戻れるのは一度目だけ ――地元にある絶対入ってはいけない温泉の話
私の地元には、入ってはいけない温泉がある。
温泉地としてはそれなりに知られている町で、駅前には湯けむりの絵が描かれた案内板があり、土産物屋には温泉まんじゅうが並び、観光客向けの日帰り入浴施設もいくつかある。
けれど地元の人間は、山の奥にある一つの湯だけは、決して人に勧めない。
名前はもう、ほとんど残っていない。
古い地図には載っているらしいが、今の観光案内にはない。山道の入口に、朽ちた木札が一本立っているだけだ。
この先危険、入るな。
子どもの頃、私たちはその木札の向こうへ行こうとしたことがある。
私、榊原澪。
佐伯真紀。
水野千尋。
三人とも同じ小学校で、放課後はいつも一緒だった。山、川、神社の裏、誰も使っていない古い物置。親に怒られそうな場所ほど、私たちには秘密基地に見えた。
その日も、言い出したのは真紀だった。
「あの温泉、知ってる?」
真紀は、いかにもすごい秘密を知っている顔でそう言った。
「絶対に入ったら駄目な温泉」
「なんで駄目なの?」
私が聞くと、真紀は少し得意げに笑った。
「戻ってこられなくなるんだって」
千尋が眉をひそめた。
「そういうの、やめようよ」
「見るだけだって」
真紀が笑う。
私も笑った。
千尋だけが、最後まで少し不安そうだった。
それでも結局、三人で行った。
夏休みの昼過ぎだったと思う。山道は今よりずっと暗くて、木の枝が頭上で重なり合い、昼なのに夕方みたいだった。蝉の声だけがやけに近く、湿った土の匂いと、腐った葉の匂いが足元から上がっていた。
木札を越えてしばらく進むと、湯気の匂いがした。
温泉特有の、卵が腐ったような匂い。
その奥に、苔むした石段と、壊れかけた小屋が見えた。脱衣場だったのだと思う。
私たちは顔を見合わせた。
怖いのに、笑っていた。
その時だった。
「こら!」
山道の下から、怒鳴り声が飛んだ。
振り返ると、白い軽トラックが止まっていた。荷台には古い道具が積まれていて、その隅で木桶が一つ転がっていた。
トラックが揺れるたびに、からん、と乾いた音がした。
その音だけが、蝉の声の中で妙にはっきり聞こえた。
運転席から降りてきたのは、作業着姿の男の人だった。日に焼けた顔。首に巻いた白いタオル。右の頬に、火傷のような痕があった。
「あそこは駄目だ」
男の人は本気で怒っていた。
「見るだけなら帰れる。触ったら覚えられる。戻れるのは、一度目だけだ」
意味は分からなかった。
けれど声が怖くて、私たちは何も言えなかった。
男の人は私たちを三人まとめてトラックに乗せ、山を下ろした。荷台の木桶が、からん、からん、と鳴っていた。
山を下りると、男の人はどこかに電話をかけ、私たちの親を呼んだ。母親たちは血相を変えて迎えに来て、私たちはそれぞれ家に連れ戻された。
その夜、私は父にも母にも散々叱られた。
でも子どもだった私は、叱られるほど納得できなかった。駄目だと言われるほど、理由が知りたくなる。どうして触ってはいけないのか。どうして戻れないのか。
布団に入ったあと、私は母に聞いた。
「あそこ、大人になったら行ってもいいの?」
母はしばらく黙っていた。
そして、疲れた声で言った。
「あんたが大学に行くくらい大きくなったらね」
冗談だったのだと思う。
母はただ、早く寝かせたかっただけだろう。
けれど私は、その言葉をずっと覚えていた。
大学に進み、地元を離れ、都会で暮らすようになっても、時々ふと思い出した。
あんたが大学に行くくらい大きくなったらね。
まるで約束のように。
馬鹿な話だ。
本当に、馬鹿な話だ。
あれは大学三年の夏だった。
帰省した私は、久しぶりに真紀と千尋に会った。
