第一話 時司堂(ときじどう)
雨音に小川は顔を上げた。
窓に近寄って空を覗き込む。
物凄い勢いで流れる厚い曇の間に、時折見える青空。
この様子ならすぐに止むだろうと見当をつける。
と、鈴の音と共に扉の開く音。
「いらっしゃい……」と、言いかけて慌ててカウンターの内側から乾いたタオルを引っ張り出す。
「急に降ってきましたね。」
どうぞ、と言ってタオルを差し出す。
「すみません。」相手は言ってジャケットの雨粒を拭く。
若い男だった。
短い髪に背が高いのが印象的。
「走れば大丈夫だと思ったんですが……」
「急に降り出しましたからね。どこでもどうぞ。」と声をかけると、彼は迷うことなく窓際の席を選んだ。
もともと古い日本家屋を改築したこの喫茶店は、その頃の名残があちこちにある。まず入り口が開き戸でなく引き戸であること。そしてやけに窓が多いこと。
昔は戸板をはめていた土間の部分も店にしたので、開口部が多くなってしまったのだ。もちろん構造的な問題もあって全部は無理だが、一部分は床から鴨居までの掃きだし窓にした。その窓から見えるのはうっそうとした竹林で、それがまた日本的な借景になっている。
それに「ときじどう」という店名も当初から「まるでコーヒー屋らしくない」と言われたものだ。
だからと言って抹茶があるわけでなく、メインはあくまでコーヒー。
「この店……昔と変わりませんね。」
二種類あるうちの、酸味を利かせたブレンドをオーダーした後に彼が言った。
「以前にも?」
「ずっと昔。子供の頃に。」
そうだろう、と小川は頷く。
この店を開いたのがもう三十年前の話だから、そういう客も珍しくない。当時学生だった常連客が、最近では孫の写真を持ってくるのだから、自分もその分年を取っているのだと実感する。
けれど店内は内装もレイアウトもほとんど変わってない。店名の由来となった店の入り口近くに置かれた大きな柱時計は何度か修理したがまだ健在だし、外から隔離されたような静けさも、そして客のために淹れるコーヒーもその香りも昔と変わらない。
否。
変えていないつもりだ
コトリ、と民芸調のカップを青年の前に置く。
「最近ではネットで見たとかで、遠方からわざわざ寄ってくださる方もいるんですよ。まだ店をやってたんだ、ってね。」
「その気持ち、少しわかります。」
物腰の柔らかな声だった。
まだ二十代に見えるが、落ち着いた仕草がそれ以上にも思える。
平日の午後にこんな店にやってくることを考えたら、会社員ではないのだろう。それとも、わざわざ休みを取ってきたのだろうか。
ふと、どこかで出会ったことがある気がして振り返る。
その時。
窓の外を見ていた彼がスッと視線を落とした。ジャケットの袖をずらし、左腕の時計の文字盤を確かめる。
その仕草に、ずっと昔見た光景を思い出す。
「早瀬……さん?」
え?と青年が顔を上げる。
「あ、すみません」
思わず声に出してたか、と小川は苦笑する。
「独り言です。少し……古い知り合いに似ていた気がしたので。」
「知り合い……ですか。」
「もうずっと前に亡くなった方です。失礼しました。」
いいえ、と青年は柔らかな笑みを向ける。
「自分も早瀬、ですから。」
記憶の中の季節は夏。
うるさいほどのセミの声に、竹林の緑が濃い影を落とす。
彼はカップを手に取るとコーヒーを口に含み、にこりと微笑んだ。
「美味しいですよ。」
「よかった~」思わず小川は肩の力を抜く。
「そんなに緊張しなくても……」
白髪を蓄えた男は困ったような表情をする。
「だって早瀬さんがこの店に来てくれたの、ようやくですよ。」
「そうは言ってもぼくも店があるからねぇ。」
お互いさま、と老齢の先輩は微笑む。
その笑顔はそのまま、向かい側に座って一心に絵を描いている男の子に向けられる。
「お孫さんですか?」
「息子が一時的にこちらに戻っていてね。」
「外国にいらっしゃるんでしたっけ?」
まあね、と早瀬は曖昧に頷く。
「海が見たいというから……」
「海……まぁ、江ノ島も鎌倉もここからなら近いか。」
「この子にとっては初めての海なんだ。」
「初めて……ですか。」
小川はきょとんとする。
今時そんな子供がいることに驚く反面、日本だって海なし県があるからそんなものかと思う。
「海のないところに住んでるもので、息子の奴も説明に苦労したらしい。」
男の子はクレヨンでスケッチブックに空と海を塗りつぶすと、黒い瞳で満足げに祖父を見上げる。
「竜杜、氷が解けないうちにいただきなさい。」
「はーい。」と答えて、男の子はソーダの入ったグラスを両手で支える。
そうだ。
「確か竜杜くん、と。」
「よく覚えてますね。」そう言って彼は苦笑する。
そうして見れば、確かにあのときと同じ笑顔だと気づく。
「君は覚えてないでしょうけど、早瀬さんのお通夜で君を捜す手伝いもしたから。あのときは……」
「その話は勘弁してください。」
参ったな、と竜杜は短めの髪をかきあげる。
「実家に帰った後、母からも随分叱られました。他所様に迷惑をかけるんじゃない、と。」
「しかし、よくここがわかったね。君が早瀬さん……お祖父さんと来たのは一度きりだし、もう随分昔だ。あの時は六歳くらい?」
「七歳だったかな。十九年前ですね。」
今二十六だと聞いて、そんなに時間が経ったのかと内心驚く。
「最近家の古いものを整理していて、祖父宛の手紙が出てきたので。」
