第二話 うさぎ亭
ちりん、と鳴ったドアベルに、比奈は振り返った。
「いらっしゃいませ!」
言いながら、背の高い青年と小柄な少女の二人連れを認めて笑顔で迎える。
「いつもの席でいいのよね?」
「ありがとうございます。」
「こちらこそ、ご贔屓にしていただいてありがとうございます。」
壁際の、予約席の札が置いてあるテーブルに二人を案内する。
三十席にも満たないこの小さなレストランで一番静か、かつ雰囲気のあるテーブルである。糊の利いたテーブルクロスは本日はペパーミントグリーン。そしてガラスの一輪挿しに活けた花は黄色にオレンジうっすらかかった色で、傍らの白い陶器の小さなウサギを見事に引き立てている。
店名の「うさぎ亭」に引っ掛けて、冗談のつもりで置いたのが最初だった。
けれどそれが客に好評で、いつしか全部のテーブルで違う造作のウサギがお客を出迎えるようになっていた。何度か子供が気に入って連れ帰ってしまったこともあったが、可愛らしくかごに入ったり花に埋もれて戻ってきて、逆に恐縮するのがほとんどである。最近では客からの「ウサギ」の差し入れも多く、出番待ちのウサギが増えているのが悩みの種。
「そろそろウサギ専用テーブルが必要なんじゃないか?」と笑うのは夫の誠司。
五年前に突然会社を辞め「修行」と称して他の店で働いていたが、昨年、比奈の母親が入院したのをきっかけにこの店の正式な副料理人になった。といっても料理人は比奈の父親と誠司の二人だけ。しかもフレンチと看板を掲げながら洋食屋だった祖父の代から引き継いだメニューもあるので、「地元のちょっとおしゃれなレストラン」程度なのである。
そもそも古い商店街の横道に入った一軒家風の店は一見するとわかりにくく、訪れるのはほとんどが地元の常連さんか、そういう人達に連れられて来た人ばかり。それでも一度来ると家族経営の明るい雰囲気と静かな立地、それに気取らない料理に魅了されて通いたくなるのだ、と比奈は言われたことがある。
それは褒めすぎだ、と思うが当然悪い気はしない。
「ウサギの写真、撮ってもいいですか?ネットには使わないから……」メニューを受け取りながら、小柄な少女が遠慮がちに尋ねる。
「いいわよ。その代わり……」
「上手く撮れたら、データ送ります。」
「よろしくお願いします。」比奈はかしこまって頭を下げる。
「あの、でも期待しないで。」
「そんなことないわよ。今まで都ちゃんが撮った写真、少なくともうちの家族には好評よ。全部焼いてアルバムに入れて置いてあるの。」
「今までって……まだ四枚しか……それに比奈さんのレイアウトが上手だから。わたしインテリアとかディスプレイってわかんないし……」
「私だって素人から始めてるんだもの。あ、本日のお勧めメニューも持ってくるわね。」
手描きの黒板を取りにその場を離れる。
振り返ると彼女はコンパクトカメラを手に、腕を伸ばしたり身体を傾けたりしてシャッターポイントを探しているらしい。
その様子を、向かいに座った青年が優しい表情で見守っている。
二人が初めて揃って来店したのは今年の初め。まだ正月気分が抜けない頃だった。
その日予約の電話を受けたのは仕込み中の父親で、メモには「ハヤセ」としか書かれていなかった。けれど夕刻、今と同じように揃って訪れた青年の顔を見て比奈は首をかしげた。
どこでだか、確かに会ったことがある。
記憶を手繰り寄せながら、通り一遍の接客をしていた彼女に答えをくれたのは父親だった。予約客に気づくと厨房から文字通り飛んできて、満面の笑みで言ったのだ。
「いらっしゃい!竜杜くん。」
「竜杜くん?」比奈は鸚鵡返しに呟いて目をぱちくりさせる。
「早瀬さんが亡くなってお見限りだと思ってたけど、また来てくれて嬉しいよ。加津杜さんとは商店街の会合で顔を合わせてるけど……」
その言葉で、比奈の中の思い出と青年の顔が合致した。
「ああっ!」
「比奈!」
思わず声を上げた娘を、父親がたしなめる。
「竜杜くんって、フリューゲルさんとこの?早瀬さんちの竜杜くん?」
「今頃気付いたのか?」
「だって……こーんな、ちっちゃかったわよ。」