真紀は地元に残り、家の農家を手伝っていた。髪を短くして、日焼けして、少し大人びていたけれど、笑うと小学生の頃と変わらなかった。
千尋は地元の大学に通っていた。昔から人の表情をよく見る子で、誰かが無理をしていると、真っ先に気づくのはいつも千尋だった。
私たちは居酒屋で飲んだ。
成人してから三人で飲むのは初めてだった。
酒が進むほど、昔話が出た。
秘密基地。
川で流されたサンダル。
神社の裏で見つけた古い鈴。
真紀が転んで泣いたこと。
千尋がそれを見て、なぜか一緒に泣いたこと。
笑いすぎて、涙が出た。
でも、完全に昔と同じではなかった。
私たちはそれぞれ少しずつ違う場所にいた。
私は都会へ出た。
真紀は町に残った。
千尋はその間にいた。
三人でいるのに、三人の間に見えない線があるようだった。
深夜二時を過ぎた頃、ふいに私の頭に、あの温泉が浮かんだ。
なぜかは分からない。
いや、今なら分かる。
私は昔に戻りたかったのだ。
子どもの頃みたいに、三人で一つの秘密を持ちたかった。
「あの温泉、覚えてる?」
私が言うと、真紀が箸を止めた。
千尋も黙った。
思ったより重い沈黙だった。
だから私は、冗談めかして続けた。
「大学に行くくらい大きくなったら行っていいらしいよ」
千尋が苦笑した。
「それ、澪のお母さん、絶対そういう意味で言ってないよ」
「分かってる」
真紀はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「今は昔ほど厳しくないらしいよ」
「そうなの?」
「山道も整備されたし、たまに観光客が迷い込むらしい。足湯くらいならして帰る人もいるって」
真紀はそう言った。
その言葉で、私は安心してしまった。
いや、安心したかった。
危険ではない。
もう昔の迷信だ。
そう思える理由が欲しかった。
「じゃあ、行ってみる?」
私が言った。
千尋は最後まで迷っていた。
「やめようよ」
小さな声だった。
「今さら、あそこに行って何になるの」
真紀が笑った。
「見るだけ。足湯だけなら平気だって」
私も言った。
「昔みたいに、三人でちょっと冒険するだけ」
千尋は私たちを見た。
困ったような、寂しいような顔だった。
「本当に足湯だけだよ」
「分かってる」
「絶対に入らないからね」
「分かってるって」
私はそう言った。
分かっていなかった。
三日後の昼、私たちは山へ入った。
昔より道は明るかった。道路が途中まで舗装され、木も伐られていた。記憶の中の山はもっと深く、もっと暗かったが、現実の山は拍子抜けするほど普通だった。
私たちは笑いながら歩いた。
汗をかき、昔より息が切れる自分たちをからかった。
やがて、あの木札が見えてきた。
この先危険、入るな。
文字は薄れ、板は半分腐っていた。
私たちは立ち止まった。
その時、千尋が言った。
「やっぱり帰ろう」
私は振り返った。
「ここまで来て?」
「うん」
千尋は木札を見ていた。
「怒られた時のこと、思い出した。あの人、本気だった」
真紀が笑った。
「大丈夫だって。見て帰るだけ」
私も言った。
「足湯だけね」
千尋は私たちを見た。
今でもその顔を思い出す。
あそこで私が一言、帰ろう、と言っていればよかった。
でも私は言わなかった。
私たちは木札の横を通り抜けた。
山道の先に、湯気が見えた。
古い脱衣場は半分崩れていた。屋根の一部が落ち、床板は腐り、蜘蛛の巣が幾重にも張っていた。
その奥に、石造りの湯船があった。
湯はまだ湧いていた。
透明に近かった。
濁っているわけではない。落ち葉も、湯気の揺れも、石の縁にこびりついた白い湯の花も見える。
なのに、底だけが見えなかった。
