第一話 追放令嬢と、冷たすぎる辺境伯
まるで黒いインクを溶かし込んだような薄墨色の空は、夕方という頃合いを差し引いても、十分に陰鬱な雰囲気を醸し出していた
王都を追い出された公爵令嬢の行きつく先としては、笑えるくらいぴったりの空模様だ。
そんな空を背景に聳え立つのは、うっすらと雪をかぶった、壮大な城壁。その向こう側から覗くのは、いくつかの無骨な石造りの塔。城門の前には、一糸の乱れもなく整列する鎧姿の騎士たち。
そこには王都の華やかな邸宅とは、まるで別の世界が広がっていた。
「ふう……やっと着いたのね」
アメリアは馬車を降りると、思わず息を吐いた。
「……寒いですね」
侍女が震える声で言う。
「お嬢様、本当に大丈夫でしょうか……」
ドレスの裾がぬかるみにつかないよう、気を配りながら、アメリアはゆっくりと周囲を見回した。
ーーいいじゃない。
転生したからには、一度来てみたかったのよね、北の辺境地とやらに。
すうっと空気を吸い込む。
北の空気は、思ったよりもずっと冷たく澄んでいた。
「きれいな空気だわ」
そのとき、騎士たちの列がピシリと音をたてたかのように左右に割れた。
長身の男が現れる。
全身を覆う黒い外套。
雪を踏みしめる軍靴の重い靴音。
真っ黒な鋼のような長躯は貴族というより、野生の動物のようで、広大な北の辺境さえもこの男には狭く感じるのでは、と思わせる。
北方辺境伯、クラース・ベルンハルド・フォン・ヴァルグレイ。
彼は馬車の前で立ち止まると、己よりずっと小柄なアメリアを見下ろした。
「はじめまして、辺境伯さま。王都よりまいりましたブライトナー公爵が娘、アメリア・ミストレル・ブライトナーでございます」
落ち着いたやわらかな声で、アメリアは優雅なカーテシーの所作をとる。
しばらくの沈黙ののち、低い声がアメリアの頭上に落ちてきた。
「帰りたくなったら、いつでも帰るがいい」
横にたたずむ侍女がひゅっと息を呑むのが聞こえた。
こんなとき、普通ならかけられるであろう、歓迎の言葉、遠い道中の労い……社交辞令すらもなく。
アメリアはゆっくりと顔をあげた。
ーーあら、王子とはまた違うタイプの……
そしてにっこりと微笑み、答える。
「では、辺境伯のご厚意、ありがたく」
居並ぶ騎士たちがざわつく。
「帰りたくなるまで、遠慮なく居座らせていただきます」
アメリアは城門に向かって、ゆっくりと歩きながら、改めて殺風景な荒城を見上げてみた。
ーーふふっ、いよいよ未知の世界へ……!
「おい」
呼び止めるクラースの声に振り返る。
「ここには王都のような娯楽も贅沢もない」
アメリアは振り返って、小さく首をかしげた。
「では、つくるとしましょうか」
「なんだと?」
「いえ、ひとりごとみたいなものです。ナタリー、私の荷物をお願いね。あ……」
さきほどから固まっている侍女を促しながら、アメリアはふと思いついたように、今一度クラースに視線を向けた。
「ご要望は、しかと承りました」
「な……俺は何も頼んでいない」
「詳細はこれから、ゆっくり伺います」
辺境伯が身じろぎしたような気配を感じたが、それにはかまわず、アメリアはずんずんと城の中を目指して、小さな足を動かしていった。
※
「ようこそ、いらっしゃいました。ブライトナーさま。私はヴァルグレイ家にお仕えする執事のアルフレッドと申します」
ここにくる経緯を思えば、大歓迎を受ける身ではないことは理解していたけれど、ようやく挨拶らしい挨拶を聞けたな、とアメリアは思う。
「はじめまして。アルフレッド。アメリア・ブライトナーです。どうぞ、アメリアと」
「恐れ入ります。北の地は伝統と慣習を重んじておりまして……では正式にご結婚されるまでは、アメリアお嬢様と呼ばせていただきます」
実直を絵に描いたような執事アルフレッドは右手を胸に当てながら、完ぺきなボウアンドスクレープを見せた。