「そりゃ、二十年前の話だろう。なぁ。」
「誰かさんは三つ編みにセーラー服、でしたよね。」
「そうでした。あの頃はピチピチの高校生……って私のこと覚えてるの?」
「孫仲間って言ったのはそっちでしょう。」
比奈は記憶を辿る。
そういえば当時まだ存命だった祖父のお供をしたときに、まだ小さかった彼もその場にいたような気がする。
「言ったような気もするけど。」
「言いました。」
「断定するほど覚えてるんだ。しっかし、背、伸びたわねぇ。」
「そんなに小さかったか?」
「小さかったわよー。いっつも早瀬のおじいちゃんにくっついてたし……」
くすり、と笑いが聞こえる。
「ごめん。」慌てて少女が口元を押さえた。
竜杜がそっと息をつく。
「恋人の昔話がそんなに面白いか?」
へ?と比奈は目を丸くする。
今確かに彼は彼女のことを「恋人」と言った。けれど華奢で小柄、化粧っけもない少女はどう見積もっても二十歳より前にしか見えない。
けれど彼女はそれを否定するでもなく、
「だってリュート、あっちでもこっちでも同じこと言われてるんだもん。」
「まぁ竜杜くん、ある意味有名人だから。」
「その話はしなくていい。」
「いいよ。知りたかったら波多野くんに聞くから。」
「大地は知らないと思うぞ。」
「うーん、確かに微妙だねぇ。比奈、妙な顔してどうしたんだい?」
「リカーハタノの大地くんと知り合いなんだ……と思って。」
「ああ、それは……」といって竜杜が説明した内容に、比奈はもう一度目を丸くした。
「まさか竜杜くんが高校生と付き合ってるなんて、思いもしなかったな。」
その翌日、買い物帰りに竜杜の父親が経営する喫茶店フリューゲルに立ち寄った比奈は、正直に打ち明けた。
「だって竜杜くん、私の十コ下よね。早生まれだから二十五?」
「うん、じきに二十六。でも彼女、いい子でしょう。」比奈の前にミルクティーの入ったティーカップを置きながら、店主の早瀬加津杜が微笑む。
「いまどきの高校生ってわかんないけど……むしろ大人しめの感じかしら。」
年上男性と交際するようなタイプに見えない、という台詞はかろうじて飲み込む。
「しかも大地くんと同じクラスなんて……あの写真も、彼女が撮ったんですってね。」と壁に掛かったフォトフレームを振り返る。
「他にもあるんだけど、なかなか飾ること了承してくれなくてね。」
「なんで?」
「自分の中で納得出来ないんだって。いいのが撮れたら飾って欲しいって。」
へぇ、と比奈は呟く。
「真面目なんだ。じゃあ竜杜くんはそういうところが気に入ったのかしら?」
「それは本人に聞かないとわからないよ。」
「その本人は?」
「仕事で当分こちらには戻らない予定。」
はぁ?と比奈は声を上げる。
確かに店主の早瀬自身、十年前に店を継ぐまで別の場所で暮らしていたことも、結婚した相手が彼の地の女性であることも、そして一人息子の竜杜がそこで育ち、ここ以外の場所で仕事をしているのは周知の事実である。けれど竜杜がここ一年ほど、「仕事の都合」と称して店の裏にある実家にたびたび寄宿していることは知っていたし、彼女ともその間に知り合ったと本人達から聞いた。そういう時はたいてい半月から一月、長ければ数ヶ月滞在してるはずなのだが……
「こっちに戻ったのって、数日前よね?」
「まぁ忙しい盛りだし。」
「もしかして、彼女ともそんなペースなの?」
「今の所ね。」
「ちょっと彼女に同情しちゃうかも。」
「同情はともかく、うさぎ亭さんでデートできるだけマシなほうだから、そのときはよろしく頼むよ。」
その時は、言われた言葉の意味もさして意識しなかった。
が、次に二人が揃って来店したとき、何気なく耳にした会話の断片に比奈は耳を疑い思わず口を挟んでしまった。
「え?じゃあ、あれからずっと会ってなかったの?」
「あ、はい。春休みに入るまで。」
しかもその後会ったのが昨日ようやくと聞いて、比奈は思わず竜杜を見る。
「ちゃんと連絡は入れてた。」そっけなく竜杜は言った。
「それは、当然だと思うけど……」
「わたしもリュートが忙しいのは知ってるから。」
