第33話
王都で迎える3度目の夏に、少しは慣れただろうか。
ほんのりと頬を上気させたエリンが、幸せそうにレモン水のグラスに口をつける。
「あー、美味しいです。暑い日に飲むのは格別ですよね」
「そうね。爽やかだから目も覚めるわよね」
ひんやりとした飲み物にご機嫌なエリンに対し、シェスティンは湯気の立つカップを持ち上げる。仄かにベリーの香りが漂う、温かい紅茶である。体の冷えやすい彼女のお気に入りは、専ら温かい飲み物だった。
「きっと、うちの領地に来たら驚くと思いますよ。8月でも、こちらの春くらいの気温なんですから」
深紅の目をきらきらと輝かせ、エリンが力説する。シェスティンも、涼し気な淡い青色の目をそっと彼女に向けて頷いてから、再びこちらに顔を戻した。
「今年こそ、イェシカ様も一緒に来られたらよかったのですが……」
「ね、去年はシェスティンに来てもらって、すごく楽しかったんですから……。言いましたっけ? 両親も妹も、本当にシェスティンのことが気に入ってしまって、帰るときに泣きそうになっていたんですよ」
「ええ、その話は10回くらい聞いたわね……。それにしても、誘ってもらったのに、申し訳ないわ。わたくしもお邪魔したいのは山々だったのだけれどね」
そう応えつつ、思わず苦笑が浮かぶ。いえ、実際、かなり難しい選択だったのよ。学園を卒業したら、おそらくわたくしは、少なくとも……友人の家に気軽に行けるような、そんな立場ではなくなっているはずだから。
「でも、仕方ないですよねえ……。オーバネット・ミーアに行くんですから」
「お土産を楽しみにしています。もちろん、ありますよね?」
珍しく、物わかりのいいことを言うエリン……そして、珍しく、少し図々しいことを言うシェスティンに、それぞれの気持ちを感じて――卒業の後という言葉に、ふと動揺を感じながらも――わたくしはしっかりと頷いた。
――――
曇天の下を、馬車は軽やかに走っていく。
学園のサロンにも引けを取らないような内装の馬車は、なんとデ=メイ家の所有するものであった。
「ああ、イェシカ先輩、聞こえます? ほら今鳴いた……そう、この声、雨が降る予兆だと言われています。普段は低い声で鳴く鳥なのですが、雨が降る前は、こうやって高く囀るんですよ」
「あら、そうなのね。ランネージスにはいない鳥よね?」
「はい。この国でも、ちょうどデ=メイ家の領地が生息地のようなので……この声が聞こえてくると、もうすぐエルチェメース様に会えると思ってしまいます」
向かいに座るフランカは、そう言って頬を染めた。ううん、わたくしの身の回りでは、誰かのこんな表情を見ることってないわね……それこそ、お母様の話をしているときにお父様が浮かべるくらいかしら。
「こういう話には疎いから、なんだかわたくしの方が照れてしまうわ。でも、そう考えると、ますます申し訳なくなってくるわ。逢瀬のお邪魔虫をしてしまうようで」
お、逢瀬……と、フランカはますます縮こまった。婚約してから数年経っているはずなのだが、随分と初々しいことだ。まあ、きっとこれくらいのほうが、上手くいくのでしょうね、と2人の幸運を祈る。
その後もたわいもない話、あるいはデ=メイ一家についてのおさらいを経て、馬車はなめらかに停車した。
フランカが鍵を開けると、外から扉が開かれ……そこには、手を差し出した人物が。
「遠いところからようこそ。初めまして、イェシカ嬢。フランカは久しぶりだね」
肖像画でよく見覚えのある、そしてそれ以上に、見知った人物の面影を強く感じる男性が、柔らかな微笑みを浮かべている。おっとりとした挨拶はランネージス語で、わたくしはフランカに軽く会釈した後、彼の手を取って馬車を降りた。目の前の――ヴィル・ヨハン・デ=メイ伯父様の目元と鼻の造りは、お父様にそっくりだ。目が合うと、その緑色の目が、少しだけ細められる。
すぐに伯父様はフランカもエスコートし、我々はポーチの横端に移る。
「お目にかかることができ、大変光栄ですわ。クィンテン・パスカル・テル=ホルスト・フォーゲルストレームが娘、イェシカ・フォーゲルストレームにございます。お会いできて嬉しいですわ、ラウハ侯爵閣下。出国の手配もお任せしてしまい、恐縮でございます。そして、今更になりますが、入学の折には、素敵なプレゼントも頂きまして……」
「やあ、ありがとう。そんなにかしこまらなくていいから、僕のことは、気軽に伯父様とお呼び。ここにいるフランカにも、お義父様と呼んでもらっているからね」
