第28話
カフェテリアの上のフロアが、サロンのある区画になっている。扉を開けるとすぐ受付で、職員が微笑んで挨拶してくれた。私たちは会釈を返し、
「ええと……2名の個室を予約しておりました、1年A組のマーユ・オリヴェル=シェルマンです。そして、あの、こちらが一緒に利用する……」
「1年D組の、イェシカ・フォーゲルストレームです」
「はい、それでは鍵をお渡ししますので、帰る際に返却してくださいね」
マーユが鍵を受け取って、下がった札で部屋番号を確認する。か細い声でお礼を言った彼女に続いて、私も頭を下げた。
用意された部屋は区画の奥で、他の個室から離れた位置にあった。彼女は慣れた様子で扉を開き、どうぞ、と手で中を示した。
「あら、中もこんなに凝った造りだったのね」
「そうよ。ほら、南に王家の離宮があるでしょう? ヒルデガルドも、その設計者が手掛けた建物なのよ。寮から校舎から、ここの棟まで全部よ」
「恥ずかしながら初耳だったわ。でも、それなら納得ね……」
個室は、2人用とは言いながらも、2人掛け程度の大きさがあるソファがふたつ、向かい合わせに置かれている。ソファの間のテーブルには生花が飾られており、仄かにやわらかな香りを漂わせていた。
何か飲む? え、さっきカフェテリアで飲食したばかりじゃない……というやりとりを挟み、マーユは厚い前髪から覗く眉を、軽く動かした。
「夏季休暇の間ね、顔を見せないわけにもいかないから、王宮に何度か上がったの。まあ、殿下が素直に言って回っているように、妃殿下としか会わなかったのだけれどね。それで、殿下ったら、わたしになんて言ったと思う?」
両手で頬杖をついて、上目遣いの灰色の目がじっと、こちらを見つめる。有無を言わせない微笑みは、童顔の彼女に似合うような、アンバランスのような、名状しがたい雰囲気があって、これも彼女の社交術なのだろうか、という考えが頭を過る。
「殿下って、王妃殿下のほうでしょう。そうね……エドヴァルドと仲良くしろと言う理由もないし、かといって、あからさまに、じきに用なしだなんて言わないでしょう?」
「それがねえ」
微笑んだまま首を傾げ、彼女はふうっと息を吐いた。表面だけ切り取れば、まるでうっとりとため息をつく乙女の様相である。
「所詮、わたしとエドヴァルドの婚約は政略結婚で、宰相の忠誠の証のようなものであるけれど、近年の伯父様の働きぶりを見るに、この婚約で縛るまでもなく、伯父様は立派な忠臣なのですって。だから、もしも彼にもっとふさわしい相手が現れたら、退くのもまた家臣の務め……だそうよ?」
――――
そのマーユの言葉、あるいは愚痴を改めて思い出したのは、私の誕生日の前夜、お父様から手紙が届いたときだった。
思わぬ相手に覗かれるのを警戒してか、笑いそうになるほど高圧的な文章で、形式張った祝いの言葉と、「ビルギッタの誕生日パーティーも含め、冬期休暇には帰宅しないこと」という命令が綴られている。しかし、インクの色はいつもの漆黒ではなく、うっすらと、青みが含まれている。お父様が密かに収集している、お母様の髪に似た色のインクの中から1つ、使ってくれたのだろう。
そして、さりげなく書かれた「パーティーには、エドヴァルド殿下も参列する」という文言に、思わず、顎に手をやった。
本当に、なかなか思い切ったことをするわね。いえ、それとも、もう「そのつもり」で堂々と動くことになったのかしら。
けれど、そこまでは手紙に書かれていなかった。ともかく、帰ってこないように、と最後に念を押し、手紙は閉じられている。……心配してくれているのが伝わってきて、ふっと笑みが漏れた。
もう夜も遅いし、マーユたちには明日、伝えることにしようかしらね。
――――
翌日、いつもより早く出てきたマーユと合流し、3人で食堂へ向かう。このフロアから降りると他の生徒もいるので、手短にお父様からの用を伝えた。
2人はやれやれといった様子で、取り立てて、怒りも呆れもないといった雰囲気である。話題は程なく、期末試験についての話に移ったが、
「……ねえ、食堂へ行くのではないの?」
「あら、さすがに気づいたわね」
校舎の1階にある食堂に向かっている……はずだと思っていたのだが、校舎と寮を繋ぐ通路へと出る途中の角を、2人は曲がらなかったのだ。
「どこへ向かっていると思います?」
「まっすぐ行ったら……カフェテリアか、サロンよね」
マーユもエヴェリーナも、それには答えなかった。無言のまま、私たちは件の棟に着き、階段を登って……そう、サロンの受付でエヴェリーナが名乗ると、職員は合点した様子で、
