貼り紙
1993年
ニョーボの親が名古屋で回転寿司のアトムボーイのFC店舗を5店舗展開していて業績は好調だったが、父親である社長が脳梗塞となったこともあり、この年にこのFC店舗を展開する会社「カクシン」に後継者として入社することになった。
そして、新事業として八事のジャスコでファミレスタイプの「とんかつ綾」という店をオープンして僕が店長となっていた。
ところで、この会社はもともと小さな雑貨屋や呉服店を家業としており、飲食店については実は社長・副社長(社長夫人)とも素人であった。
だから、しっかり考えがあって新事業を起こしたわけではないのが段々分かってきた。
古参社員は昔気質の寿司屋出身であったため、どうも食の素人の社長・副社長ともちゃんとした指導が出来ず、サラリーマン出身の僕がこの会社に来ることで古参寿司職人が反発していると脅されたようで、別事業を慌ててこさえていた。
そんな雰囲気があることに気が付いたのと、その頃は絶好調であったアトムボーイだが危うさも感じていた。それで、コンサルティング会社であるOGMのアメリカ研修で知り合った北海道で大繁盛店のグルメ回転ずしの「トリトン」や「なごやか亭」の社長と連絡を取って北海道へ視察に行っていた。
そして、アトムボーイからそのようなグルメ回転寿司への転換が急務であると感じた。
しかし、業績が順調であったのと本来は外食とは畑違いの社長・副社長ともそういった新しいことには関心がなく
「北海道だから観光客で流行っているだけでしょ」
とにべもなかった。
どちらも、北見市や釧路市が拠点なので観光客なんて来るわけないのに。
因みに、北見市が拠点のトリトンは札幌に進出し、今では東京のスカイツリーにも出店し、釧路が本拠のなごやか亭も札幌や関西まで出店し業界でも有数のグルメ回転ずしとして今でも時代を築いている。
どちらも、あの頃はお持ち帰りのお弁当屋や小さな飲み屋さんのオーナーから転身して寿司に関しては最初は素人だったがその後はグングンと会社は成長し大社長になっていった。
その一方で、残念ながら飲食業とはもともと畑違いで現場を知らないうちの社長・副社長は会社や飲食業の将来像というものも特になく、グルメ回転寿司には関心がないようで目の前の儲けが大事であるようだ。
そこで、グルメ回転寿司への転換は後の課題として、先ずはFC加盟をしている『アトムボーイ』の本部へ研修に行き回転寿司の実務を学び、アトムボーイ本部の今後の方向性も中に入って調べることにした。
それが1995年3月のことだった。
1月には阪神・淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件が起こるなど世の中は騒然としていた。
八事の店はたまたまホテルのレストランでウエイターをしていた人間が転職してきたので暫く任せることに。
ただ、「アトムボーイ」本部は僕のことをただのバイト代りのヘルプ要員のように考えており、いきなり長野・豊科での新店のオープン要員として派遣されることになってしまった。
その豊科店でパート・アルバイトと一緒に同じように一から働いていた。
そして数日経ち、女子高校生のバイトが結構なついてくれるようになっていた。
八事と違いここでは店長でもなんでもない。
そう言った気楽さでバイトに接していたところ色々教わった気がした。
店長と言う呪縛から解放されて一人の人間としてパート・アルバイトと接したところ彼・彼女達もそれに応えて一人の人間として接してくれた。
そして、ひょんなことで控室で女子高生とバカ話をしていた翌日の朝。
控室に入るとA3ぐらいの紙に太いマジックの大きな文字で『花谷のアホ 馬鹿、スケベ』との貼り紙がデカデカと張ってあった。
『へぇ~、間違ってないなぁ。正しいな』と思いながら破って捨てた。
その新店は僕の他にも他のFC店舗の新人研修生2~3名や本部からも指導組も来ている。昨日、話しをしていた女子高生は他の男性スタッフから可愛いと人気があったので、きっとそれを妬んだ男が書いたんだろうなとは思っていた。そんな奴のことを気にする必要もないと。
こちらはすぐに忘れたし別にどうでもいいことじゃんと思っていたのだが、こういう話は結構パート・アルバイトや他の社員の間で噂となり持ちきりになっていた。
数日経って犯人が分かった。
そのお店で接客が素晴らしいとお客さんからアンケートでよく書かれ、朝礼とかで称賛されていた良く出来ると評判の僕と同じ年ぐらいで二人の子どもがいる真面目そうな感じのパートさんだった。




