第三話
「写真の印象って……なんだったんだろう……」
「まぁだ言ってる。」ノートパソコンを繰りながら、小暮冴はグラスを傾ける。
「だって……」ダイニングテーブルの上に顎を乗せて、都は唇を尖らせた。
「気になるんだもん。」
魔性疑惑が晴れたあと、篠原明里が言ったのは、
「文化祭の写真部の展示見たとき、木島さんの写真が気になったのよね。」という言葉だった。
それがどういう意味だったのか。結局時間切れで聞くことができないまま、もう数時間で本日が終わろうとしている。
鬱屈した気持ちを持てあます都の姿に、冴は呆れたように言い放つ。
「だったら本人に聞けばいいでしょう。同じクラスなんだから。」
「だってほとんど話したことない人だし……」
「悪い人じゃないんでしょ。」言いながら、冴は缶に残っていたビールを全部注いだ。
いつもは仕事着と化しているジーンズのままでいることが多いが、今日はクライアントとの打ち合わせでスーツだったので、帰宅するなりパーカーとヨガパンツの寛いだ格好に着替えている。癖のある髪はまとめて頭の上でピンで留め、ピアスも外しているので装飾的なものは細いフレームの眼鏡のみ。
よほど順調な打ち合わせだったのか、夕食が終わっても時間をかけて手酌を楽しんでいるのである。
「もう一本呑みたいとこだけど……」
「二本目だよ。それ」
「怒られちゃった。」冴は肩を竦める。
「また最近、量が増えてきてる。」
「チェック細かいの、可愛くない。」
「お母さんと冴さんが酔っ払うたびに、大変な思いしてきたんだから!」
「さすがにあそこまで飲まないわよ。一人で飲んだって楽しくもない。」
「だから笙子先生誘ったの?」
「意気投合して花見しただけ。第一それ、都ちゃんが男追いかけてわけわかんない所に行ってる間の話でしょ。」
「すっごく、やな言い方なんだけど。」都は鼻の上に皺を寄せる。
「要約すればそういうことじゃない。」
「要約しすぎ!それにわけわかんない所じゃなくて、ちゃんとノンディーア連合国って国名あるの!」
あーそぉ、と冴は残ったビールを一気に煽る。
「でもこっちの地図には載ってないし、竜が飛んでるなんて普通じゃないわよ。」
「向こうでも珍しいけど、でも普通だもん。」
あ!と冴が何かを思い出す。
「そうだ!お菓子出すの忘れてた。」よっこらしょと立ち上がる。
「ごまかした。」
「取ってくるからお茶淹れて。コギンの分もあるからね。」
眼鏡の奥の瞳がにっこり微笑む。
「もー。」
仕方ないなぁ……と呟きながら、都は電気ポットの準備をする。
まるで親子のような掛け合いだが、都と冴に血のつながりはない。
それは見た目からも一目瞭然で、自分以下四名を擁するインテリア設計事務所を切り盛りする冴の姿は、エネルギッシュという言葉が似つかわしい。そのせいか彼女は四十三という実年齢より若く見られることが多く、それが一つの自慢になっている。
小柄でむしろノンビリした都とは対照的だ。
元々は都の母・朝子と学生時代から付き合いがあり、その延長でシングルマザーだった朝子を手助けし、やがて一緒に暮らし始めたのは都が小学生の頃。商業カメラマンだった朝子は仕事時間も不規則で留守が多く、しかも家事の才能がなかったので、食事から身の回りのことまで都に叩き込んだのは冴の功績といってよい。彼女が事務所を立ち上げて忙しくなってからは、都が二人をサポートする生活が続いていた。
それが突如終わりを告げたのは三年前。
母・朝子が仕事先の事故で亡くなったのだ。
もともと父親のいない都は天涯孤独の身になったのだが、冴が、
「いまさら遠慮したら怒るわよ。」と言ってくれたので、こうして今も一緒に暮らしている。
けれど母親を失った空白を埋めるのは、並大抵のことではなかった。
その時期の都の様子を冴は、「冬眠中の小動物みたいなもの」と揶揄する。
呆然としたまま思惑と違う高校に進学し、とりあえず写真部に入ったものの前向きに活動していたでもなく、人との付き合いもどこか消極的だった。
そんな状況のまま二年生に進級したある日。帰宅途中の公園で都は『黒い影』に襲われた。
