その1 夜会にて
――ああ、こんな賭けなんて乗るんじゃなかった。そろそろ、帰ってもいいかな。いいよね。うん、一休みしたら帰ろ。
レイは、重い足取りで庭に出て来た。夜会の演奏がここまで聞こえる。大広間の喧騒から逃れるのに丁度良さそうなベンチを見つけた。庭木がこんもりと茂っていて、ここなら、人目にも付かず休めそうである。ベンチに近付くと、何やら人の声がする。カップルでもいちゃついているのかと踵を返そうとして時、聞こえて来た言葉に驚いた。
「この池の深さってどのくらいなのかしら。飛び込んだら死ねるかしら」
『これはまずい。誰か呼んできた方がいいか』と考えあぐねている内に相手から声が掛かった。
「何方かいらっしゃるの」
レイは、逡巡するものの彼女に答えることにした。
「貴女こそ、こんなところで何をなさっているのかしら」
返事がない。さあ、どうすると思ったところで、クスクスと笑う声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。貴女、私が自死でもするかと思ったのでしょ。安心して、そんなことしないわ。したってどうしようもないもの」
関わっても始末が悪いかと思ったのだが、袖振り合うも多生の縁とか言う東洋の諺もあるし、まあ良いかと話を聞いてみた。
「何かありましたの。二度と会わない見知らぬ者にお話になってみるのも酔狂かもしれませんわよ」
「あら、二度と会わないなんて随分ね。でも、いいわ。一つの笑い話として聞いていただこうかしら」
レイは、彼女の隣に腰を掛けた。月明かりに照らされた彼女は、十代半ばくらいのなかなかの美人である。
「先ず、私がこんなところで隠れているのはね、皆様がお帰りになった頃を見計らって帰ろうと思ったからよ」
「何方からかお隠れになっていらっしゃるのかしら」
「誰かではないわ。こちらの夜会にいらしてる方達、皆様よ」
「どういうこと?」
「だって、令嬢が迎えもなく歩いて帰るのよ。何方かに見られたら家の恥になるでしょ。フフフ」
令嬢がこんな夜更けに歩いて帰る? 何を言っているんだと怪訝な顔をすると、令嬢は益々笑いを深めた。
「信じられないってお顔ね。本当の事よ。あ、帰り道のご心配ならいらないわよ。大丈夫、いつもの事なんですもの。慣れたものよ」
「どうして、迎えが来ないの? 屋敷が近いとは思えないけど」
「どうしてかしらね。家は、夜明け前には着ける距離よ。朝焼けもとても綺麗なんだけど、それはそれで人目に付くでしょ」
「失礼かもしれないけど、貴女のお家には、経済的余裕がないのかしら」
「いいえ。どちらかというと羽振りのいい方だと思うわ。不思議に思ってるでしょう。私も未だに不思議だと思ってるもの。フフフ」
確かに彼女の身に付けているドレスは、今の流行の物ではないが質の良さそうな物だし、アクセサリーもオーソドックスな意匠ではあるが其れなりに高価な物のようだ。
「答え合わせしましょうか?」
「ええ。訳がわからないもの」
「それはね、置いていかれるからですわ。フフフ」
「どういうこと?!」
「行きはね、家族だったり、婚約者だったりと一緒に来るの。あっ、こんな私にもね、婚約者らしき方がいるのよ。で、帰りは置いていかれる訳。今日は婚約者の番だったの。あの方、随分と前に帰えられたわ」
夜半に令嬢を置いて帰る家族やましてや婚約者がいたりするのだろうか。彼女が言っていることが本当なのかはわからないが、今ここに残っていることだけは、事実だった。
「喧嘩でもしたの?」
「えっ、毎回? 私、喧嘩なんかしたことないわ。それこそあり得ないわ。私ね、家でもあの方相手でもほとんど話したことなんてないのですもの」
「話したことがないってどういうこと?」
「そうね。正確に言うと話してくれないが正解かしら。家族もあの方も、使用人達もよ。私は透明な空気なの。何処にでもいて、何処にもいないの。面白いでしょ。夜会に来てもね、私こんな顔でしょ。お高くとまってるとか変な噂とか色々言われててね。何方も話し掛けてこないわ。関わりたくないの。だから、貴女、希少な人なのよ」
「こんな顔って、貴女とても綺麗じゃない」
彼女は押し黙った。そして、自嘲するように口許をあげた。
「嬉しいわ。そんなこと言われたのお母様がいらした頃以来よ」
「お亡くなりなったの?」
「いいえ。離縁されたの。三年になるのかしら」
子が成せなくて離縁される者はいるが、娘がここにいるというのならば該当しない。この国では、離婚自体が非常に少ない。レイは、三年前の離婚劇といえばと、思い出した。トルネン伯爵家か。夫人の生家の財産を詐欺紛いの取引で搾り取るだけ搾り取って、金がなくなり家が傾いたからと離縁した。夫人を追い出したその日の内に妾とその女との子を屋敷に引き入れたのだ。社交界では、いい話題だった。確か、残された前妻の娘は、放蕩し放題のあばずれで、年中朝帰りを繰り返していると噂になっていた。婚約者は、確かワグナー侯爵家の次男だったはずだ。
「家族と疎遠だとしても、婚約者までどうして貴女を置いて帰る必要があるの」
「少しでも義妹と二人っきりになりたいからかしら? あまり、話した事もないけれど、たぶんそうなんでしょうね。いつも二人一緒なのにね。余程離れたくないんでしょ。そんな気持ち、私、よくわかないわ」
「妹と婚約を結び直すつもりと言う事?」
「いいえ。それならいいんだけど、相手方のお父様が許さないの。婿に出すと言ってもご自分の血筋に平民の血が入るのは許さないっておっしゃって」
「それで貴女は」
「それで私は、ここにいるって訳」
「迎えもなく」
「そう、迎えもなく」
世の中、政略結婚なんて山ほどある。この子だけが例外ではない。『でも、この子はそれだけでない』と、レイは思った。
「貴女も人目を避ける為にここに来たのでしょ。ごめんなさいね。変な先客がいたせいで、隠れられなくなってしまったわね」
「私はいいんだけど」
「久しぶりにおしゃべりしちゃった。話すって楽しいのね」
自分の事なのに他人事のように淡々と語った彼女は、年相応の可愛らしい笑みを見せた。
「皆様もだいぶ帰られたみたいね。これくらいなら大丈夫そう。私も帰るわね。貴女のお時間をくださって、ありがとう」
「送りましょうか?」
「いいえ。貴女は、二度と会わない見知らぬ者なんでしょ」
「意地悪ね。ねぇ、また会わない」
「嬉しいわ。でも、楽しいことがあると、きっと毎日が辛くなるわ」
「いいじゃない。一つくらい。会うのが難しいなら手紙でもいいわ」
「……」
レイは、自分がこんな事を言い出すとは思いもしなかった。でも、彼女を放って置いてはいけない気がしたのだ。彼女は、レイの顔を見て小さく頷いた。
「ミモザ、ミモザ・トルネンよ」
「レイ、只のレイ」
「ふふっ、それじゃ、手紙は着かないわね」
「あ、カールトン子爵家宛てにして。事情があって間借りしてるの」
「わかったわ。書けたら書くわ」
「絶対に書いて。私も書くから。必ずよ」
ミモザは、にっこり笑って頷いてから、裏口を目指しているのか庭を抜けていった。レイは、彼女の姿が暗闇の中に消えていくのをじっと見つめていた。