「はい、お義父様。うふふ」
自信満々に胸を張るフランカの様子から、彼女がデ=メイ家の人々と、本当の意味でよい関係を築いていることは一目瞭然だった。彼女は私と伯父様を交互に見てから、オーバネット・ミーア語で
「当然、イェシカ先輩もこちらの言葉は話せるのでしょう? せっかくですし、実践も兼ねていかがです?」
と微笑む。フランカとは、数度オーバネット・ミーア語で会話してみたこともあるが、おそらくは私よりも、マーユの方がよほど流暢に話せていたはずだ。もちろん、お父様とステフェンの教育のおかげで、読み書きには苦労しないが、会話となると……相手もその2人しかいないわけで、日常会話ならともかく、令嬢同士で交わすような会話にはいささか不安が残る。マーユに特訓してもらえばよかったわ……。
そう思いつつも、少し喉の開き方をイメージしてから、
「……ええ。拙いと思うけれど、是非。伯父様、フランカ、気になるところは指摘してくださると幸いです」
「もちろんだよ。懐かしいな、昔、クィンテンのランネージス語も見てあげたものだ」
そう笑って歩き出した伯父様について、邸の中に入る。建築様式は両国の間にさほど差異はなく、それだけに、この威容ある屋敷がどれほど素晴らしいものかが容易に理解でき、圧倒される。
廊下の美術品や装飾について、とくに一家の歴史に関わるものを、時に立ち止まりながら説明してくれる伯父様に感謝しつつ、通されたのは応接間ではなく、居間であった。
ランネージスの伝統的な建築と同じように天井の高かった玄関ホールや廊下と異なり、やや天井が狭い。もちろん成人男性が頭をぶつけるというようなことはないだろうし、低いといっても、この佇まいの邸宅にしては控えめ、といったところなのだけれど。
「この邸は元々、要塞でね。武装して入りにくいような造りとして考案された建築なんだ。見ての通り、他の部分は大規模な改築や増築で、その面影はもうなくなっているが……最初の改築の時、この部屋の骨格が随分と頑丈だったものだから、面白がった設計家がここを居間にしたんだよ」
そう言って、伯父様は闊達に笑った。語彙が複雑になることを慮ってくれたのか、その解説はランネージス語だった。
濃い赤を基調とした居間、その窓際にあるソファに案内され、私は腰を下ろす。伯父様はフランカにも席を勧めようとして、
「僕がエルチェメースを呼んでこようと思ったが……フランカ、行ってくるかい? 先にゆっくり話して……積もる話もあるだろう、落ち着いたら2人でおいで。エルチェメースには部屋にいるよう言ってあるから」
と手を叩いた。みるみる赤面するフランカだったが、逸る気持ちは抑えられないようで、恐縮しつつ、滑るように後ずさりしてから急回転、廊下へと出ていった。
その後ろ姿を嬉しそうに見送った伯父様は、控えていた侍従に、奥方を呼ぶように頼む。それが済むと、改めてオーバネット・ミーア語で切り出した。
「伯父様、お招きいただきありがとうございます。その、今回は……」
「ああ。フランカから聞いただろうが、今後について、君にもしっかり伝えておきたいと思ってね。……クィンテンから手紙が来たときは驚いた。国外追放とは、穏やかではない」
あの時の……。オーセの表情や、前後の会話は思い出せない中で、あの言葉、それだけがずっと、今になっても鮮明に残っていた。
「ですが、元々のお話通り、わたくしは学園を出たら国外に行きたいと思っておりましたから、願ったり叶ったり、ではあります。それに、王妃の様子を見るに、わたくしを国外に出せるのならば、追い出したいと願うはず。ただ、むしろ、出国させずにランネージスで飼い殺しという選択肢を選ばないとも言い切れません。ですから、そちらのほうがよほど心配だと、お父様とも話しておりました……」
実は、出国が禁止されているのはお父様だけで、わたくしには特に何の制限も課されていない。ただ……それはわたくしが、どちらにせよ個人では何もできないと思われているからに過ぎない。今回は、学園にやってきた迎えの馬車がフランカ(というよりはブラーウ家)の名義の馬車だったこと、そのまま真っすぐ国境に向かったことが奏功し、検問は難なく通過できた。……だって、わたくしも学園の生徒であるのは間違いないし、フランカも身元のはっきりした、王立学園で正式に受け入れられた他国の貴族。学友を連れての帰郷と彼女が言えば、それで簡単に出国よ。オーバネット・ミーア入国は言わずもがなで、その後途中でデ=メイ家の馬車に乗り換え、言ってしまえば、危惧していたよりはよほど、簡単に出国できたくらいだったのだから……。