その窮地を助けてくれたのが早瀬竜杜……現在の都の交際相手である。
しかし最初の印象は良くなかった。
女ばかりの中で育った都が男性に不慣れだったのもあるが、今は短い彼の黒髪が、当時は長くねていたのも背が高いのも目立ったし、どこかぶっきらぼうな言動も警戒するには充分だった。
けれど何度か助けられるうち、そして言葉を交わすうちに「悪い人ではない」と感じていった。その距離感は相手も同じだったのではないだろうか。
呼び方が「早瀬さん」から「竜杜さん」に変わった頃、都は再び『黒い影』に襲われた。
その時の記憶は曖昧で、ただ薄れる意識の中、駆けつけた竜杜が自分の名を必死で呼んでいたことだけは覚えている。
翌日、竜杜の父であり喫茶店フリューゲルの店主である早瀬加津杜に聞いた説明によれば、『黒き竜』と彼らが呼んでいる例の影は、都の血を欲し、そのため都は命を落とす寸前だった。それをつなぎ止めたのは竜杜の行った『契約』という行為。
「契約が成立すれば、力を相手に与えることができる。」
それにより竜杜は自らの体力を都に分け与え命をつないだのだ、と早瀬は言った。それは本来、一生を支え添い遂げるために『一族』が行う婚姻の契約なのだとも。
寝耳に水。
「それ、どこの国の習慣ですか?」
真赤になって慌てふためく都に、早瀬は追い討ちをかけるように言った。
「地図には載ってない、でも外国といわれればそんなものかもしれない。」
それは『門』と呼ばれる通路でつながれた、もう一つの世界。
国があり、人が暮らす営みはこちらの世界と変わらない。
ただ『竜』という種族が存在することを除いて。
竜は神話時代からの生き物で、人間が『地上の民』と呼ばれるのに対して『空の民』と呼ばれてきた。その地上と空の間にいるのが『一族』呼ばれる一派。
竜を召喚し空を駆ける彼らはまた、竜と意思疎通できる能力を持ち、その特殊な力は血筋で伝えられる。その古い血筋を守り、空と地上を繋ぐ役目を担い続けるために行うのが契約なのである。
本来は一族同士行う神聖なもので、なぜ都と竜杜の間で成立したのかわからない。けれど遥か昔、『向こう』の世界と『こちら』の世界を行き来していた人たちがいたのは事実で、その末裔が早瀬の家なのだと言う。
早瀬の家は代々『門』を守ってきた門番でもあり、その門番の末裔の早瀬加津杜と、一族の末裔であるエミリア・ラグレスが出会い、結ばれ、生まれたのが竜杜である。
「近年じゃ一族であっても竜と共に飛ぶ人間は減ってるし、門にいたっては向こうでも伝説の存在だから。」
だから空を飛ぶ『一族』であり『門番』でもある竜杜は稀有な存在だ、と付け足した。そして契約を白紙にすることは前例がなく、不可能に近いということも。
都が頭を抱えたのはいうまでもない。
そもそも「早瀬竜杜」と「リュート・ハヤセ・ラグレス」、どちらも本名だといわれて素直に納得できるものでない。それに彼氏いない歴=年齢、かつ男性免疫がマイナス指向の自分がいきなり結婚だなんてどうかしている。
そんな都の様子に、竜杜も無理に関係を求めることはしなかった。それどころか契約が都を苦しめるなら別の道を歩んでも構わない、とまで言ったのだ。
「別の…道?」
「嫌だと言えば、俺は都の前から消える。その先一生、出会うことはないだろう。だがもし一緒に歩いてくれると言うのなら…俺は君を守りたい。」
そのときは半信半疑だった。
けれど今ならその言葉が彼の本心だと理解できる。それは後に彼の周辺の人々から聞いたことでも確信した。
当時の彼は命を助けるためとはいえ、契約という枷で彼女を繋いでしまったことをひどく後悔し、普段以上に無口になっていたという。だからもし都が竜杜の手を離していたら、言葉どおり今頃彼は都の前から姿を消していただろう。その先二度と会うこともなく。
それが彼なのだ。
真っ直ぐで、強くて、時々そっけなくて、けれど優しい。そして都のことをいつも気にかけてくれる。
それが早瀬竜杜であり、リュート・ハヤセ・ラグレスなのだ。
そんな彼に「お付き合いからでいいですか?」と言ったのは昨年の秋の頃。
彼と言葉を交わすうち、彼が竜と共に駆けているその空を見たいと思うようになったのは自分でも意外だった。
