第21話
「まあ、マーユが来るの?」
よく晴れた、そしてそれゆえに少し肌寒い朝。テーブルに並んだ朝食とお茶にうきうきしていると、イザベレが朗報を伝えてくれた。
「はい。昨夕、訪問のお伺いがあったとのことです。いらっしゃるのは午後で、その時はお嬢様も同席して構わない……と言付かっております。少し急ではございますが、旦那様が以前お伝えしていた候補日でしたので、快諾なされたとお聞きいたしました」
「そうだったのね、ありがとう。この前、ちょうどオーバネット・ミーアの古典を読んでおいてよかったわ。いい話題になりそうだもの」
わたくしは思わず微笑んでいた。
――――
……そのはずが、どうしてこんなことになったのかしら?
「わっ、え、お姉様、どうしてここに」
マーユとお父様の会話がひと段落し、お父様の執務室に移る際に私も同室させてもらうという手筈だったはずなのだけれど、ええと、本邸を入り少し歩いたあたりで、慌てた様子のステフェンに止められ、離れに戻ろうとしたのだったが……
「……お父様に呼ばれていたのだけれど、早く来すぎたようね」
「ふーん、そうだったんですか。でも、お父様はマーユ様とお会いしてるって聞きましたけど……」
じろじろと私を見るビルギッタに、思わず頬が引きつる。
半ば衝動的に彼女を睨みつけると、意図していたよりも冷たい声が出た。
「あなたには関係ないでしょう」
「っか、関係ないかもしれないですけど、お姉様こそ、何で最近、こっちにしょっちゅう来てるんですか? ……どうして、お父様とそんなに仲が悪いのか知りませんけど」
――それこそ、あなたには関係ない話よ。
私がそう吐き捨てかけた、その時だった。
「何をしている? やめないか」
後ろからかけられた声に、ゆっくりと、私は振り返る。……ビルギッタに気を取られ、全く気配に気づかなかったわ。
そこにいたのは、白地に銀糸の刺繍があしらわれた上着が目を引く、黒髪に碧眼の人物と、彼の影のように控える、赤いドレスのマーユだった。
「もしや、そなた」
凛々しい眉を少し上げて、低く響きのある声が私に向けられる。
もしや、あなた……というか、もしかしなくても、誰かだなんて一目瞭然。なるほど、ステフェンに止められたのは、こういうわけだったのね。
彼の姿に、何か勘づいたように表情を輝かせたビルギッタだが、彼女が口を開きかけた瞬間、「おふたりとも、お控えくださいませ。王太子殿下の御前です」……マーユがすっと一歩前に出る。そして彼女が私を示すのと同時に、こちらも王族に対する礼を取る。
「エドヴァルド様、ご紹介いたします。こちらがフォーゲルストレーム侯爵家の長女、イェシカ様でいらっしゃいます」
「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下。ご紹介に与りました、イェシカ・フォーゲルストレームにございます」
「うん……父君には世話になっている。僕は、エドヴァルド・テュコ・リドマン。イェシカ・フォーゲルストレーム侯爵令嬢のことも、我が母である王妃殿下、ならびに、貴殿の妹、こちらのビルギッタより聞き及んでいる」
許されて顔を上げると――絵でしか見たことはないが――海のような色の目と、視線が交わった。
碧眼で、髪は黒色。どちらも父親似であり……もっと言えば、代々のリドマン家の男児に特徴的な配色らしい。
「恐れ多いことにございます」
初めて拝した、この国の王太子殿下の御尊顔に、私は半ば感慨のようなものを感じていた。髪と目の色は父親譲りだが、彫りの深い顔立ちは、どちらかといえば母親似だろうか? そんな考えがふと過ぎり、しかし、頭があの女のことを思い出すのを拒絶する。
それにしても、王妃の名が出るのはともかくとして……婚約者であるマーユが私を紹介したというのに、それを差し置いて、「ビルギッタからいつも聞いている」だなんて、随分と、まあ。
視線をそちらにやれば、名前を挙げられたことが余程嬉しかったのか、頬を薄く色づかせたビルギッタが、割って入るタイミングを伺っているようだった。
本来であれば、その隙なんて与えないのが「正しい」のだろうけれど、あたかも萎縮しきっているかのように気配を消したマーユに倣い、私も――先程のエドヴァルドのように――片方の眉を動かして、渋々押し黙ったような表情を作ってみせる。
「ビルギッタ。久しぶりだね。突然の訪問、驚かせてすまなかった。マーユがこれから侯爵閣下にお会いすると聞いたので、僕も顔を出そうかと思ってね」
声を弾ませつつ、ビルギッタに、一歩近寄るエドヴァルド。静かに彼の死角に移動したマーユは……『顔を出そうかと思って』のところで物凄い顔をしたが、私は見なかったことにする。
「いいえ、ありがとうございました! ……まるで、エド様には私の心が伝わっているみたいですね。なんだか照れくさいです」
桜色の唇から少しだけ歯を覗かせた、可愛らしい笑顔。少し言葉を探すようにしながらも、弾んだ声は喜色を隠せていない……というよりは、隠す気がない、かしら?
思慕を前面に押し出したビルギッタの言葉に、エドヴァルドも柔和な顔つきを更に和らげる。婚約者の前なのに、随分と鼻の下を伸ばしているじゃない。
「なんてことはないよ。……ビルギッタは、ロマンチックなことを言うんだね」
そう言って、彼が眩いばかりの笑顔を浮かべると、ビルギッタは、反射的にといった様子で仰け反った。宝石のような色の目を見開いて、熱の籠った眼差しでエドヴァルドを凝視する。その唇が僅かに震え、何事か短く呟くが、読み取れない。マーユも、怪訝そうな顔で彼女を見てから、私に向けて小さく首を傾げた。
このままこの茶番が続くようなら、強引に割り込むのもまた一興。そう思って、じろりとビルギッタを見下ろす態勢を整えていると、足音が聞こえてくる。
早足で近づいてきたのは、ほんのすこしだけ、整えられた金髪を乱したお父様だった。後ろには「しまった」という顔のステフェンが、なるほど、数冊の書物を丁重に運んでいる。
……どうやら、茶番劇はここでおしまいのようね。




