第20話
その数日後、私は1人で、本邸までの道をてくてくと歩いていた。
今日はお父様に呼ばれたわけでも、マーユが来たというわけでもなく、図書室に用があったのだ。
離れの方にはない、手の込んだ植栽や花壇を見ながら歩いてゆけば、その道のりはむしろ短くすら感じてしまう。
最後の角を曲がり、見えてきた本邸の玄関の前には、いわば先触れを頼んでいた侍女のミリアム――イザベレの直属の部下――が立っていた。
本当はいつものようにイザベレに頼むところだったのだが、彼女は、それこそ先だって購入し、届けられた商品の検品に忙しいようだ。
「お待たせしたわ。では行きましょうか」
「はい、お嬢様」
頭を下げて、彼女がドアを開いてくれる。私が中に入ると、さっと前に回り込み、図書室まで先導してくれるわけだ。
「無理を言ってごめんなさいね。さっきも言ったけれど、どうしても、オーバネット・ミーア語の古典が読みたかったの」
「……お探しして、お部屋までお持ちいたしましたのに」
少しだけ、彼女は困ったような口調で言う。私よりも1回り歳上で、普段はイザベレの補佐をしているポジションだが、こうやって2人で会話することも、決してないわけでもない。
やや窘めるような言い方はなんとなくイザベレと似ていて、でも、彼女の方が少しだけ親しみを込めた話し方をするような気がするわね。まあ、そういうところを、イザベレは少しどうかと思っているらしいけれど……。
「自分で探したかったのよね。何冊か見繕って借りて、しばらくは来ないようにするわ」
私は頭の片隅にビルギッタのことを思い浮かべながら、答える。なんとなく、彼女の普段の様子からして、図書室には来ないだろうと踏んでいるのだ。お父様の甘やかし作戦が奏功し、今も彼女は、初めて会ったあの日から何も変わっていない。相変わらず振る舞いは自由で、言葉と表情は率直である。
そして、玄関から応接間の前を、客室の前を……と通り過ぎ、廊下の突き当たりに、お目当ての扉が見えた。
ビルギッタとオーセが来てからのこの1年あまり、訪れることはめっきり減ってしまったが、以前はよく入り浸っていた場所だ。
――ゆっくりと、色ガラスのモザイクがあしらわれた扉を開く。
いくつも書棚が並ぶ中で、部屋の真ん中にはぽっかりと空いた空間がある。その場で読めるように椅子と机が用意してあって、大きな窓から光が差し込んで、薄暗い図書室の中では、まるで浮かび上がるように……。
そこには、月光の色の髪を垂らして、一心に本を読み耽る、美しい少女の姿があった。
「は……」
その光景に、思わず息を吞む。
どれほど……いえ、それは恐らく、数秒にも満たない時間だったのでしょう、ぎこちなく一歩、足を踏み入れると、ビルギッタはハッと顔を上げた。その拍子に彼女の髪が翻り、私の目には、光が飛び散ったかのように見えた。
「イェシカ、お姉様……」
困惑しきりといった様子のビルギッタに、私も咄嗟に言葉が出ない。どう対応したものかと思っていると、
「失礼いたしました、ビルギッタお嬢様」
素早く私の前に体を滑り込ませ、ミリアムが頭を下げる。
「そ、そんな、頭を上げてください! ええと、お姉様も、ここのおうちの一員ですし! そうだ、せっかくだったら、好きな本を紹介し合うっていうのはどうですか?」
私とミリアムを見比べながら、ビルギッタはあわあわと両手を顔の前で彷徨わせる。その表情には、困惑以外には何の含みもなさそうで、毒づこうにも罪悪感が勝る。
だから、せめてもの演技として、少しばかり視線を鋭く、
「……あなた、その本を随分と熱心に読んでいたようだけれど、まさか子供向けではないでしょうね? そうでなかったら、少しは話を聞いてあげてもよくってよ」
と返すのが精一杯だった。こういうとき、マーユだったら、どうやって対応していたのかしら……、と考えつつ、よけてくれたミリアムの横を通り、ビルギッタの座る椅子の、隣の椅子に腰を下ろす。
「あら、礼儀作法がなっていないから教養は期待していなかったけれど、いいものを読んでいるじゃない。ビルギッタ、あなた、こういう本が好みなのかしら?」
そして、彼女が見せてきた本のタイトルは、意外なことに……この歳の貴族令嬢が読むのにはやや難解な、神話を下敷きにしたファンタジーだった。内心舌を巻いたが、顔や声に出さないように、尊大な物言いを意識する。幸いビルギッタは私の感心に気づいていないようで、良さをあれこれと説明してくる。
「……それで、あとは、学園に入るのが楽しみで、今からちょっと難しいのも読んでみようかなーって。あたし、あの、前も――物語を読むのが、結構好きだったんです。流行りのやつよりは、ちょっと、お堅いほうが好きで、意外とか、珍しいねとかって言われてて」
最後にそんなふうに言って、彼女は翡翠色の目を細める。前、ということは、平民時代の思い出なのだろう。この性格で友達がいたのかと驚いたが、私だって、別に――このような関係でなければ、あるいは、彼女が貴族でなければ、そこまで厭わしいとは思っていなかっただろう。現に、回顧するその表情は、むしろ……どこか不安になるほど大人びて見える。
しかし、瞬きをしている間に、その翳りは消え去っていた。
「あっ、そういえば、お姉様はもうすぐ入学ですもんね? 制服、買いましたか?」
「ええ、勿論」
「まあ、そうですよねー。ふふっ。あたしが入学するとき、お姉様たちは3年生ですね。ずっと夢だったので、一緒の学園で過ごせるの、今から楽しみです」
いつものような、どこか企みが透ける笑顔を浮かべて、義妹は小首を傾げた。