それに『黒き竜』と呼ばれる、はるか昔『向こう』の世界から追放された竜の思念を宿す男と竜杜が対峙したときの事は、今思い出してもぞっとする。
もしここで竜杜に何かあったらという不安。もう誰も失いたくないという祈りにも似た気持ち。そして何より、自分は彼と別れたくないという確信。
そんなごちゃ混ぜになった色んな感情が都の背中を押し、竜杜も改めて都に「契約して欲しい」と気持ちを伝えたのである。
そんな中、当時仕事の都合で単身赴任中だった冴が帰宅した。
彼女にはメールで「お付き合いしてる人がいる」としか言ってなかったので、多少の波乱はあるだろうと予測していた。冴は都のことを知り尽くしているから、彼女が誰かと結婚を前提に交際するなんて「ありえない」ことだとわかっているのだ。
帰宅し、問い詰めるように経緯を聞いた冴は、案の定激昂した。
「異世界だとか契約だとか、受け入れられると思ってるの?」
その言い分もごもっとも。
けれど都は反発した。
そこまで反抗したのは、物心ついて初めてだったかもしれない。
結論を言えば、早瀬の旧友・宮原夫妻の手助けもあり、冴は都が竜杜に命を支えられていることを理解してくれた。
それに一連の出来事きっかけに都の中でくすぶっていた感情があふれ出したのも、結果としては良かったのだろう。
母親の死の直後は不思議と出なかった涙が、その時はとめどなく流れた。溜め込んでいた澱を吐き出すように、都は竜杜の腕の中で思い切り泣いた。しゃくりあげる肩をなでてくれる手の暖かさに、都は自分が失ったものと新しく得たものを実感していたのかもしれない。
それが半年前のこと。
「やっぱ美味しいわ。ここのカステラ。」淹れ立てのほうじ茶をすすりながら、冴は満足そうに頷いた。
「これって、駅からフリューゲルに行く途中の和菓子屋さんでしょ?」都は包装紙を丁寧に畳む。
「栄一郎さんが薦めるからお遣い物にしてるけど、けっこう評判いいのよ。餅菓子もおいしいんだけど…コギン、苦手だもんね。」
「苦手って言うか、お餅おもちゃにしちゃうから。伸びるのが面白いみたいで。」
テーブルの上で小さな白い竜が小首をかしげる。
都はカステラを半分にちぎると、差し出された爪の生えた小さな手に渡した。
「も少ししたら水羊羹も並ぶわよ。」
「それ、丸呑みしそう。」
うぎゅ!と鳴きながら小さな竜はカステラをかじる。
生まれて間もないこの竜に、「コギン」と名付けたのは都自身だ。
竜杜から手渡されたときは小さかったが、半年経って今はすっかり大人の大きさまで成長した。と、いっても小さな猫程度。それが銀竜の大きさなのだ。
身体は全身真っ白で、すべすべの鱗はまるでサテンのような滑らかさ。金色の瞳と背中に折りたたまれた羽が、この世界の生き物でないことを物語っている。それゆえおおっぴらにできないのは当然のこと。それでも冴が「トカゲかカエルなら小学生だって飼ってるわよ」と潔くこの小さな生き物を受け入れてくれたことに、都は感謝している。
しかも最近では、晩酌時に二人でつまみを分け合っている光景も日常的になってきた。
「そういや、竜杜くん、来週こっちに来るんだって?」
「え?そうなの?」
「やっぱり聞いてなかった?忙しくて連絡してないんだろうって早瀬さんが心配してたけど……」
「多分、近くなったら言ってくると思う。」
数日前に予定を伝えてきたとき何も言っていなかったのは、目の前のことで忙しいのだろう。
それよりも訪問先に見知った名前を見つけたほうが、都は気にかかった。
「っかしこないだ高校に入ったと思ったらもう三年か。早いもんだわ。」
「と、突然なに?」
「それ。」と冴はテーブルに放り出してあるものを目で示す。
「あー、進路調査。どうしよう……」
「進学してもいいって言ってるでしょ。朝子の残したお金も少しあるし、その辺は遠慮しなくていいわよ。さすがに医学部は無理だけど。」
「そもそも理系の頭じゃないもん。」
「そりゃそうだわ。って、何よコギン、まだ食べるの?」
うにゅ、とコギンが冴に向かって頷く。
それを眺めながら、都はそっと溜息をついた。




