら、ラグレスには『普通』という言葉は通用しないようです。」
「そうですか。けれど君が選んだお相手なら、きっと素敵な女性なのでしょう。」
「自分にとっては。だからこそ……彼女を大切だと思うし、守りたい……と願ってます。」
「それで、ぼくにお手伝いできることはなんでしょう?」
「え?」
「何か言いたそうな顔をしてるなと。」
参ったな、と呟く。
椅子にかけてあった上着の懐から薄い紙包みを取り出すと、そのままトランに渡した。
「父からの手紙です。」
トランの瞳が一瞬大きく見開かれる。
そして手を伸ばすと、包みを受け取った。
2.5「ポートレート」で早瀬父子の会話に出てきた御仁の登場でございます。と言っても2自体がスルーされがちなんで、とりあえずちゃんと伏線はあったぞ、って程度なんですが・・・(^^;




