イマキューレー
今日は、午後一番の授業は体育だ。お弁当はすぐ食べ終わってしまったので、私は早々と体操着に着替え、体育館へ向かった。
まだ昼休み。男子が数名、バスケをしている。それを応援しているのか冷やかしているのか、見物の女子も集まっていた。
邪魔にならないよう、私は見物衆から少し離れた位置に移動した。
「――えっ、篠沢さん?」
「篠沢恵瑠夢だ!」
「うわ、細っ! 足、長っ!」
体操着姿の私を見て、女子の間からさわさわと声が上がった。
「……けど、寒くないのかな」
「半袖だよ。ひゃ〜、肌、白っ!」
――ギクッ。
しまった。そういえばまだ四月だ。しかも今日の気温は結構低い。普通の人なら、体操着の上にジャージを着ている。
元の私は暑がりだった。分厚い脂肪のおかげで、冬でもコートどころか、セーター一枚着たことがなかった。そして今の私は『篠沢恵瑠夢』、耐寒能力も完璧だ。つまり、よほど極端な環境でない限り「寒い」とか「暑い」とか感じることはない。
今までは自分の服装なんかどうでも良かったが――『美少女』としてはどうだろう? か弱く「寒〜い」とか震えなきゃ不自然ではなかろうか。まずい、不自然は良くない。悪目立ちしてしまう。
どうする。今からでもジャージを取ってこようか。それとも私は気にし過ぎか? みんなが他人の格好にそこまで構わないのなら――いや、私の感覚は普通の人とはズレているはず。ここは慎重に――。
バシュッ。
その時、爽快な音が響いた。
私も見物衆も、ハッとバスケへ意識を引き戻された。誰かがシュートを決めたらしい。女子は歓声を上げた。
色黒で背の高い人が、他の男子から笑顔で肩を叩かれたりしている。シュートしたのは彼のようだ。
誰かが叫んだ。
「イマキューレー!」
……イマキューレー?
何だそれは。呪文か?
叫んだのは女子だ。その声が聞こえたのか、色黒男が見物衆に顔を向けた。すると、その中の一人が彼へ手を振った。友達だろうか。
しかし色黒男は手を振り返すこともなく、そっけなく顔を逸らし、バスケへ戻ってしまった。
(……無愛想だなあ)
女子はそれでも、その後もずっと、色黒男を目で追っていた。そして時折、同じように叫んでいた。
「イマキューレー!」
……イマキューレーって、いったい……。
それから数日、私は昼休みを体育館で過ごした。
バスケをする男子も、それを応援する女子も、毎回微妙にメンバーが替わる。とはいえ例の色黒男がいることは多く、彼がいる時には必ず例の女子もいた。
そして時折、彼女は叫ぶ。
「イマキューレー!」
――謎の言葉だ、『イマキューレー』。
そんなある日の放課後。遅くなった私は、偶然体育館のそばを通りかかった。何気なく中を覗くと、もう誰もいない。
(……)
イタズラ心が湧いた。
私は体育用具倉庫からバスケットボールを一つ持ち出すと、片方のゴールの下に移動した。
そして、そのゴールへ――ではなく、遠く離れた反対側のゴールへ向かって、ポンッとボールを投げる。
ボールは綺麗に放物線を描き、吸い込まれるような超ロングシュートが決まった。
(おぉ〜っ)
凄い。さすが『篠沢恵瑠夢』。運動能力も完璧。
満足した私はボールを拾いに行き、さて帰るかと、くるりと振り向いた。――瞬間、硬直した。
なんと、色黒男がいるではないか。
(おぉ〜っ!?)
びっくりした。いつの間に現れたのだろう。
私はとっさに愛想笑いを浮かべた。
「あっ、バ、バスケ部の人ですか? ごめんなさい、勝手に!」
彼がバスケ部かどうか、実は知らないのだが、この時間にここにいるということはその可能性が高い。いや、ひょっとしたら私と同様、偶然通りかかっただけかもしれないが。
「……」
色黒男は、何やら驚いたように私を見ている。
返事がないので、私は彼をバスケ部員だと仮定したまま続けた。
「あの、すぐ片づけますから!」
私はそそくさと倉庫へ向かい、ボールをしまった。それからもう一度体育館へ戻ると、色黒男はまだそこにいた。
短めのさっぱりした髪、力強い瞳。きりっとした口元、健康そうに日焼けした肌。
改めて見ると、渋い二枚目という感じだ。ここ数日の言動から判断した限りでは、女子が相手だと無口になるタイプらしい。男同士では普通に喋っていたが。
「えーと、片づけました! それじゃあの、私はこれで……」
「――バスケ、好きなのか?」
「えっ!?」
なんと、色黒男が喋った。
まさかこの人が見知らぬ女子相手に口をきくとは思わなかったので、私は失礼なほど驚いてしまった。
「最近、よく見にくるだろ、昼休み」
「う、うん」
気づいていたのか!?
なぜだ。女子には無関心なはずなのに。
「けど……バスケ部じゃないよな? お前」
「うん……。見てるほうが楽しいから」
というか、体を動かすことに抵抗がなくなったのは、つい最近だから。
部活か……考えたこともなかった。
「……そうか」
「……」
沈黙が降りた。
(えーと)
私は今の質問の意味を考えた。
(――あ、ひょっとして、女子バスケ部に勧誘されるところだった?)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
今の超ロングシュートを目撃して、彼は『この子』に才能があると思ったのかもしれない。で、苦手な女子にあえて話しかけたとか。あり得る。それなら悪いことをした。
「えーと……あ、そ、そうだ、気になってたことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「……何だ?」
気まずい空気を何とかしたくて、私はここ数日の疑問をぶつけてみた。
「あの、『イマキューレー』って何? あなた、よく友達にそう言われてるけど」
「……」
色黒男は一瞬、眉をひそめた。
「……名前」
「えっ」
「俺の名前。今給黎、涼和」
「な……名前っ!?」
なんと、謎の呪文『イマキューレー』の正体はこの人の名前だったのか!
すると例の女子は、要するに「田中〜」とか「山田〜」とか言うのと同じように「今給黎〜」と叫んでいたのか!
「いまきゅうれい、くん? っていうんだ。へえ……いまきゅうれい……」
思わず何度も呟いていると、色黒男はちょっとうんざりしたような顔になった。
「下の名前でいい」
「えっ」
「言いにくいだろ……?」
「……」
これまでの人生で、彼はいったい、何度自分の名前を聞き返されてきたのだろう。
それにしても、ほぼ初対面の女子相手にこの人がいきなり「下の名前でいい」とは。
(――あ、ひょっとして、この人も気まずい空気を何とかしたいと思ってる?)
ふと、今度はそんな考えが浮かぶ。
苦手な女子に話しかけてしまい、何とか会話をスッキリ終わらせようとして、彼なりに気を遣ったのかもしれない。あり得る。それなら悪いことをした。
「えーと、じゃあ……涼和くん?」
「……ああ」
「うん、分かった。ありがとう。――あ、それなら、私のことも下の名前でいいよ」
このままでは不公平なので、私はそう言った。
「私は、篠沢恵瑠夢。よろしくね」
「……恵瑠夢」
色黒男は呟いた。
「……分かった。よろしく」
と言って、彼はかすかに笑った。