その中の住所と記憶を頼りに、たどり着いたのだと言う。
「来てみたら昔と変わってなくて安心しました。」竜杜はぐるりと店内を見回す。
「君のお祖父さんの店もそうだったよ。わたしはあの店に憧れて、この店を始めたんだ。」
小川は大正時代に建てられた、戦災を免れた洋館を思い出す。重い扉を開けると、そこにあるのは天井の低い、時間を封じ込めたような空間。出迎えてくれるのは白髪を蓄えた店主の柔らかな笑顔とコーヒーの香り。
何もかもが懐かしい思い出だ。
「今でも時間が止まったようだ、と言われます。」
小川の手が止まる。
「フリューゲルは閉めたんじゃあ……」
十五年前、店主が亡くなったと同時にやめたものだと思っていた。だから確かめることもしなかったが……。
「十年ほど前に父が再開しました。」
「加津杜くんが?彼、東京に戻ってきてたのか。」
「単身赴任のような形ですけど。」
そうか、と小川は息を吐き出す。
脳裏に浮かぶのは、喪主の席でずっと黙り込んでいた背中。死に目にも会えなかった、と慰問客のひそやかな声が教えてくれた。
その彼が継いだのだとしたら…
「君は……」
え?とコーヒーを飲んでいた竜杜が顔を上げる。
「フリューゲル、いずれは継ぐのかい?」
「それはまだ。」
「お父さんが頑張ってるんじゃ、手を出す隙もないか。」
「ええ。でも今回まとまった休暇がとれたので、しばらく見習いで店にいるつもりです。」
「そりゃあ、いい!」思わず言った声の明るさに、自分で驚く。
「きっと早瀬さんも喜んでるよ。」
「だといいんですけど。とりあえず今は祖父の遺したものを片付けるのが精一杯で……これも、なぜか仏壇の引き出しから出てきたんです。」
竜杜は左腕にはめた金属ベルトの時計を小川に見せる。
「もしかしたらと思ったけど……」
「ええ。祖父の形見です。」
「よく動いたね。」
「近所の時計屋に持って行きました。機械式の時計は、手入れをすれば長く使えるらしくて。」
大別すれば腕時計はクォーツと機械式に分けられる。クォーツははめ込まれた水晶の発する電波周期にあわせて針を動かす仕組みで、電池を必要とするが、最近はこれにソーラーパネルを組み込んだものも多い。一方の機械式はぜんまいと歯車で構成される昔ながらの機構で、人の手でネジを巻くものだけでなく、装着している間にネジを巻く「自動巻き」と呼ばれるタイプのものもある。どちらも数年ごとのオーバーホールが必要となるが、構造的にも流行に左右されないため、時には部品を交換しながら何世代も使い続けることができる。
「この時代の国産時計はよいものが多かったからね。またこうして時間を刻むことができれば、時計も本望だろう。」
竜杜はオーバーホールしてくれた近所の時計屋の言葉を思い出す。
「バンドはさすがに交換したけど、本体はまだ大丈夫と言われました。」
「てっきりそのままかと思ったけど。」
「ええ。同じようなものを探すのに苦労したそうです。」
そうか、と小川は微笑む。
「それには早瀬さんの時間が詰まっているからね。」
「時間?」
「コーヒーを淹れるときもそれで時間を計ってた。だからかな。さっき君が時間を確認してた姿が早瀬さんと重なったんだ。」
「そんなこと、してたのか。」
呟きながら腕を目の前にかざす竜杜の姿に、小川はかつての先輩の姿を重ねる。
雨音が強くなる。
「もう一杯……せっかく来てもらったからご馳走するよ。」
「そういうわけには……」
「早瀬さんの……君のお祖父さんの分。それならいいだろう。」
「ええ……それじゃあ、お言葉に甘えます。」
「その代わりと言っちゃなんだが、報告してほしいんだ。小川はちゃんとコーヒー屋の店主やってる、って。」
それから一刻ほど、客が来ないのをいいことに二人は他愛ない話をして過ごした。
ふと、窓の外、木々の隙間から差し込む光に気付く。
「雨、上がったようだね。」
そろそろ、と言って竜杜も立ち上がる。
「またおいで。今度はその彼女と一緒に。」
「古いものが好きみたいだから、きっとここも気に入ると思います。」
そう言って外に出ようとして、足を止める。
「忘れ物かい?」
「もし……東京に出ることがあればフリューゲルにも寄ってください。自分はまだ見習いだし、父の淹れるコーヒーは祖父ほどではないかもしれないけど……」
「ああ。」小川は頷いた。
「そうだね。あの店に……会いに行くのもいいかもしれない。」
「驚くほど変わってませんよ。」
「望むところだ。」
そう小川が笑顔で言うと、彼は安心したように晴れ間の見える空に目を向ける。そうして軽く頭を下げてから歩き出す後姿を、小川は見送った。
がらり、と扉を閉める。
と、間髪いれずに開いた。
今度こそ忘れ物か?と振り返ると、
「相変わらず人がいねぇ店だな。」
よ、と作業着を羽織った男が手を上げる。
「何だ、拓さんか。」小川は常連客の姿に思わず肩の力を抜く。
「人が少ない時間にあんたが来るだけだろう。」
「そう言わず、いつもの奴。」
「アメリカン。増量でいいんだな、と。」
続けて入ってきた二人連れの客に気づいて笑顔で言った。
「いらっしゃいませ!」
予告どおり「コーヒーブレイク -アルラの門4.5-」第一話でございます。
えーと短編的な構成&毎週金曜日の更新を目指していきます。
気軽に読んでいただければ幸いです。