「もういらっしゃっているので、8番のお部屋へどうぞ」
と明るく言った。もう、誰か来ている? 疑問を挟む間もなく、歩き出した2人を慌てて追う。部屋の前に着いたマーユが声をかけると、すぐに扉が開き、
「イェシカ様、お誕生日おめでとうございます!」
飛び出てきたエリンが、私に飛びついた。全く構えていなかったので、数歩よろめく。
赤茶色の髪を撫でながら部屋の中に視線を戻せば、シェスティンやアリス、ほかにも数人の、揃って髪にリボンを付けた……見知った面々が満足げに笑っていた。
なるほど、こういうことだったのねと……言おうとして、言葉が出ない。伝わってくるエリンの体温のような、あたたかい感覚で胸がいっぱいになる。
「ありがとう」
思わず口をついて出た、やわらかく穏やかな声に、私はぎょっとした。けれど、誰一人として、私のような反応はしない。ただ、さもありなんと言わんばかりに、さっきと変わらぬ笑顔で、中には頷いている子さえもいた。
「どういたしまして。さあ、入って。ケーキも予約しておいたから」
とりわけ嬉しそうなマーユが、私からエリンを引き剥がしながら、ふふんと胸をそらす。そのまま私は彼女に手を引かれ、エリンを右腕にぶら下げて、
「いつも、誰かの誕生日といったら、放課後にカフェテリアだったじゃない、びっくりして、私……」
「ええ。だからこそ、今日はこうやってサロンの、大人数で入れる部屋を予約して、サプライズにしてみたってわけ。……この時間だから、わたし、昨夜は早く寝たのよ?」
「マーユ様が起きられるかどうか、少しひやひやしながら待っていました」
腰を下ろした真向かいに座っているシェスティンが、平然とそんなことを言う。それにくすくすと笑い声が起こって、私もつられた。
そして、そのまま、いつもと変わらぬ他愛ない話が、誰ともなく始まる。……途中でケーキが届いたときなど、おしゃべりに夢中で気づかなかったくらいだもの。
「これが今日の朝食ね。……ありがとう、皆」
純白のクリームで飾られたシフォンケーキに、私が口元を緩めれば、
「エヴェリーナ様が選んだんですよ!」
と、なぜか……エリンがはしゃぐ。少し身を乗り出し、マーユ越しにエヴェリーナと目を合わせると、彼女はにこっと笑った後、視線を別の方へ向けた。
「そうね、けれど、わたくしだけじゃなくて、アリスも相談に乗ってくれたのよね」
「ええ。……でも、そもそもこのサプライズを考えたのは、マーユ様ですわ」
「まあね。けど、部屋の予約をしてくれたのは、レーナとシェスティンでしょう」
笑いながら、それぞれに、皆が「私だけじゃなくて、彼女の……」と主張し合う。その光景が、なんだかとても眩しく見えて、私は目を細めた。――が、
「……もう、イェシカ様ったら、そんな他人事みたいな顔をしたってだめですよ。みんな、イェシカ様のためにしているんですからね? これからも、毎年やっちゃうんですから、覚悟しておいた方がいいですよ」
再びぎゅっと抱き着いてきたエリンの勢いに、
「うっ」
思わず、令嬢にあるまじき、間の抜けた声が出た。
――――
やがて期末試験も終わり、学園は今回も気の抜けた空気に包まれていた。
さすがに制服の上着も手放せない気候となり、北国育ちのエリンがようやくいきいきしているのが、なんだか愉快だ。
相変わらず、教室の面々は私に近づいてはこないものの、シェスティンやエリンという低い家格の令嬢と大人しく過ごしているのを見て、幾分か警戒が緩んでいたようである。
しかし、そうはさせないとばかりにお父様が投じた石が、再びざわめきを生みだしていた。
「冬期休暇に、帰宅を禁じられたのですって」
「妹君の誕生日パーティーがあるのでしょう? 私の妹に、招待状が来たそうよ」
「わたくしの縁者にも来ていたわ。ねえ、聞いていて? ――」
ある朝、入学当初を彷彿とさせるひそひそ声が、教室でひとり座るわたくしへと向けられる。その輪のひとつには、かつてシェスティンと一緒にいた令嬢もおり、目を眇めたくなるのをぐっとこらえる。
要は、お父様が、ビルギッタと同級生になる令嬢やその身内を中心に、招待状を出し始めたのだ。文面の写しが私にも届いており、内容に関してはしっかりと把握している。
……わたくしの立場は弱い。下手なことをすれば、学園を追い出される可能性だってある。だから、ビルギッタが入学してくるまで、こうして程々に、取るに足らぬ存在だと……わざわざ誰かが手を出す必要さえないと、そう思わせることが必要なのだった。