そういう問題なのだろうかと思ったが、部外者がそれ以上口を出せるはずもない。
けれどもやもやしたものが喉元に引っかかった感じがして、その日の遅く、店に程近い自宅マンションに戻ったところで比奈は誠司に言ったのだ。
「なんていうか、若いときの恋愛って、もっとこう、わーっと勢いがあって燃え上がる感じだと思わない?」
「そりゃ人によるだろ。」缶のまま発泡酒を傾けながら、誠司は新聞をめくる。
「都ちゃん、落ち着きすぎよ。」
「聞いた話だと早くに親御さん亡くして天涯孤独っていうから、それなりに辛い体験もしてきたんじゃないか?」
「でも彼女、保護者と仲いいわよ。」
「あー、デザイン事務所のボスだっけ。」
「ランチも何度か来てるけど、パキパキしていい感じの人。私、挨拶されたもん。」
「じゃああれだ、よっぽど竜杜くんのこと信頼してる。」
「そりゃ真面目っていえば真面目っぽいけど……でもまだ高校生でしょ。達観するには早すぎない?」
「だから人それぞれだって。それに彼、連休明けからフリューゲルの手伝いするそうだよ。」
えっ!と比奈は目を丸くする。
「だって仕事……」
「長期休暇が取れたから、しばらく見習いするんだと。案外彼女とのこと、真剣に考えてるんじゃないの?」
誠司の言葉に比奈は店での二人を思い出す。
料理に感嘆しつつ時に笑みを交わし、時には真剣な表情で話していた。目を覆いたくなるほど二人だけの世界に没頭しているわけでないが、傍目で見ても一緒に過ごす時間を心から愉しんでいるのだとわかる。
互いがそういう気持ちであれば、確かに話は早いのかもしれない。
「男は決断すると早いんだよ。」
「誠ちゃんも、会社あっという間に辞めちゃったもんね。」
「まだそれ言ってる。何年前の話だよ!」
「何年経とうと、あんなバタバタ忘れるわけないでしょ!」
「結果よければ全てよし、ってね。」
「まだ結果出てないでしょ。」
「サラリーマンより手応えはあるよ。」
「こっちは毎日ヒヤヒヤなんだから!」
「だったら厨房覗くなよ!」
「それじゃ仕事になんないでしょ!」
もうー、っと唇を尖らせる。
そんな会話のあった翌日、比奈は店のポストに厚みのある封筒を見つけた。
中から出てきたのはプラスティックケースに入ったCD-ROM。添えられたメモ用紙にはウサギのイラストが印刷されており、カラフルなペンで「楽しくて美味しかったです。」という文字が「木島都」の署名と共に書かれていた。
比奈はパソコン画面に再生された、ほのかな明かりに照らされたガラスのウサギの画像を眺めながらそっと思う。
きっと竜杜がフリューゲルを手伝うことは、二人にとって良いことなのだろう。
むしろそうあって欲しいと、思わずにはいられなかった。
「おなかいっぱい。今日も美味しかった、です。」
「ありがとうございます。でもデザートは別腹、でしょ?」
「はい」と頷く都の前に、比奈はハーブティー用のガラスのティーカップとポットを置く。
「竜杜くんにコーヒー出すのは気が引けるけど。」
言いながらこちらには、白いコーヒーカップを置く。
「まだコーヒー淹れるまでは到達してない。」
「勉強中なんだって。講習会に通ってるんだよね。」
「ああ、だから原付バイクで通ってるんだ。」
「こっそり観察でもしてるのか?」
「だってあそこのバイク屋、うちの旦那と仲いいもの。」
「これだから……」と竜杜は軽く息をつく。
「この辺で悪さはできない。」
「そーよ。特に前科者はね。」
「お待たせ。」
背後からの声に比奈は道を空ける。
シェフコート姿の誠司が、綺麗に盛り付けた皿を二人の前に置く。
都が感嘆の声を上げた。
「本日のデザート盛り合わせ。」
「きれい。」
「そういや、あれ、聞かなくていいのか?」不意に竜杜が都に訊ねる。
「大したことじゃないし……」
「いつも気にしてるだろう。」
「だって言ったら笑われそうだし……」
比奈と誠司は顔を見合わせる。
「そんな妙なことでもないだろう。それに、聞かなきゃずっと気になるだけだぞ。」
「そおよ。私たちで答えられることなら、遠慮なく聞いて。」安心させるように比奈は微笑む。