「まして、今回のことで警戒されないとも限らないわけですし、それを考えれば、追放になる分には構わないと考えております。ただ、伯父様が心配していらっしゃるのは、わたくしが公に罰されることで、こちら……オーバネット・ミーアで受け入れていただくことが難しくなること、ですね?」
そう、今までの予定では、わたくしは学園を卒業し、パーティーで全てを見届けてから文字通り退場――ランネージスから去って、伯父様を頼ってこの国に移住するつもりだった。
だから、出国自体ができないよりはよほどマシでしょうけれど、「犯罪人」になってしまったわたくしを正面から引き取ることは、難しくなってしまうだろうという危惧は確かにあるのだ。
伯父様とは初対面だったけれど、血縁という安心感だけでなく、お父様と似た雰囲気が心をほぐす。気が緩んでか、少し私が肩を落とすと、
「それについては……ああ、来たね」
「ごきげんよう、イェシカさん」
聞こえた足音に、わたくしは立ち上がり、頭を下げる。状況から察されるに、この女性は……
「初めてお目にかかりますね。ヴィル・ヨハン・デ=メイの妻、ラウハ侯爵夫人アフネスです。お会いできてよかったわ、イェシカさんね?」
「はい、ランネージスより参りました、イェシカ・フォーゲルストレームと申します。こうしてお目にかかれること、嬉しく思います」
そう言って礼を取ると、夫人の柔らかい笑い声が聞こえ、
「お顔をよく見せてくれるかしら? ……まあ、本当。王子殿下と同じ目の色で、とても素敵ね」
懐かしむように、伯父様と私を見比べる。
そうよね、伯父様だけではなく、夫人もお父様のことを知っているのよね……。
なんとなく不思議な気持ちに包まれていると、再び座るよう促される。夫人は伯父様の横に座り、ひとしきり私の近況について尋ねてから、
「……クィンテン様は、王位継承権やこちらでの爵位を返上なさったとはいえ、テル=ホルスト家に連なる方であることは今も変わりません。そして、イェシカさんも、件の妹君にあたるお嬢さんも――前例はほぼありませんけれど、王家が認めれば、父君の出自に基づいて王位継承権を得られる可能性がある立場だわ。言うまでもないことですけれどね」
ふっくらした頬と垂れた眉が穏やかな印象を与える夫人だが、その黒い目には、鋭い光が宿っている。
「それは、リドマン家ももちろん理解しているでしょうね。だからこそ、ビルギッタさんのオーバネット・ミーア王位継承権を陛下に認めさせるために、表立っての対立は避けるはずです、少なくとも、それまではね。先の疫病の件を差し引いても、大きな要求になりますから……最終的には、こちらの条件もある程度呑むでしょう」
そう。だからこそ、お父様はぎりぎりまで、パニーラ・ユーン=リドマンや国王との対立を避けようとしているし、テル=ホルスト家も関与をしている素振りなんてしない。
――国王と王妃、宰相が、お父様の、そして伯父様たちの「要求」を呑むしかない段階に、必ず、ひとつの疑いも抱かせず、無防備なまま、導くために……。
「それについては、今までの認識と変わらないままでよろしいのですね? ただ、フランカさんの口ぶりですと、彼女という、目に見える因子を介入させる形に舵を切った、そのように感じられました」
「ええ、そうね……。それは、陛下と王太子殿下のご意思ね。直接、あなたと妹君の様子を確認したいということ、のようだわ。場合によっては、妹君を通じてさらなるリドマン家の弱みを得たい、といったところではないかしら。……どうかしら、旦那様?」
「うん……。それは、お前に答えてもらおうか、エルチェメース」
「わかりました」
……全く気付かなかった。急ぎ立ち上がりかけた私を、伯父様が微笑んで制す。
座ったまま振り返れば、照れたままのフランカを伴って、ゆっくりと彼が近づいてきていた。
淡い緑色の目は伯父様譲りで、軽く揺れる短髪は夫人と同じ胡桃色。柔和な顔立ちの青年で、従妹のわたくしとはあまり似ていない。
「いらっしゃい。長旅だっただろう? 会うのは初めてだね。僕はラウハ侯爵が嫡男、エルチェメース・デ=メイ。以後お見知りおきを……、ああ、イェシカと呼んでいいかい?」
「初めまして、イェシカ・フォーゲルストレームでございます。ぜひ、イェシカとお呼びになってくださいな、エルチェメースお従兄さま」