水が何かを隠しているというより、そこから先に何もないように見えた。
真紀が手を入れ、すぐ引っ込めた。
「あっつ」
「入れる温度じゃないね」
「片足だけならいけるかな」
真紀がそう言った。
千尋は顔を曇らせた。
「やめようよ」
「ここまで来たのに?」
私が言った。
千尋は黙った。
私は靴下を脱いだ。
真紀も脱いだ。
千尋は最後まで渋っていたが、結局、ゆっくり靴を脱いだ。
石の縁に腰かけ、私たちは片足だけを湯に入れた。
熱かった。
皮膚が一瞬で赤くなるような熱さだったが、我慢できないほどではなかった。しばらくすると、体の奥からじわじわ温まる感覚がした。
湯は透明だった。
けれど、足首から下だけが別の場所に入っているようだった。
湯に沈めた自分の足が、見えているのに遠かった。
真紀が、温泉の話を始めた。
昔、この町が温泉開発で賑わっていたこと。
この湯も観光用に整備する計画があったこと。
掘削中に事故が起き、何人も死傷者が出たこと。
それでも工事は続けられ、完成したこと。
けれど営業が始まってから、奇妙な事故が相次いだこと。
湯の中で足を掴まれる。
見知らぬ作業着の男が湯船に入ってくる。
湯温が急に上がり、出ようとしても体が動かない。
髪を洗っていると、肩に手が置かれる。
最後には大火傷を負う客まで出て、町が閉鎖した。
真紀は話し終えると、少し照れたように笑った。
「まあ、昔話だけどね」
私も笑った。
「何も起きないね」
千尋だけは笑わなかった。
「そろそろ帰ろう」
その声が、少し震えていた。
私たちは足を湯から上げた。
その時、千尋が一瞬だけ顔を歪めた。
「どうしたの」
私が聞くと、千尋はすぐに首を振った。
「熱かっただけ」
それ以上、何も言わなかった。
私たちは山を下りた。
帰り道、妙に誰も喋らなかった。
舗装された山道に出ても、足首の熱だけが残っていた。
いや、熱いはずなのに、芯のほうだけが冷たかった。
その晩、私は実家の風呂に入った。
母は夕食の時、私の足首を見て言った。
「あんた、どこかで火傷した?」
私は適当にごまかした。
「山歩いたから擦れたんじゃない」
母はそれ以上聞かなかった。
風呂場に入ると、湯気がいつもより濃かった。
古い家の狭い風呂だ。浴槽と洗い場がぎりぎり分かれている程度で、壁は白いタイル。ドアには曇ったガラスがはまっている。
私は体を洗い、頭にシャンプーをつけた。
泡立てた瞬間、違和感があった。
泡が多すぎた。
手に取った量はいつも通りなのに、指の間から泡が盛り上がってくる。
最初は新しいシャンプーに変えたのかと思った。
だが違った。
泡は頭の上から流れ落ち、顔を覆い、首にまとわりついた。
目を開けようとしても、泡が入り込んで開けられない。
鼻にも口にも泡が詰まる。
山の湯は、透明なのに底だけが見えなかった。
今、目の前にある泡は、その反対だった。
白すぎて、何もかもを隠していた。
壁も、ドアも、自分の手も、浴槽の縁も。
全部が泡の中に消えていった。
息ができない。
私は慌ててシャワーを探した。
だが手が滑った。
壁に触れたつもりが、ぬるりとした何かに触れた。
人の腕だった。
冷たい腕。
泡の中から、誰かが私の足首を掴んだ。
強い力だった。
私は倒れた。
洗い場に背中を打ち、声を上げようとしたが、泡が喉に入って咳き込んだ。
足首を掴む手は、私を浴槽の方へ引きずった。
家の風呂は狭い。
ほんの一メートルもない距離のはずだった。
なのに、私は長い長い場所を引きずられている気がした。
泡の向こうで、湯気が見えた。
白い湯気。
山の中の、あの湯気。
熱いのか冷たいのか、もう分からなかった。足首は焼けるように痛いのに、掴んでいる手だけは氷のようだった。