「えと、その……」小首をかしげながら都が顔を上げる。
「物凄く基本的なこと、聞いていいですか?」
「ねーお父さん、うちがレストランになる前の写真ってどこかにあったよね?」
「突然なんだい?」
「表に屋号がでっかく書いてあるやつ。」
「押入れの天袋に入ってるはずだが……」
「あーさっきの話。おれも見たい!」厨房を掃除していた誠司も飛び出してくる。
「誠司くんまでなんだい?」
「ええっと今日、竜杜くんが彼女と来てたでしょ。その都ちゃんがね、」
「物凄く基本的なこと聞いていいですか?」
そう言って都が切り出した質問は、確かに基本的なことだった。
「なんでレストランが『うさぎ亭』なんですか?」
大真面目な顔で聞かれて、比奈は一瞬唖然とする。
「だってフレンチだったら外国語っぽい名前とか……」
「もともと洋食屋だったから、だろ?」誠司が助け舟を出す。
「それは……祖父の代から。それに『うさぎ亭』にしたのは駅前の開発で、この場所に移ってからの話。」
「じゃあその前は?」
都の質問に、竜杜がポツリと答える。
「うさぎ屋。」
あ!と誠司が声を上げた。
「そういや、ご年配の方に『うさぎ屋さん』って呼ばれたことあるな。」
「うん。お祖父ちゃんが洋食屋する前は別の商売してて、そのときの屋号が『うさぎ屋』だったの。」
「屋号……ですか?」
「お店の名前みたいなもの。だから今でもご近所さんは『うさぎ屋さん』って呼ぶ人多いわよ。」
「子供の頃、祖父がそう言ってたの思い出した。」
「さすが老舗喫茶店の三代目だな。てかそんな話、おれ初めて聞くぞ。」誠司が眉を寄せる。
「そうだっけ?」
「わたし、てっきり誰かがうさぎ年なのかと思ってました。」
「初代はそうだったみたいよ。卯年生まれの鷺森さん。」
「鷺森?鳴海じゃないのか?」誠司が比奈の旧姓を持ち出す。
「うちってどういうわけか代々婿さんが継いでるのよね。父親もそうだし、あなたが継いだら次は笠木さんでしょ。」
「まぁーったく。」仕事着を脱いだ誠司がその時を思い出してぼやく。
「そういう話はおれがこの店に入ったときにしろよなー。料理人が何も知らないってマズイだろ。」
「言ったと思ったんだけどなー。」
「聞いてない!」
まぁまぁ、と父親が娘夫婦をなだめる。
「誠司くんにもいい機会だったわけだ。それで写真のこと思い出したのか。」
「うん。ついでにちょっと閃いたの。メニューの洋食のページひとまとめにして、写真も載せようかなって。」
「それは……」
「だめ?」
「逆、ですよね。」にやりと誠司が笑う。
「二人して何よ。」
「実はおれもこの店の伝統の味覚えたいから、ランチ限定で昔のメニュー復刻させようかって話してたんだよ。」
「お母さんの体調も落ち着いてきたし、新しいお客さんはむしろ新鮮に感じるんじゃないかって……誠司くんが言うんだ。そんなつもりなかったんだが……」
「私も賛成。お祖父ちゃんの時代うろ覚えだし、そういう機会があるなら便乗したい!」
「決まりだな。」誠司が嬉しそうに頷く。
「じゃあ明日にでもお母さんに言ってお祖父ちゃんの覚書と写真、探してもらうよ。」
「私も手伝う。企画書は……誠ちゃん作るの得意でしょ。」
「この人数で企画書なんているかぁ?」
「だって、フリューゲル専属のカメラマン納得させるのに必要でしょ。」
ああ、と誠司が呟く。
「ウサギの写真かぁ。確かにアレ、使いたいよなぁ。」
「だってこの子達も、店の大切なスタッフだもん。」
比奈は傍らのテーブルにいた木彫のウサギを手に取る。そうしてぐるりと店内を見回すと、そこかしこのテーブルの上のウサギたちが聞き耳を立てているような錯覚を覚えた。
「お店の歴史もだけど……みんなもちゃんと見てもらいたいもんね。」
そう言って、小さくウサギに頷きかけた。
のんびりしております。
そして前回の話で裏設定付け加えるの忘れてました。竜杜くんの使ってる腕時計は「グランドセイコー」という設定になってます。個人的にもあこがれてる時計なので…余談もよいところですね(^^;