「ふふっ。どう呼んでいただいても結構よ。ところで、アルフレッド、ここはもう室内なのに、なぜこんなに寒いのかしら」
玄関ホールはかなりの広さとはいえ、とてもじゃないけどこのままでは外套すら脱げない。
これなら、足元に火鉢を置いていた、ここまでの馬車のなかのほうが快適だ。
「はい、申し訳ありません。お嬢様がいらっしゃるということで、最大限に暖炉を燃やしてはいるのですが」
やはり、王都で快適に甘やかされたお嬢様は極寒の辺境にはなじめぬのだろうな……アルフレッドはこっそりと嘆息を噛み殺した。
「そう。それはどうもありがとう。では、あとで暖炉がどうなっているか見せてね」
「は? どうなっている、と言いますと……」
「ん? ああ、邸内にどういう配置で、どんな仕組みで暖めているのか、知りたいだけよ」
ーーとにかく寒いのは苦手なのよ……こちとら筋金入りの冷え性なんだもの。前世でも本当に苦労したわ。
靴下やババシャツの重ね着に半身浴、ポケットに入れた使い捨てカイロ……前世での冷え対策のあれこれが思い出される。
でも、残念ながらこの世界にはヒートテ●クもホ●ロンもない。
それにしたって、もう少し改善の余地はあるだろう、とアメリアはぐるりと周囲を見渡した。
石造りの家は基本的に冷えるものだけど、いちど暖めてしまえば保温効果は高いはず。なのにあのムダにデカい暖炉は、ただ火が燃えてるだけのシロモノだし……どうやら改善の余地は満載のようだ。
「かしこまりました。それではひとまずお部屋にご案内いたします。お風呂のご用意もできておりますので、いつでもメイドにお申し付けくださいませ」
「お風呂! それはうれしいわ!」
トランクに手をかけたアルフレッドに、アメリアはそれまでのクールな表情から一変して花のような笑顔を向けた。
「は、はい、それはようございました」
これは、気難しいのか、世間知らずの天然なのか……どうも先入観どおりのお嬢様ではないのかもしれない……アルフレッドは髭をいじりながら、得意の長考モードに入っていった。
※
「お嬢様、お荷物はこちらで適当におさめてしまってよろしいですか?」
「ええ、ナタリー、お願い」
実家の公爵家から連れてきたナタリーは乳母の孫娘で、友人のように気心の知れた存在だ。
といっても、その記憶は実際のアメリア本人から引き継いだものだけど。
ーーそう、私はこのアメリア・ブライトナー公爵令嬢に転生した。
旅ですっかり埃っぽくなってしまった外套を脱ぎ、暖炉の近くで少しでも暖をとろうと、オットマンに脚を伸ばして、アメリアはうーんと軽くのびをする。
ーーいきなり天蓋付きのベッドで目が覚めたときは本当にあせったわ。
アメリアに転生する前の自分は日本の外資系大企業で働く秘書だった。
それも超一流企業の優秀なキャリアを持つ秘書室室長であり、またの名をお局、またの名を社内警備隊長、またの名を接待隊長‥‥あの会社の日常は自分なくしては回らなかっただろう、と自信をもって言える。
ーーあーあ、秘書は天職だったのにな。
ようやく温もりの戻ってきた脚をさすりながら、アメリアは久しぶりに前世の記憶に思いを馳せた。
おもてなし大国・日本ならではの気配りと、本来持つ勤勉さと努力でキャリアを築いたけれど、マヌケな事故で短命に終わってしまった前世。
ーー前世では仕事ひとすじ、恋愛も結婚もこれからだったのに……それにしても生まれ変わったら公爵令嬢とはね。それもいわくつきの。
少しウトウトしはじめたアメリアは、王都の公爵家に生まれた自分が辺境伯に嫁ぐことが決まるまでの怒涛の1週間を思い出し、なぜか、ふふっと微笑んだ。
「お嬢様、お風呂の支度が整いました」
「待ってました!」
よし、まずはこの寒さ対策からじっくりとりかかりましょうか。
アメリアはぴょんと立ち上がると、いそいそと奥のバスルームへ飛び込んだ。




