ガトータタン
パン・ド・ジェンヌは、砂糖とアーモンドパウダーとコーンスターチ、そして卵やバターなどが主原料の焼き菓子である。この名前の意味は、フランス語で『ジェノバのパン』――どうやらイタリア・ジェノバ地方から伝わったものらしい。
これをリンゴのキャラメルソテーのフタにすれば、通常の小麦粉主体のスポンジケーキ生地を使うより、かなり贅沢な味になる。
(リンゴは一度取り出して……? ふーん、日本のリンゴはジューシーなんだなあ)
砂糖とバター、リンゴを煮詰め、果汁をある程度出した後、リンゴを除く。そして、砂糖が軽く焦げてキャラメル状になるまで加熱してからリンゴを戻し、そのキャラメルと絡めてソテーにする。
本場のリンゴは固くて酸っぱいらしい。だから途中で取り出す必要もなく、単に煮詰めればいいが、日本の場合はそうはいかない。柔らかい日本製リンゴは、煮ているうちに果汁がたっぷり溢れてしまい、水分がなかなか飛ばない。これがキャラメル化するまで加熱していたら、ピューレのようにグズグズに煮崩れてしまう。
――と、レシピには書いてあった。私はその言葉に素直に従いつつ、キャラメルソテーの鍋をじっと見張った。
昼休み。ランチトートと紙袋を手に、理事長室へ向かう。
由和さんにはこれまで、偶然遭遇したり突然呼び出されたりしてきたが、今日は珍しく前もって約束してあった。
……珍しいというか、初めてだ。
(私も突発的にザッハトルテを持っていったことはあるけど……)
よく考えたら、約束もしてないのにどうして一緒に何かしら食べているのだろう。気がついたらそうなっていた。
(もしかして、私……流されやすい性格?)
……。
(まあ、いいか)
職員室前を通り過ぎ、校長室前も通り過ぎ、理事長室前へ到着する。この辺りまで来ると、もう誰もいない。静かだ。
私は、いかめしいマホガニーの扉をノックした。
「――どうぞ」
由和さんの声が返ってくる。私は扉を開け、中へ入った。
「失礼します」
「よく来たね、篠沢くん」
彼は、今日は奥の書き物机ではなく、手前の巨大ソファーに座っていた。ローテーブルにはティーセットと、二段重ねの重箱が置いてある。由和さんの昼食だろう。
(……って、重箱!?)
「それ……由和さんのお弁当ですか? 豪勢ですね」
「君にだけは言われたくないが」
「ぐ」
確かに、量だけなら私のほうが勝っている。
「い、いや、えっと……ちゃんとごはん食べるんですね? これを平らげて終わりかと思いましたよ」
と、私は持参した紙袋を持ち上げてみせた。中身は、理事長様ご所望のガトータタンだ。
由和さんは重箱に目をやった。
「シェフがうるさくてね……。君、良ければ食べなさい」
「良くはないですよ」
由和家のシェフは正しい。放っておいたらこの人、スウィーツだけ食べて終わりそうだ。
「ふむ、仕方ない。自分で食べるとしよう」
「……」
あわよくば私に押しつけようとしてたのか? そして自分はガトータタンのみを平らげようと? 体に悪いぞ、理事長様。
「――座りなさい、篠沢くん」
「あ、はい」
私は由和さんの向かいに腰を下ろした。まず、お弁当を広げる。
今日は大盛りの海老ピラフ、鶏のハーブ焼き、タルタルソースを添えたサーモンフライ、マッシュポテト、トマトファルシなど。ガトータタンにふさわしく、何となくフランス風な気がしないでもない。
由和さんも重箱を開けた。
(……へっ!?)
私は目を疑った。
チキンライス、ハンバーグ、海老フライ、ミニオムレツ、ポテトサラダ……。
(……)
漆塗りの立派な重箱からは予想もつかない中身だった。
「……あの、何というか、お子様ランチみたいなメニューですね?」
失礼だとは思ったが、気づけば口が滑っていた。
「ふむ。シェフによれば、私が残さないメニューベスト5だそうだ」
怒った様子もなく、由和さんは静かに肯定した。
……苦労してそうだな、由和家のシェフさん……。
『残さないメニュー』ということは好物のはずだが、由和さんはあまり気の進まない様子で箸をつけた。スウィーツを食べる時のペースと全然違う。
(……そういえば、『普通の食事にはさほど興味がない』とか言ってたな)
もったいない。人として生まれた者には、食べる楽しみが与えられているというのに。その特権を、やむを得ず手放すような境遇にいるわけでもないのに。
私は違う。時間は有限だ、どうせ食べるなら楽しまなくては。
――決して、大喰らいの言い訳ではない。
今ここで食べられる喜びに感謝しつつ、私はフランス料理(?)を食べ進めた。
「ふむ。表面のキャラメルはフォークで割れる程度に薄く、粉々に砕けない程度に固く。このキャラメルが頑丈過ぎると剥がして食べる羽目になるからね。リンゴとパン・ド・ジェンヌもしっかり一体化している。果汁がよく染みているね」
「……」
普通に「美味しい」と言えないのか、この人は。
「やはり、表面はうっすらと飴の張ったような状態が理想だね」
「あまり見ませんよね……表面がパリッとしたガトータタン」
あまりというか、ガトータタン自体、お店で見たことがない。少なくとも私の行動範囲では。
(それにしても……よく食べるな)
人のことは言えないが。
重箱をつついていた時とは一転して、由和さんは優雅に快調にフォークを動かしている。
「失敗もたまにはしてみるものだ。世に新しい味を送り出してくれる」
「……タルトタタンは、失敗から生まれたお菓子ですもんね」
ガトータタンの元のタルトタタン――これには有名なエピソードがある。
むかしむかし、フランスはオルレアネ地方の田舎町ラモット・ブーヴロンで、小さな旅籠を営んでいたタタン老姉妹。ある日、タルト生地を敷かずに型へリンゴを詰めてしまったんだか焼き上がったリンゴのタルトを天板へ引っくり返してしまったんだかして、この逆さまのお菓子は偶然誕生した。
「けど、そんな有意義な失敗なんて滅多にないですよね」
「滅多に……? 『有意義な失敗』など、そもそも存在しないよ。あるのは、『失敗を有意義にする人間』だ」
「失敗を有意義に……」
私は呟いた。
「……『変な先輩を踏んづけた』という失敗は、どうしたら有意義になるでしょうね?」
「ん?」
「いえ、何でもないです」
「……」
由和さんは少しの間私を見つめ、口を開いた。
「よく分からないが、セクハラ・パワハラの類いなら届け出なさい。圧力を掛けてあげよう」
「圧力!?」
意表を突かれた。
というか、それ自体がパワハラじゃないか、理事長様!?
「い、いや、そこまでしてくれなくても!」
「そうかね? 圧力で足りないのなら、その先輩を停学・退学にしてあげるが」
「静かな声で物騒なこと言わないで下さい!」
職権濫用はスウィーツだけにしといて下さいよ、理事長様!
……いや、今のは私も悪かった。
(気持ちはありがたいけど……)
あんまり余計なことは言わないようにしよう。
今後の注意事項を胸に刻みつつ、私はガトータタンを口へ運んだ。