あの作業着の男の頬にあった、火傷の痕を思い出した。
皮膚が焼けた痕。
助かった人間の痕なのか、助からなかった人間の痕なのか、私には分からなかった。
「見るだけなら帰れる」
耳元で声がした。
「触ったら覚えられる」
私は叫んだ。
父が駆けつけてくれたのは、その直後だったらしい。
気がつくと、私は居間に寝かされていた。母が泣いていた。父は怖い顔で私を見ていた。
「何があった」
私は震えながら説明した。
泡。
足を掴む手。
引きずられたこと。
父は眉をひそめた。
「泡なんか無かった」
「でも」
「風呂場にはお前しかいなかった」
私はすぐに真紀へ電話をした。
真紀は出た。
声は普通だった。
「今、シャワー浴びようとしてた」
「入らないで」
私は叫んだ。
「絶対に入らないで。千尋にも連絡して」
真紀は沈黙した。
「何かあったの?」
「いいから。水場に近づかないで」
千尋には電話がつながらなかった。
翌朝、千尋から短いメッセージが届いた。
『昨日から右足が変』
それだけだった。
すぐ電話した。
千尋は出た。
声がひどく疲れていた。
「澪」
「大丈夫?」
「右足だけ、まだあそこにある気がする」
「何言ってるの」
「歩いてるとね、右足だけ遅れてついてくるの。お風呂場に入ると、足首だけ熱いのに、骨の中が冷たい」
私は何も言えなかった。
千尋は小さく笑った。
「だから帰ろうって言ったのにね」
「ごめん」
「うん」
「千尋、ごめん」
「今はいいよ」
その「今は」が、ずっと耳に残っている。
千尋はそれから三日後に死んだ。
風呂場で滑って転んだのだと聞いた。
頭を打ち、病院に運ばれ、いったんは意識を取り戻した。けれど夜になって容態が急変し、そのまま戻らなかった。
千尋の妹から、あとで聞いた。
千尋は死ぬ前の夜、こう言っていたらしい。
「右足が、帰りたがってる」
千尋はあの日、足湯に入っている時、誰かに足を掴まれていたという。
でも私たちには言わなかった。
怖がらせたくなかったのかもしれない。
あるいは、私と真紀が笑っていたから、言えなかったのかもしれない。
千尋は昔からそういう子だった。
川で私が足を滑らせた時も、先に手を伸ばしたのは千尋だった。助けたあとで、怖かったね、と笑う子だった。自分のほうが震えているのに、私の前では平気な顔をする子だった。
その千尋が、怖いと言えなかった。
私たちが、言えない空気を作った。
私と真紀は、すべてを黙っていた。
あの温泉に行ったことも。
千尋が足を掴まれていたことも。
私が風呂で何を見たかも。
「今言っても、どうにもならない」
真紀はそう言った。
私も頷いた。
違う。
どうにもならないのではなく、私たちが責められたくなかっただけだ。
それでも噂は広がった。
田舎の噂は早い。
千尋はあの温泉の祟りで死んだ。
誰が言い出したのかは分からない。けれど数日のうちに、町中が知っていた。
やがて私の両親にも届いた。
母に頬を叩かれたのは、その時が初めてだった。
「あんた、行ったの」
私は答えられなかった。
やがて、私と真紀の家族、千尋の家族、そして温泉組合の古い人たちが集められた。
千尋の母親は、私を見なかった。
見ないことが、いちばん辛かった。
組合の会長は、私たちを見るなり怒鳴った。
「お前ら、あれほど入るなと言われて、まだ分からんかったのか!」
私はそこで初めて知った。
あの温泉には、今の地図から消えた古い呼び名があったらしい。
その土地の古い言葉で、それは「一度目」に近い意味を持つのだという。
一度だけなら戻れる。
二度目は戻れない。
そういう言い伝えがあった。
子どもの頃、私たちはあの湯に近づいた。
でも、触れなかった。
あの時、作業着の男が止めてくれたからだ。
だから戻れた。
大学の夏、私たちは初めてあの湯に触れた。
それが、一度目だった。
「一度目は帰される」
会長は低い声で言った。
「だが、それで終わりじゃない。湯は覚える。触れた足を、名前を、帰り道を覚える。次に水場で呼ばれたら、もう戻れん」
千尋がなぜ先に連れていかれたのかは、誰にも分からない。
けれど会長は言った。
「湯は、人を選ぶんじゃない。戻りやすいところから戻す」
その言葉の意味を、私は考えたくなかった。
さらに母が、昔のことを話した。
子どもの頃、私たちをトラックで連れ戻した作業着の男。
母は、あの人を知らなかったという。真紀の母も、千尋の母も知らなかった。不審に思い、あとで組合に相談したらしい。
事故で亡くなった作業員たちの古い写真を見せられた時、その中に、よく似た男がいたという。
右頬に火傷の痕がある、作業着姿の男。
母は泣きながら言った。
「あの人、助けてくれたんだよ」
私は何も言えなかった。
温泉組合の人たちは、私と真紀に桶を渡した。
古い木桶だった。
中に紙の札が貼られ、墨で何かが書かれていた。
「風呂場に置け」
会長は言った。
「水場に行く時も、できるだけ持て。気休めじゃない。向こうに、まだ戻らんと示すためのものだ」
その時、桶を受け取った真紀の手が小さく震えていた。
木と木が触れて、からん、と鳴った。
私はその音を聞いて、子どもの頃の山道を思い出した。
私の家は、その後すぐに地元を離れた。
父が決めた。
母も反対しなかった。
私は都会へ戻った。
真紀は残った。
家が農家だったからだ。
真紀の両親は、先祖代々の土地を捨てることを拒んだ。
真紀は町に残り、千尋の死と、私が逃げた後の視線を、一人で受けることになった。
私は何度か真紀に会った。
町から離れたファミレスや、駅前の喫茶店で。
真紀はいつも笑おうとしていた。
けれど目の下の隈は濃くなっていった。
「お風呂、入れてる?」
私が聞くと、真紀は笑った。
「シャワーだけ」
「桶は?」
「置いてるよ」
「なら大丈夫だよ」
私はそう言った。
大丈夫なわけがなかった。
真紀はある日、ぽつりと言った。
「千尋のお母さん、この前うちの前に立ってた」
「何か言われたの?」
「何も」
真紀は紙コップのコーヒーを見つめていた。
「何も言わないのが、きついね」
真紀は昔から、調子に乗るくせに、一番大事なところで黙る子だった。
秘密基地の崖を登れなかった私を、笑いながら引っ張り上げたのは真紀だった。手を貸したあとで、澪はどんくさいな、と言う。そう言いながら、私の手を最後まで離さない。
その真紀が、少しずつ誰にも手を伸ばさなくなっていった。
私は慰めた。
励ました。
また会おうと言った。
けれど就職活動が忙しくなった。都会での生活が始まると思うと、地元のことを考える時間が減った。
桶は風呂場に置いていた。
それだけで、自分はちゃんと背負っているつもりになっていた。
真紀から最後に電話が来たのは、冬の終わりだった。
「澪」
「どうしたの」
「桶、鳴るんだよ」
「え?」
「誰も触ってないのに、からんって。風呂場だけじゃない。台所でも、外の用水路のそばでも鳴る」
「真紀、家を出よう」
「出られないよ」
「出よう。私のところに来て」
「今さら?」
真紀は笑った。
泣いているような笑い方だった。
「澪はいいよね」
私は何も言えなかった。
「ごめん」
「謝られると、余計にきつい」
それが、真紀とまともに話した最後だった。
真紀が死んだと連絡が来たのは、内定が出た少し後だった。
葬式には呼ばれなかった。
後から聞いた話では、真紀は風呂場で亡くなっていたらしい。
湯船に湯は張られていなかった。
シャワーも止まっていた。
床だけが濡れていた。
そして、右足だけが真っ赤に火傷していた。
事故か、自分で選んだのか。
詳しいことは知らない。
知る権利がないと言われれば、その通りだった。
ただ一つだけ、どうしても忘れられない話がある。
真紀の家の風呂場には、桶がなかったらしい。
誰かが持ち出したのか、真紀が自分でどかしたのか、それとも最初からそこになかったことにされたのか。私には分からない。
ただ、真紀の母親は通夜の席で一度だけ、千尋の母親が葬式の数日前に家の前まで来ていた、と漏らしたそうだ。
何をしに来たのかは、誰も聞けなかったらしい。
人がどこまで人を恨めるのか。
死んだ娘の母親が、生き残った娘に何を思うのか。
それを考える資格が、私にあったのかどうかも分からない。
どちらにしても、真紀はもう戻らなかった。
それから何年も経った。
私は地元に戻っていない。
両親とも、あの町の話はしない。
風呂場には、今も桶がある。
木は黒ずみ、札の墨も薄れてきた。
何度も捨てようと思った。
けれど捨てられなかった。
風呂に入る時、私は必ず桶を見える場所に置く。
浴槽には浸からない。
シャワーだけで済ませる。
髪を洗う時は目を閉じない。
足首に何かが触れた気がすると、反射的に叫びそうになる。
それでも、ここ数年は何も起きていなかった。
私は少しずつ思うようになっていた。
もう終わったのではないか。
桶が守ってくれているのではないか。
千尋も真紀も、私を許してはいないだろうが、少なくとも連れていくつもりはないのではないか。
そう思いたかった。
ある日、ネットで地元の温泉の話を見た。
地元にある絶対に入ってはいけない温泉。
そんな見出しで、面白おかしく書かれていた。
よくある怪談。
よくある禁足地。
若者が行って、変な目にあったらしい。
コメント欄では、嘘松だの、地元どこだの、温泉入りたいだの、好き勝手な言葉が並んでいた。
私は腹が立った。
あれは、そんな軽い話じゃない。
そう思った。
だから、これを書いている。
昔あったことを、誰にも言えなかったことを、こうして文字にしている。
懺悔のつもりだった。
千尋を誘ったのは私だ。
真紀を置いて逃げたのも私だ。
真相をすぐに話さなかったのも私だ。
全部、私が悪い。
そう書くつもりだった。
けれど、ここまで書いて、気づいてしまった。
私はまた逃げている。
私はまた、自分が祟られている話にしている。
私が何をしたかではなく、私に何が起きたかを書いている。
被害者みたいな顔で。
私は温泉を恐れていた。
湯を恐れていた。
泡を恐れていた。
桶が鳴る音を恐れていた。
けれど本当は、千尋の顔と真紀の顔を思い出すのが怖かっただけだった。
あの時、帰ろう、と言わなかった私。
千尋が死んだあと、本当のことを言わなかった私。
真紀が残されているのを知りながら、都会の生活に逃げた私。
それを全部、祟りという言葉で包んでいた。
そのことに気づいた瞬間、風呂場の方で音がした。
からん。
乾いた音だった。
桶が倒れた音に似ていた。
私はしばらく動けなかった。
今、この部屋には私しかいない。
風呂場の戸は閉めてある。
エアコンもつけていない。
もう一度、音がした。
からん。
からん。
木桶が、床を転がる音。
この音は、真紀の家でも鳴ったのだろうか。
千尋の家でも、あの夜、私には聞こえなかった何かが鳴っていたのだろうか。
私は立ち上がった。
行きたくなかった。
けれど行かなければいけない気がした。
廊下は暗かった。
風呂場の曇りガラスの向こうが、白く煙っていた。
湯気だった。
私は今日、風呂を沸かしていない。
シャワーも使っていない。
風呂場の前に立つと、内側から声がした。
「ねえ、澪」
千尋の声だった。
たぶん。
いや、私がそう聞きたかっただけかもしれない。
「やっぱり帰ろうって、言ったよね」
私は返事ができなかった。
別の声がした。
真紀の声だった。
「足湯だけって言ったよね」
曇りガラスに、手形がついた。
一つ。
二つ。
三つ。
その手形は、内側からではなく、外側から押されているようにも見えた。
私の足元で、桶が止まっていた。
札が剥がれかけていた。
その下に、別の墨文字が見えていた。
私はそこで初めて、桶の内側に直接書かれていた言葉を読んだ。
一度目まで。
それは、守りではなかった。
猶予だった。
湯に触れて戻れるのは、一度目だけ。
私は大学の夏に、その一度目を使い終えていた。
風呂場で泡に呑まれかけたあの夜も。
千尋が死んだ夜も。
真紀が残された日々も。
桶が鳴らずに済んでいたのは、許されていたからではない。
ただ、まだ二度目の形になっていなかっただけだ。
私は今日、書いてしまった。
あの湯を、もう一度ここへ呼んでしまった。
語ってしまった。
思い出してしまった。
自分のために。
懺悔のふりをして。
風呂場の戸が、少しずつ開いた。
中は真っ白だった。
泡ではない。
湯気だ。
山の奥で見た、あの白い湯気だった。
私の足首を、冷たい手が掴んだ。
逃げなければ、と思った。
けれど、その掴み方には覚えがあった。
川で流されかけた私を、千尋が引き戻した時と同じ力だった。
秘密基地の崖を登れずにいた私を、真紀が笑いながら引っ張り上げた時と同じ手だった。
怖いのに、懐かしかった。
懐かしいから、余計に逃げられなかった。
私は最後まで、謝る相手を間違えていたのだと、その時ようやく分かった。
祟りではない。
温泉でもない。
私はずっと、あの二人の前から逃げていただけだった。
湯気の奥で、誰かが言った。
「昔みたいに、三人で帰ろう」
私は抵抗しようとした。
だが、できなかった。
風呂場の奥は、家の風呂ではなかった。
苔むした石段。
崩れた脱衣場。
底の見えない透明な湯。
そして、白い軽トラックのそばに、作業着姿の男が立っていた。
男は私を見て、悲しそうに首を振った。
「戻れるのは、一度目だけだと言ったろう」
その後ろで、真紀と千尋がこちらを見ていた。
二人とも、子どもの頃の顔をしていた。
私はやっと、声を出した。
「ごめん」
湯が、足首に触れた。
熱くはなかった。
ひどく冷たかった。
湯は透明だった。
なのに、底だけが見えなかった。
私はそこへ、戻された。
今回の話は、温泉そのものの怖さというより、「怖いもののせいにして、自分の責任から目を逸らしていた話」として書きました。
入ってはいけない場所、底の見えない湯、風呂場の泡、鳴る木桶。
怪談としての道具はそろっていますが、いちばん怖いのは、たぶん澪自身がずっと分かっていながら見ないふりをしていた部分なのだと思います。
「祟りだった」「怪異だった」と言えれば、少しだけ楽になります。
けれど本当は、帰ろうと言えなかったこと、黙っていたこと、残された友人を置いて逃げたこと。
そこから逃げ続けた結果、最後に“戻された”話になりました。
タイトルの「戻れるのは一度目だけ」は、怪異のルールでもあり、人生の選択にもかかっています。
一度目は戻れても、二度目は戻れない。
見なかったことにできたはずのものを、もう一度自分から呼んでしまった時、逃げ道はなくなるのだと思います。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




